【ひと×ひと】が結局つよい?
今年は雪が降り続いて数年ぶりに地元の南魚沼が大変なことになっている。
1週間前と記憶の中の景色が全くの別物になっていて、驚きと共に悔しさというか無力さを感じました。
なんで南魚沼にいないんだろう、と。
実家も祖父母の家も雪に埋もれていて、体力的にも年齢的にも一番除雪に力を出せる自分は雪のないところで、ただただ心配していただけ。
一日だけ戻って実家の前を少しだけ片付けはしたけど、また帰る頃には雪は積もっているだろうし、祖父母の家はもっと大変なんだろうな思う。
実際にじいちゃんから僕がいるか連絡あったみたいで、いないとわかると残念そうにしてたみたい。
弟が近くにはいるけど、人手が多いにこしたことはない。
その場にいない無力感ってこういうことなんだって改めて思った。
人間、必要とされると嬉しいしそれに応えたくなるもの。
まあこう考えるなら毎日戻ればいい事ではあるとも思う。
ここで話を少し戻すと、実家の雪の片付けはひとりで黙々としていた。
周りを見てみるとあちこちで何人か自分の家の前だけを片付けている人たちがいた。
ひとりで黙々と作業をするのはそれはそれで好きなことだけど、頭の中では「なんかもったいないな」って考えていた。
雪を片付けるという目的はみんな同じはずなのに、協力はせず一人でできる範囲だけを一人で頑張る。
やっぱり一人だとできる範囲も複数人に比べれば少ないし時間もかかる。
これって時間も労力もすごくもったいないと思う。
合掌づくりで有名なあの白川郷は茅葺き屋根の葺き替え作業を集落全体で行う「結」という文化がある。
葺き替えには労力もコストもかかるから村全体で協力しましょう、というもの。
それともう一つ「合力」という文化もある。
災害などが起こった時にはみんなが大変だから協力しましょう、というもの。
どちらも大雑把にいえば「お互いさま」という意味になる。
「結」の方が等価交換の意味合いが強いみたいです。
田舎にはこういった「お互いさま」文化は昔はどこにでもあったと思う。
それが時代が進むにつれて無くなったり、仕事の忙しさで人に頼り辛くなったり、協力できなくなったりしていつの間にか薄れていったのだと思う。
今年はコロナに加えドカ雪で本当に大変な年になってしまった。
100年に一度あるかないかと、数年に一度あるかないか
この2つが重なったことをマイナスの感情で片付けてしまうのではなく、何か意味のあるものだとプラスに考えるのだとしたらそれはきっともっと助け合おうなんじゃないかと思う。
なんの力もない結果も残してないやつが言うのもアレだけど、そう考えて「お互いさま」精神でみんなで協力していけばいいんじゃないかとグルグル考えてました。
結局のところ「ひと×ひと」の力が一番強いことをぼくは知っている。
ぼくが見えていないでけで、助け合いが行われているならそれはそれで嬉しいことです。
その中に加えてもらえたら惜しみなく協力します。
コロナ+雪<ひと×ひと
今年の課題だと一人で考えてます。
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