やさと農業小学校のはじまり(文:板津洋吉)
前回の記事に続いて、父・板津洋吉が、なぜやさと農業小学校の開校を志し、あめにも舎を建てるに至ったのか、本人の記録を紐解いてみました。
前回の記事
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以下、父が残した文章(原文ママ)になります。
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今西先生との出会い
1996年、グリーンチャンネルという農業と食べ物のPRを中心にした番組づくりで、菅井農業小学校に初めてお邪魔し、今西祐行先生の考え方と実践に強い感動を受けました。
土を耕し、種をまき、育て、収穫するという、一連の「仕事」の中に、生命、自然、食べ物、労働といった重要な学習テーマがあり、農業を通して「生きる力」を育むという先生の考え方が、真っ直ぐ、私の体の中心にどっかと座ってしまいました。
「そうだ、定年後は農業小学校をつくろう」
農業団体の一組織でもあるJA新聞連(現在は(株)日本農業新聞社)に30数年勤め、農業小学校を始めるために退職することを決意したのは、50も半ばのころでした。その前から退職後は田舎で農業をしながら暮らしたいと考えるようになっていました。
思い出深い岩手がいいな、いや遠すぎる、秩父はどうだろうか、東京の子らに農業体験をしてもらうなら100キロ圏の近郊かな、などあれこれ考え始めた。そして現地に出掛け、現地の農業を取り巻く環境や交通の便などをチェックして歩きました。
防波堤になれなかった後悔
在職中は、私なりに農業を考え、見てきたつもりでした。この間、日本農業は衰退の一方で、食糧自給率一つをとってもカロリーベースで60%を超えていたものが、今では39%まで低下してしまいました。
一方で国民の食の乱れもすすみ、家庭には“お袋の味”として調理・半調理食品が氾濫し、若者の間ではコンビニ食が当たり前になり、子供たちにはアトピーが広がっています。
命を他人任せという、食文化の崩壊現象といっていいのではないでしょうか。環境ホルモンなどという空恐ろしくなるような環境問題も地球規模で広がっています。
何もしないで、この先を生きることが許されないような気持ちをしております。
日本農業新聞での仕事は、それなりの意義があったかとは思います。しかし、農業と食の崩壊がすすんだことは事実ですし、意義があった半面、崩壊の防波堤にもなれず、もしかすると仕事を通して崩壊に手を貸してきたのではないかという個人としての力量不足、不安が絶えずありました。
そのことに一個人として責任をとる・とれるという問題ではないとは思いますが、心にひっかかるものがあります。
そんなことがうつうつ心に漂っている時に、今西先生と菅井農業小学校に出会いました。
子どもたちが生きる力を育てる
種をまき、育て、収穫し、加工して自ら食べてみる。その体験を通して、親御さんたちといっしょに、子どもたちの「生きる力」を育てる一助になりたい、失いつつある食文化を子どもたちの手に取り戻したい。
そんな気持ちを強くしましたし、そのことを、今西先生と同じように子どもたちと一緒にできたらどんなに素晴らしいだろうと思いました。
この先の人生がまだまだ長いことを考えると、子どもたちと一緒に体験をすすめなければならないと思います。
茨城県新治郡八郷町(現在の石岡市)には、東都生協の産直交流集会が開かれたときや、水田でのヘリコプターによる農薬の空中散布を調べるために何度かうかがう機会がありました。
そこで減農薬栽培や有機農業に取り組む人たちの多いことを知り、自然環境も三方を筑波山系の連なる山々に囲まれて穏やかなことなどもわかり、何度か足を運ぶうちに、農業小学校を開くならここがいい、と気持ちは固まってきました。
いま、特別な気負いはありません。気負ってできることでもありませんし、少し時間をかけても実現したいと思っております。
幸い、八郷町には知人がおり、農協(JA)に勤めております。知人の協力で八郷町に土地を見つけることができ、2001年3月20日、やさと農業小学校をひらくことができました。
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父が残した文章(原文ママ)はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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