第4話 さっそくのアクシデント

 目抜き通りのグランビルストリートに面したホテルは前もって日本から予約しておいた。アンティーク調の、と言えば聞こえがいいが単に古ぼけた宿だ。シングル一泊で六〇〇〇円。この街では一番安い部類にはいる。
 この陽気なのにほとんど光の届かない薄暗いレセプションでチェックインを済ますと、すこし太ったブルース・ウィルスによく似たオーナーに部屋を案内された。荷物を運び入れ、シャワーを浴び一休みした後、僕は街に繰り出すことにした。
 夕暮れの街は昼に比べて人通りがぐっと減っていて、雰囲気がだいぶ変わっている。昼間は気が付かなかったけれど、柱にぐるぐると鎖で括り付けてある自転車は車輪だけ盗まれてしまっているものをいくつか目にし、ブツブツと独り言を言っている明らかにヤバそうな連中も見かけた。油断しないようにしなきゃな…。そう思いながら街を散策した。
 記念すべきカナダ一食目はピザにした。適当なお店に入って注文したピザは、少し冷めていてありきたりな味だったけれど、日本のものよりも大きなピザスライスを、一緒に注文したジンジャーエール(カナダでカナダドライなのだ)で押し込むように食べると、何となく旅の高揚が湧いてきた。

 それから暗くなった市内のアウトドアショップやショッピングモール、少し離れたところにある中華街あたりまで足を伸ばし練り歩いた。夜のバンクーバーは昼とは完全に違う街へ変貌し、そろそろ宿へ戻るか、そんな風に思ってポケットに手を突っ込んだ時だった。
「あ、あれ…?」
 気が付くと財布がなかった。えっ、ない?いつ?さっきまであったはずなのに。最後に財布を出したのはピザ屋だったはず。
 しかしピザ屋に確認しに行こうにも、夜のバンクーバーはもはや全く知らない街に変わり果てていて、どこにピザ屋があるのかさえも分からなくなっていた。そもそもあの時はちゃんとポケットに財布をしまったような記憶がある。そうならばどこかで盗まれた…?
 幸いに財布に入れていたのは現金のみでカード類の一切は無事だった。もちろん旅の初日ということでそれなりの金額が入っていたのだが、もう一つ頭の痛いことを思い出した。宿の鍵をなくさないようにと財布に入れていたのだった。
 ロストバゲージが怖くて日本からの直行便を選んだくせに、ロストバゲージ並みの損害を出してるじゃないか。全く旅の初日から俺は何をやってるんだ…。

 宿に戻り、僕は申し訳ない表情を懸命に浮かべ、ブルース・ウィルスに宿の鍵をなくしてしまったことを伝えた。彼はそり上げた頭といかつい顔をしかめてポンっとスペアの鍵を投げてよこした。
「後で錠前を交換するから六〇ドルな」
 痛い出費だが、僕が悪いのだから仕方ない。それよりも旅の初日に、街をウロウロしてどこかで財布をなくしたという自分が情けなくて、腹立たしかった。
 すっかり意気消沈してしまい、翌日もそのまた翌日も必要最低限の外出はしたものの、気持ちは沈んだままだった。

 四日目の朝。この日はチェックアウトの日だったのだが、沈んだ心はついにどしゃ振りの雨まで呼び出した。
 延泊するべきか。それに天気予報もこれから数日間雨予報だ。いや、延泊するぐらいならそのお金を鍵のお金に回した方がいいのではないか…。
 雨のバンクーバーは途端に冬へと逆戻りした。雨の様子を見に、一度外へ出てみたが、雨粒はとても冷たい。この気温に対応できるように服を着てみると、持ってきた防寒着を全て着込むことになった。
「まだ六月だぞ!?これからもっと寒いところにだって行くつもりなのに、もう着るものがないじゃないか。こんなじゃあ世界一周なんて出来るわけがないじゃないか…」
 まだ走り出してもいないのに僕はますます暗澹たる方へと落ちていった。
そんなウェアを全て着込んだ僕を見かけたブルース・ウィルスが「どこまで行くつもりなんだ?」と話しかけてきた。
「あ、えっと、バンフ国立公園まで行こうと思っているんですけど…。」
 世界一周と答えようかと思ったが、まだ走り出してもいない身だったのでそう答えると、彼は目を輝かせた。
「バンフってことは、そりゃあカナディアンロッキーを越えるってことじゃないか!」
「えぇ、まぁ。あ、でも…」
「でも、今日は延泊しようかなと思っているんです」と言いかけたところでブルース・ウィルスは「ちょっと待て」と奥に行ってしまった。そして地図を持ってきたかたと思えば、道中の見どころを丁寧に説明してくれた。彼の表情に目をやると、これまで見たことのないような笑顔でベラベラと喋っている。カナダの自然がいかに素晴らしいか、友達も同じように自転車で走りにいったこと…。
 初日に鍵をなくしたことで何となく顔を合わせづらい雰囲気だったけれど、なんだ話してみればいいやつじゃないか。彼のいるレセプションを避けるようにしていたこの二日間を少し後悔した。
 そして、矢継ぎ早の説明が終わったと思ったら、彼は僕の左肩をポンッと叩いて言った。
「お前はいきなり運悪く鍵をなくしちゃったけれど、カナダで良い思い出も作ってほしいからさ、鍵代は二十ドルにまけておくよ」
 とうとうブルース・ウィルスは鍵代まで安くしてくれたのだった。
 こんな時になって、やっと彼の名前を聞いた。ブルース・ウィルスはジョンという名前だと知って僕は内心、おかしくなった。ホンモノのブルース・ウィルスの代表作ダイ・ハードの主人公の名前はジョン・マクレーンだからだ。
「Have a safe trip」
 ジョンはそう言って僕より二回りは大きくて分厚い手を差し出した。つられる様に僕も手を出すと彼はグイッと僕の手を強く握りしめた。弱々しく手を重ねるだけの島国の握手とは違う、力強い大陸の握手。手と手を通じて熱い想いが伝わってくる旅の握手―――。
「………」
 なんだか雨で出発を延期しようと考えていた自分がバカらしくなってきた。きっとこれからの長い旅路の中で雨の日を走ることもあるはずだから、避けては通れない道のはずだ。
 それに、ジョンとも話したらお互いのことを知りえたように、状況は自分が動けば変わる。きっと雨も走り出せばいつかは止むはずだ。お前は世界中の生きる力を手に入れるんじゃなかったのか?ふさぎ込んでいては何も始まらない。自分から動かなきゃ世界一周だって始まらないのだ。出発しなくちゃ。
 青いレインウェアのフードを被った僕は、ジョンにお礼を言って再び彼の手を取り、彼に負けないぐらいの力で握り返した。そんな彼に見送られていよいよ僕は旅の一歩を踏み出した。
 冷たい雨がパラパラとレインウェアを濡らす。しかし、さっきまで感じていた寒気はどこかに吹き飛んで、体の奥底からカッカッした何かがこみ上げてくるのを感じていた。

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