暮れることを考える
今日はぶっ倒れていて、寝るだけで一日を過ごした。
昨日までの疲れか、今日は本当は地域の運動会に出るために帰ってきたにも関わらず、頭と身体中が痛くて、運動するような体調ではなく、久々に一日ずっとベッドに突っ伏していた。寝ていると余計に腰が痛くなるというのもあるのだけれど、今日はもうとりあえず寝れるだけ寝ようと決めた。
何にもせずに過ごすというのはあまり得意じゃない性格だが、今回はかなり何度も夢を見ては起きながら、少し起きては水を飲んで、また寝るということを繰り返し、夜中にライドシェアで東京に戻るまでの体力を少しでも蓄えておこうという気持ちでひたすら寝ることができた。
その中でふと、「今日、本当になにもせずに日が暮れていく」と思った。
そして、「それもまた暮らすということなのか」という気持ちになった。
考えたことがある人もいるのだろうけど、「暮れる」ことと「暮らす」ことは言葉としてよく似ているし、よくよく吟味してみればほぼ同じことなのかもしれないと思えるようになってくる。
【暮れる】
1 (暮れる)太陽が沈んであたりが暗くなる。夜になる。
2 (暮れる)季節や年月が終わりに近づく。
3 (暮れる)同じことを繰り返しして、時が過ぎる。あけくれする。
4 悲しみなどで暗い気持ちのまま時を過ごす。
5 どうしたらよいか見通しが立たず困ってしまう。思い惑う。
6 欲望に心を奪われて正常な判断ができなくなる。
7 激しい感情のため、目先が暗くなる。目がくらむ。
【暮らす】
1 日が暮れるまで時間を過ごす。時を過ごす。
2 日々を送る。月日を過ごす。
3 生活する。また、生計を立てる。
4 一日中その事をし続ける意を表す。
並べてみると、同じ漢字を使った言葉だからこそ、本当によく似ている。
「この一年の暮れ」という言葉は、「終わり=最後」を指し、「明けて暮れる」というのは「一日が朝をもって始まり、夕をもって終わる」ということを示している。つまり「今日を暮らす」には「主体的に今日を終わらせる」という、そんな意味が詰まっているような気がした。
「豊かな暮らし」というのは、終わりを迎えたときに「豊かだったなあ」という感想をもって今日を終えることなのではないかと思うし、「田舎で暮らす」というのは、今日の生きる時間を田舎という土地で終えた、という感じの意味でしっくりくるような気がした。
毎日毎日、最後の時間を迎え、最後の日を待つように過ごす。
暮らしというのは、案外そういうもんなのかもしれないと思った。
「一緒に暮らそうよ」というのは、人生の終わりのことを考えれば、一緒にこの人生を生きて死んでいこうかというお誘いということかもしれない。
ある意味では「過ごす」という言葉もまた、今日も少しずつ終わっていく生きる時間の砂時計の砂が落ちていく様を、「今日もまたすこし砂時計が減ったね」という気持ちで一緒に過ごすことなのかもしれないなあ、と。
なにかをバタバタと為したり、誰かの嬉しい時間をつくれたりすると、今日を豊かに過ごしたような気持ちになることはあるけど、同じ時間をベッドに横たわって過ごしていくこともまた今日を生きて終わりに近づいたことになるし、とにかく息をして今日を生きる、それだけで日々は過ごされていく。
まあ、なにもしないと言っても、我が家はシェアハウスだし、挨拶をして、一緒にゴハンを食べたり、会話したりして、屁をこいて寝るのである。
「どんな暮らしをしたい?」っていう問いは、「あなたは今日の終わり方を、人生の終わり方を、どう選択したい?」っていうことかもしれない。
それがあまり自分にとって心地よいものではないなら、「それじゃない」と明確に意思を示して離れない限りは、嬉しい選択にはならない。
もしくは、せっかくそこにあるものの価値を見直して、喜んで味わうしかないかな。そこにあるものは、きっとなにか価値があって、今日の体調の悪さだってきっと、よい気づきをもらうためのきっかけでしかないはずだし。
というわけで今日も立派に暮らした。
ひとはな亭で美味しいラーメン食べた、贅沢した。