インドの気付き①積極的な受動性で生きる
さて、今日もことあるごとに合掌して生きている。
noteのプロフィールも基本的に合掌していて、僕もリアルで合掌して生きているので僕はわりと合掌して生きる時間が増えてきている。感謝して合掌。
ブログの内容も「古民家こまった」に囚われることもせず、最近気づいたことやら、言葉にしてみたいことを書いてみることにできるようにした。
こういうところ、誰に対してなのか知らないが、適当なくせに意外と律儀なところを持っているもんだなと、こうして何かを文章にしながら気づくのだから、なんでも書いてみたらいいもんだなと思うところの一つである。
さて、ここ最近の気づきの話であるが、インド旅をしていく中で得たものを、とにかくひたすら言葉にするということを続けている。
実感を込めて言い切れるものだが、本当に直感で得たものをすぐに言葉にすることはとても難しいし、たぶん無理だと思う。そして僕には無理。
だから誰か聞いてくれる人に話しながら、
「とにかくそのときそんなことが起こって、そのときそんな風に感じたような気がしたんだけど、いまこんな風に思っていて、それってつまりは、こういうことなのかも知れないって今は思う、いや、実際はわからんけどね。」
という、要はあんまり頭の中で全然整理されてないことを、ウンウンフムフムナルホドナルホドなんて言いながら、安心した雰囲気の中で聞いてくれる人がいることがとても重要だと思っている。とにかくふわっとしたことでもぜんぶ受け止めて聞いてくれる人がいるなら、その人に話さない手はない。
そして、私はそれをどう感じた、どう受け取った、どう理解した、もしくはここがとても気になる、それってこういうことかな、それはこうだと思う、僕の場合は、私のケースでは、などと実例を伴って、世の中で起こっている色々な物事や人の経験や解釈と結びつけていく中で、それは結局はなんだったのだろうということを確かめていくものなんだろうなと確信している。
つまりは、気づいたことの本当のことが自分でさえちゃんと言葉にできるのはとても時間のかかることであって、それに対して、うまく話せないうちはあまりちょっと言えないな〜なんて言っていると、結局はよくわからない、ということにもなりかねないとも思う。
とにかく口に出して、紙に書いて、いまの頭の中で明らかに自分を刺激し続けている、そしてワクワクなのか、ガッカリなのかさせ続けている考えは、何なのか、なぜなのか、どうしたいのか、なんてことを言ったり書いたり、そしてそれを見てまた整理していく中で徐々に頭の中に整っていく。
そういうふうに思っているので、とにかくインドから帰ってきて、毎日毎日どこかで自分がいま何を感じているのか、どんな気持ちで生きているのか、そして何を得たと思っているのかをどんどん話して言葉にしているのだ。
ひとつインド旅で得た気づきの中で明らかにまとまってきた部分がある。
それは積極的な受動性をもって生きていこうと決めたことである。
誰かと話している中でピーンときたように思う。積極的に生きることはやめないし、生きる限りはこの時間にできることを大切にすることはやめない。
ただし、なにかを為したいという気持ちが少し、いや随分と落ち着いてきたことを実感している。だから、いまはなにか目的を定めて行動するよりは、世の中に起こる兆しに目を向け、それに従って生きていこうと思っている。
それは自分が能動的=作為的に、なにか自分の状態を変えたい、進めたい、動かしたい、という気持ちで生きてきた自覚が自分にはかなりある。
だからこそ、そのスタンスをこれから受動的=無作為に、流れに任せることにしたということだ。もうなにかを為そうという気持ちは減りつつある。
とはいっても、最近もともとその傾向は強かったのだが、起こったことをそのまま感謝して受け止め、そしてなにも起こらないなら、それはきっと今起こるべきことではないという風に考えていくスタンスに、より強く振り切っていこうと決めたということだ。
積極的であることと、能動的であることは結びつきやすいと思う。
積極的は能動的であること、また消極的であることは受動的であることとはほぼ一緒のことのように思われがちだが、積極的と消極的、そして能動的と受動的はそれぞれこんな風に4つ分かれると考えている。
・積極的能動性
・積極的受動性
・消極的能動性
・消極的受動性
調べてみたところ、なんとものすごく便利なサイトがあるものだ。
ほんとこういうの調べるとすぐ出てくるからすごいね。
さてこれがどうだ、定義がこうだ、ということはさておき。
まず消極的能動性というのは結構あるよな〜と思っている。
それは「恐れ」からやってくる、こうしなければならないんじゃないか、不安に対してどうにかやっておくべきじゃないか、という感覚のそれである。
それは決して自分がやりたいことではないのだが、不安に対してできることを考えて、とにかくすべきこと、しなければならないこと、として考えて、焦ったような恐れの気持ちで未来に備えて行動するようなこと、これを消極的な能動性のイメージとして僕は捉えている。
気持ちとしては、決してやりたいわけではなく、嫌々やっているのだが、世の中のために、未来のためには、自分が犠牲になってまでやらなきゃいけないんだという、そんな義務感が伴うような感覚。
一方で、積極的な受動性をもって、なにかあればいつでも動けるように心の準備をしておくこと、というのは、自ら望んで世の中にできることにいつでも全力で応えるような態度で待機するということをイメージしている。
しかも、きっと自分にも誰かにも世界にとっても、起こることが起こるべくして起きている、ということを真剣に信じていくことで、なにが起こってもその中に内在する意味のうち、必要なものをとり出せるような積極的思考がそこにはある。それがいいよなーと感じている。
インドの旅の中で、クンバコナムもそうだし、オーロヴィルも、ティルヴァンナマライも、アルナーチャラ山も、カニヤクマリも、ぜーんぶ聖地だったという奇跡的な状況に見舞われた。
しかも、クンバコナムに来るきっかけになったカルマ解消の話はゆかりからアガスティアの葉を見るきっかけをたまたま作ってもらえただけだし、オーロヴィルは藤原くんに勧めてくれて、ティルヴァンナマライは景俊さんが勧めてくれて、最後にカニヤクマリは電車がどうしても遠回りをしないといけなくて、しかも時間を持て余すほど余裕があったからこそ足を運んだ。
インドの旅において唯一と言っていいくらい能動的であったことは、もしもレッドバナナを見つけたら必ず食べようということくらいで、これも必死で探していたわけでもなく、ある意味で積極的受動性であったとも言える。
結果的にはとてもいいことがいっぱいあった。むしろ、自分の旅先で出会うもろもろをすべて自分にとって必要なことであると信じ、そのことを有難く受け止めることができたことで、どんなことに対してもとても前向きにかつ感謝の気持ちでそのことを迎え入れることができた気がする。
しかも作為的でないことの良さは、自分にとって都合の良いことを思い浮かべて期待値を持つということがなくなる。そのため、なにが起こったとしても期待を裏切られることがないので落胆することがなく、起こるどんなことにも意味を見出して、その意味に自分の生き方をうまく意味づけることで、作為的なときにはみつけられなかった不思議な兆しを感じることができた。
自我=エゴというのは、自分が身体と魂において個別で生きる存在として、自分にこだわり、自分がなにかすごい存在、価値ある存在、重要な存在になろうとして一生懸命になる。
そのことがさも最も良いことであるかのように、いろんな価値を生み出せる人になれ、生産性の高い人材になれ、と誰かが言い続けているが、そのことが生きることを苦しめるほどに重要視されなくてもいいと思っている。
そこまで人を不安を煽るほど自我に執着しないといけない、という思い込みなど捨ててしまい、自分という存在にこだわり過ぎずに、ただ自分がひとつの流れの中で心地よく生きていく方法を理解し、その流れに逆らうことなく生きていくことはできるのだと思い至ったように感じている。
積極的に待つこと。いつでもなんでも受け入れ、自分になにか必要な気づきが得られる大切なタイミングだと思い、無作為に、しかも一生懸命に生きていくことはとても嬉しい気持ちで生きるためにとても大切なことだったと、これから先の人生で何度も思い返すような、そんな気づきだったと感じる。
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![よこたいたる(お葬式研究家/呼吸の習いごと主宰)](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/9273304/profile_4a7983a0438d0b342dc5fe5a87aec1bd.png?width=600&crop=1:1,smart)