なんでもないけど大事なこと
今日は、春の草刈りが一旦目途をつけられました。
まあほぼ和田さんが全部やってくれたわけなのですが(苦笑)
そのあと、シェアハウス仲間たちと夏野菜を植えるための畝を立てることが決まりまして、とりあえずは土を耕してみると固いので、ちょっとこのままだと根っこが育ちづらそうなので腐葉土を入れて土を少し柔らかくしようかということになり、買い出ししたので明日あたりは腐葉土を混ぜそうです。
また昨日からきている息子たちですが、次男がなんと本日17時提出予定の宿題のうち、4月28日~5月7日を想定した宿題の2割くらいしか終わっていないということに気付いたのが、今朝9時のこと。
元嫁さんから怒りの電話が入り、「まあまあ、宿題はなんとかするから」ということで一旦おさめ、次男と話をつけて、「必ず今日中に終わらせる」という約束をして朝から徹底的に宿題を終わらせるのに付き合っていました。
一方で長男のほうは、中学校の準備として小6で勉強させてもらっていた英語がなんだか苦手意識があるとのこと。それじゃあ僕の家に滞在している間にちょっと英語のことが好きになるような時間にしてみようと思い、まずは一緒に教科書を読みつつ、どんな苦手意識があるのかを探ったりしました。
でも一緒に読んでみると、音程を取るのが上手な長男の良さが活きて、発音について文句をいうべきことが非常に少ない。まだ文字と発音が連動していないだけで、いくつか英語特有の読み方を体感的に学ぶことが出来れば、なんてことなく英語が得意科目になりそうだと思えました。
今日は調子に乗って、(まだ文法もそれほど難しくないので)11ユニットあるうちの4ユニットまで一気に終わらせてしまい、「ぼくできるかも!」という気分になってくれたようです。明日あたりで4ユニットくらい終わらせることが出来れば、3日で1年分の教科書マスターできるかもしれへんな、なんて言ってます。うまいこと自分の苦手意識を払拭してほしいです。
あとなんとなく、長男が「間違えちゃいけない」「笑われちゃいけない」と思って、できるだけ間違えないように、予め間違えそうな答えは言わないようにして答えるのを避けようとしていることや、それを間違えたらものすごく苦しくなって涙ぐみそうになっているのを見ると、どこかで刷り込まれた「間違ってはいけない」という気持ちが積みあがっているのも発見することが出来ました。
これはもう、光の速さで失敗を続けているぼくの息子らしくない、ものすごくもったいないことだなと思いまして。彼が間違ってもなんともないようにどうにか失敗を怖がる気持ちを、すこしでも減らせるように、なにかしらの関わりが出来たらと思うのでした。
今日はそんな感じで息子にとって英語が得意科目になるかもしれない、人生のなんとなく大切な一日になるかもしれない、普通の一日が過ごせました。
ふと買い物の途中に、会社でお世話になっている先輩からメッセージが来て、2年半ほど前の入社間もないころにお世話になった方が、長い闘病の期間を経て、今日病気で亡くなってしまったということを伝えてくれました。
自分の年齢が徐々に重なり、そしていろいろと知り合いが増えてくると、毎年かならず亡くなってしまう方が出てくるような人生となってきました。
たしかまだお若いお子さまがいたはずで、ご本人にとっては本当に無念だと思います。そしてとても心配だと思いますし、なによりも、その成長を長く見守ることが出来ないことが残念で堪らないことだろうと思います。
小学校くらいから、ずっと、そして大学一年生ぐらいからは特に強く、常に「いま死んだらどうなるのだろう」と「いま死んでも後悔はないだろう」と考える癖があり、ずっと変わることがありません。
そして自分の近しい人が逝くことになるたび、いつも「白骨の御文章」を思い出します。それはぼくもまた祖母を亡くしたときに出会い、仏教に対する想いを明確に変化させてくれた一文だったからです。
それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。
されば、いまだ万歳の人身をうけたりという事をきかず。一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。
されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。
すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李のよそおいをうしないぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。
さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくりて夜半のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あわれというも中々おろかなり。
されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
解説文は諸々ありますが、
人のいのちは本当に儚く、誰のいのちも必ず長くは続くことがなく、本当に急に死んでしまうものです。その死をどれだけ嘆いたとしても、なんの甲斐もありません。あまりに悲しい。だからこそ、その事実を知ったあなたが、今日をいかに大切に生きるのか、それがすべてです。
そういうことだと解釈をしています。
最近はついついそんな気持ちが根底にあってか、自分のいのちの使い方はこれでいいのかな、後悔がないかな、なんてことを思い過ぎてしんどくなってしまったりするくらいでしたが、まあしんどくなっちゃ余計に活動することがままならなくなり、結果的にさらに落ち込んでしまうものです。
今日のように、わずかでも息子たちに関わり、彼らと過ごす時間の豊かさにしっかりと思いを馳せることが出来ればと思っています。
故人の冥福をお祈りいたしますとともに、自分にもいつか必ず来るその日を覚悟し、改めて自分のいのちをしっかりと活かしきれるよう、悔いなく生きようと思います。
急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。