すべきなにかとは誰がつくるのか
なんだか、とても難しい問いだなと、自分で考えながら思う。
それは直感的には「人」だと思っている。人がすべき何かを作っている。それは何かをしなければ、どうにかなってしまうことに対する不安があるから、すべきという強い念を持って人に強く迫る。
すべきことというのはなんだろうか。なぜそれをすべきなのか。それは本当にすべきことと言い切れるほどに断言できる絶対的な価値観なのか。
すべきことをしないことから生まれる感情は、「不安」や「後ろめたさ」になるだろうか。将来に対する備えや、とある役割において果たすべき責任に関する事柄が、すべきことを生み出しているのではないかと思うから。
仮に将来に対する備えを放棄した場合はどうなるだろうか。生きづらくなるということになろうか。そして最終的には、このルールが成り立たせる世界から弾き出され、死ぬことを押し付けられるのだろうか。
今の制度的には、やってはいけないという行動の方が、むしろ社会的に制裁を加えられるようにも思う。罰を受けて死を与えられることなることも。
役割において果たすべき責任を放棄した場合はどうなるだろうか。役割には責任とともに権利や保障が与えられることが多いので、その責任を果たす限りにおいて得られる権利や保障を剥奪されるということになろうか。そして最終的には、その役割を付与する権限のあるコミュニティ・組織からの追放という形で弾き出されてしまうだろうか。
この場合も、やはりやってはいけない行動の方が、むしろ組織的には制裁を加えられることが多いかもしれない。死を与えられることはなさそうだが。
そうか、なんとなく明らかにしていこう。まず、すべきことは「何かを奪われないため」にすることになっているのかもしれない。何かをもらう条件があって、その条件をクリアする限りにおいて、そこでなにかしらを得て良いという倫理観や規則に基づいたものの中で判断を下される。
とある倫理観において「すべきこと」と「すべきでないもの」は判断されるし、とある規則において「すべきこと」と「すべきでないもの」が裁定されて、その「為した」「為さなかった」ことによってなにかを、与えられたり奪われたりするということだ。
なるほど、そうか。自分でそのルールをつくった場合を除き、それはきっとだれかに判断を委ねているということだ。そしてそのルールに従うということを受け入れ、そのルールの中にある権利と保障を得るために、すべきことはして、するべきではないことをしない、ということを判断していくのだ。
そうだ。やっぱりこれはそうだ。
人が「すべきこと」をつくったんだ。
だからそれは真理ではない。
だから絶対とは言い切れないものだ。
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