一切皆楽にしていく
一切皆苦という言葉があります。仏教の根本的な考え方をシンプルにまとめた四宝印という考えの、4つのうち1つにあたります。
一切皆苦というのは、苦をシンプルに苦しみのことと解釈する人ももちろんおられますが、苦=思い通りにはならぬもの、という解釈をすることが最も自分にはしっくりきています。
一切皆、つまりすべてのことが、苦=自分が思いどおりにすることができない、のだということ。人はついつい生きていると自然に執着していって、自分が思い通りに進められないのが苦しくなってしまう。
そんなネガティブな・・・と感じる方がいても、なかなか否定ができない。なぜなら事実としてはそうだったりするから。世の中は思い通りにはならないことばかりであり、それは執着と結びつくので、それが苦しくなる。
今日はずっと、なぜ僕らというのはバラバラなんだろうということについて考えておりました。生まれる前にはどこにいたのかと考えると、ちょっとくらい宗教をかじれば、みんなほぼ同じようなことを言っているとわかる。
どこからきたといえば、なんかでっかいなにか。そこにはみんながいて、ずっと僕らは一緒にいて、一緒にいたというよりもひとつだったと言われる。
僕らはすでにバラバラで生きているのが当たり前すぎて、そんな一緒だったと言われても全然ピンとこない。しかし死ぬことを考えると、なんとなくわからなくもない感じがするかもしれない。なぜなら僕らはいなくなったら、どこにいくんだろうって考えることも自然なことだから。
過去を思えば、僕らはいなかった。
現在を思えば、僕らはバラバラだが生きている。
未来を思えば、僕らはいなくなる。
僕の解釈はこうです。
過去を思えば、僕らはずっとひとつだった。
現在を思えば、僕らは実存でバラバラだが本当はひとつだ。
未来を思えば、僕らはまたひとつだ。
じゃあ、なんで僕らは実存でバラバラに存在しているのか。そこに意味を付けようとすると苦しくなる第一歩だなと僕は思っていまして、そのため、僕は生きていることに本当に意味をつけようとは思っていなかったりします。
ですが生きていく上での解釈は自由だなと思っています。生きる意味を自由に解釈ができる前提で、僕は今日ずっとその解釈について考えていました。
そして表現が自由にできる時間の中で、僕らはそれぞれが自由に表現してこの世の中を多様に味わえるようバラバラにいると考えたい、と思いました。
僕らが全く一緒だったら多様さは感じられない。僕らは五感と意志に縛られた存在ですから、僕らはこの五感と意志によって感じることができる制約の中で時間を過ごして、死ぬまで生きることが定められています。
そうした感覚を持ち、さらに身体に縛られた個々では、この世の中で全てを表現しきれないという特徴を持った存在でもあると思います。だからみんなそれぞれがそれぞれの人生観を経て、自分の得意領域で一生懸命に生きていくという表現方法でもって、生きることを表現し尽くすのだろうな、と。
それはバラバラだから味わい深い。予想もつかないような景色や体験を味わえるのは、自分という制限を超えて表現してくれ他者が生きていてくれるからだし、それぞれがそれぞれで生きて表現してくれている。
それはもうその人以外は誰にも表現できないアート作品。それがこの世の中にはたくさん溢れていて、それをこっちが期待したり、予想したり、思い通りにしようとすると苦しくなるんだってことなんだと思ったのです。
この世の中は多様でバラバラであることを避けられない。みんな違うし、みんな本当は根本的にはひとつだとしても、過去はひとつだとしても、未来はひとつになるとしても、感覚的には現在僕らはバラバラな感じがしている。
バラバラで相互が理解できないことや、分かり合えないこと、分かってもらえないこと、そのことによって寂しさや争いが起こっているけれど。
多様であることを、バラバラであることを、みんなが違ってくれていることを、表現が多様にあるという事実だけがあるこの世界を、つまらない、腹立たしい、期待外れ、と思い始めることでこの世の中は苦しいものとなる。
そうじゃないんだと。過去もひとつ、未来もひとつ。実は現在も根本的にはひとつでしかない僕らが、バラバラである意味を、苦しみだなんて捉えることなく、面白さ、楽しみ、味わい、嬉しさだと捉えたらいいんだろうなと。
そうしたらきっと、苦=思い通りにならない、ということが、楽=思いもつかないことが起こる、というふうに解釈していけるんじゃないかと。
一切皆苦、は同時に一切皆楽に転じる可能性を常に秘めているのだと。
そんなことを今日は思いました。