結果にこだわらなくなってきた
そういうことをいうと、真剣にやらないのではないかという誤解を招きがちな表現になるけれどもそうではない。むしろ結果は多分その方が出せてる。
どういうことかというと、結果にこだわろうとすると、結果を気にして緊張してしまったりすることがあって、出せる結果も出せなくなってしまうことってよくある話だ。それはなぜそんな風になるのかというと、いまやるべきことに集中する心が削がれてしまうからだ。
どれだけ焦ったところで、結果につながる行動はいまの積み上げでしかないので、焦ったり、心配したり、不安になったりするだけ、いまここで求められる集中力が欠けている状態で物事にのぞむことになる。
だから結果を求めたい気持ちは若いときにめっちゃあったが、焦って焦って必死だったし、それは若い時にやっておいてよかったなと思っている。まだ37歳なので若いっちゃ若いが、もうおじさんっちゃおじさんなのである。
だからこそパフォーマンスを出せたときもあるし、出せなかったときもあるし、それからも人生が続くという現実を知ったときに、無理をして短期的な結果を求めることはそんなに大きな意味はないと感じるようになった。
長期的な取り組みの中で、粘り強く、またなによりそのときにある状況における最善を積み上げることこそが、そのときに生まれる楽しさも充実も、あとで感じる自負や自信なども、そして結果にもつながっていく。
まあ、それでも結果にこだわり続けていく人生もいいと思う。
ただそれが僕にはあまり面白いものと思えなかっただけのことで。
能動的に生きてきたように思うぼくは、これからは求められたことで最善を尽くす、ということで生きていくことに興味があるらしい。
急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。