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問題を「分離する」ということ
「誰かの相談に乗っているうちに、ついつい相手に介入をしていってしまう…」
先日、友人からそんな相談を受けました。
相手からは「余計やお世話だ」と思われてしまっているかもしれないし、実は相手が介入を断ることを躊躇ってしまい我慢していて、そんなことを繰り返して行くうちに相手はそれとなく距離を置こうとしているようにも感じられる…
でも、「なんとかしてあげたい」という気持ちを抑えることができない…
そんな状況に陥っているようでした。
優しい人なんだなと思いました。
相手の迷惑にならないように助けてあげたいのだけれど、人によっては助けてもらうこと自体が嫌であったりする…でも、相手一人じゃうまくいかないのが見えているので歯痒いようなモヤモヤを抱えてしまい、払拭できないその感情に悶々と苦しんでいるのです。
友人の話を聴きながら私は、この状況を起こしている心の構造のようなものに想いを巡らせ、考え始めていました。
相手の問題が自分の問題になってしまう
私はよく人から相談をされます。
相談しやすいからなのかなと最初は思っていました。
でも、色々な人の相談に乗っているうちに見えてきたのは、どうやら「相談しやすいから」ではなさそうだということでした。
…まぁ、よく考えたら私は近寄りがたい雰囲気を出している時があるらしいので、相談しやすいなんてことはないはずなんですけど。(笑)
「冷静に判断してくれそうだし、いろんな人の相談に乗ってそうだから」
と相談に来た人から相談する理由として伝えてもらえることがあります。
そっちなのかーとか思いますけれど、確かに私は相談されてもあまり相手の問題に踏み込んで行かないかもしれません。どちらかというと、一歩離れたところから客観的に分析してコメントしてるような感じです。
相談に乗ってるうちに「なんとかしたくなる」人の気持ちはとても分かります。
ですけれど、行動するのは自分ではありませんし、行動するかどうかも相手が決めることです。それに、こちらのアドバイスに沿ってやってみてうまく行かなかったと言われても責任持てないしなぁ、とか考えているかもしれません。
私のような考え方と正反対の人がどう考えているかを考えてみると、「なんとかしたく」なって相手に介入してしまうのは、相手の問題がいつの間にか自分の問題になってしまっているからなのかなと思います。
どういうことでしょうか。
例えば、「つい、誰かに余計に介入してしまう」という誰かの悩み(問題)を聞いたときに、「相談に来ているのだから、この人が他人に介入するのをやめさせなければならない」という自分の問題になってしまう。
そして、一度自分の問題として自分の中にある状況になると、それを片付けないとどうにも気持ちが悪くなってしまう…というわけです。
こんな風に、いつの間にか誰かの問題が自分の問題となってしまう、ないしは自分の中にある何かの課題と同化してしまうのは、相手との関係性が深く影響しているのではないかと私は思います。
言い方を変えると「相手とのしがらみ」があるからではないか、と。
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関係性(しがらみ)があるから分離ができない
おそらく、私が相談を受けても介入しないのは、相手との間に「しがらみ」がなく、相手の課題や問題が自分に影響をすることがないからなのでしょう。
もしも自分の親や家族からの相談であれば、「なんとかしなくちゃ」と思って積極的に介入すると思います。介入せざるを得なくなってしまうのは、家族一員の問題はなんらかの形で自分に影響を与えてくるからです。
そういったしがらみがなければ、他人の問題が自分を侵食してくることはないですし、放っておいても困ることはないでしょう。
おそらく、私のような人間と、介入したくなってしまう人間の違いの原因の一つはこの辺りにありそうです。
つまり、相談者は私よりも相手との関係性が深く、「しがらみ」レベルになってしまっているので簡単に断ち切れない。
ちなみに、「しがらみ」という言葉の意味について、その語源と現代的な意味をPerplexityに聞くと次のような答えが返ってきました。
「しがらみ」という言葉は、以下のような語源と現代的な意味を持っています。
語源
- 「しがらみ」は元々、川の流れをせき止めるために杭を打ち、その間に木の枝や竹などを絡ませた構造物を指していました。この構造物は水流を制御する役割を果たしていました。
- 漢字では「柵」と書きますが、これは「からみつける」「まといつける」といった動詞「しがらむ」から派生した名詞です。
- 古くは『万葉集』にも登場し、当時は「何かを留めるもの」としてプラスの意味合いで使われていました。
現代的な意味
- 現代では、「しがらみ」は人間関係や社会的な束縛、煩わしいつながりを指すことが多く、マイナスのニュアンスで用いられることが一般的です。
- 例えば、「義理のしがらみ」や「世間のしがらみ」という表現で、自由を妨げる要因として語られることがあります。
- 一方で、かつては「悪化するものをとどめる」というポジティブな意味も持っており、その名残が一部の文脈に見られます。
このように、「しがらみ」は歴史的背景とともに意味が変遷し、現代では主に人間関係や社会的制約を表す言葉として定着しています。
「しがらみ」という言葉以外に、「親身」という言葉もありますね。
親しい身内のように感じていると相手の痛みも自分ごとのようになってゆきます。それが他人の問題を自分の問題として取り込み同化させる…
相手のことを一心同体のように感じていれば、相手の問題が自分の問題となってしまうのはむしろ自然なことなのかもしれません。
それが家族であっても親友であっても。
逆に、相手との関係性が切りやすいのであれば問題の分離は容易いのでしょう。
でも、そうならないのはもう一段階別の「分離」が必要だからではないかと私は感じています。
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問題が自分自身になってしまう
他者の問題が自分と分離できなくなる理由のもう一つは、問題が自分自身になってしまう錯覚を起こしているからではないかと私は考えています。
ちょっと分かりにくいでしょうか。
問題が「自分事」になってくると、それを解決できないことは自分を否定してしまうことにつながるという言い方をしても良いと思います。
そのくらい問題が自分に貼り付いてしまっていて、「問題を解決できないダメな自分」あったり「相談されても役に立たない人間」になってしまう…
そうやって問題が自分と繋がってしまうから「気持ちが悪い」…
なんとかしたくなってしまうのは、この感覚があるからですね。
他者の問題を聞いてなんとかしたいと思ったならば、まず、問題と自分とをなんとか切り離さなくてはいけません。
英語ではよく、「It didn’t work, but I’m okay.」といいます。辞書的な訳では「うまく行かなかったけれど私は大丈夫」みたいな強がり的な取られ方をしてしまいますけれど、真の意味は「うまく行かなかったけれど、それは私とは関係なく、いつも通りだ」的なニュアンスです。
これが問題と自分が切り離されている状態です。
相談を受けて、ひとたび他人の問題が自分の問題のようになってしまったら、自分自身と繋がってしまっている状態を解除する必要があります。
友達の相談に乗って力になることができなくても私には影響はない。
こう書くと何か無責任で冷たいように思うかもしれませんけれど、当たり前の自己防衛だと思います。
それが友達からの相談事でなかったとしても同じことなのですが、問題と自分を切り分けることは主観的ではなく客観的な判断をする上でも最初の一歩になると思います。それができるから冷静な判断ができる。
そして、それができて初めて、自分から問題を切り話して相手の問題として扱うことができるようになります。
このように、問題の自分からの分離は二段階で行わないといけないのかな、と。
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問題ではない、と考えてみる
もう一つ、別の思考アプローチもあるかなと思います。
それは、相手が相談してきていることを「問題」と捉えるのではなく、「チャンス」だと考えてみることです。
そうだと伝えると悩んでいる相手は反発するかもしれないので、あくまでも自分の頭の中で問題からチャンスに変換をするだけなのですが、これが意外と効果があります。
第一に、相手の話を関心や好奇心を持って聞くことができるようになります。
どこかにチャンスがあるはずだ、と聞いているわけですから。
第二に、自分側に問題がやってくるのを「遠慮」することができます。
問題ではなくチャンスなのだとしたら、それを自分のものとして取り上げるのは優しさではなく泥棒になってしまいますから。
自分が介入することで相手の問題はなんとかなるかもしれません。
でも、それは相手が自分の力で問題を乗り越える快感を味わうチャンスを奪うことになるのかもしれない。
そう考えれば介入することを踏みとどまれるのではないでしょうか。
この考え方はコーチングやエンパワーメントをするときにも言えることだと思います。
誰かの問題が自分に貼り付いて、なんとかしてあげたくなってしまうこと。それは相手のことが大切だからこそ起きることなのだろうと思います。
でも、相手は自分とは異なる別々の存在。
相手の痛みを肩代わりするのではなく、自分の力でそれを乗り越えることができるように脇から関わる、あるいは見守ることの方が相手のためになることは多いのではないでしょうか。
そして、それが相手を尊重すること、でもあるのかなと私は思います。
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