三種のキャリアショック
自身の職業人生を振り返ると何回か大きな転機がありました。
転勤、転職、転社。いずれも経験があります。
何か変化するのかはそれぞれ違いますけれど、変化が起きる中で今までの自分の能力や経験が通用しなくなることがあります。それがキャリア・ショックです。
その時その時は必死で大変な想いをしてましたけど、それらを経験できたことは自分にとっては財産になっているなと今は思えます。
どんな経験であり、そこから何が学べたのか、自分自身の糧となってるのかについて振り返ってみようと思います。
転勤
サラリーマンである以上、会社から言われて勤務地を変わるのは良くあることです。
私の場合、出身は東京でしたが新卒で採用された会社での赴任先は大阪でした。社会人として初めての仕事は営業でしたので、関西でセールスをしていたのでした。
関西には6年いて、仕事では畿内6府県と北陸3県を担当し、最終的には中四国まで含めた13府県をテリトリーにしていました。
住む方は前半の4年弱は兵庫県の芦屋、後半は大阪府の吹田市に居ました。
東京の親元を離れての一人暮らしでしたが、独身貴族を存分に楽しみましたし、13府県も担当しているので出張もかなり多く、各地域の特徴や名産、住む人の人柄の違いを楽しんでいました。
仕事も最初の3年で慣れて任せてもらえていましたし、関西での友人も増えて楽しく過ごしていたと思います。
そして最初の転勤で東京に行くことになりました。親元にはもう私の部屋は無くなっていた(弟が使っていた)ので私は東京で一人暮らしを継続することになりました。親元に住まないとなったら会社も転勤扱いにしてくれて社宅に入れたので、家賃負担が関西にいた時よりも軽くなりさらに独身貴族を謳歌し続けることができたのでした。
プライベートの充実とは裏腹に、仕事では大きな変化に直面していました。
今思えば、プチ・キャリア・ショックだったと思います。
そのショックとは、関西と関東のビジネススタイルの違い、でした。
これは東西を行き来したことがある人であればピンとくると思います。
私の場合は営業でしたので、お客さんへのアプローチの仕方が全然違うことに割と早い段階で気づきました。
簡単に言うと、関西は「お客さんの懐に入る」売り方、関東は「お客さんに理由を与える」売り方になります。
誤解を恐れずに言い方を変えると、信用で買ってくれる関西とロジックで買ってくれる関東、とも言えるかもしれません。無論商売には両方必要なのですが、なんというか順番が違うのです。
最初はこの違いがわからず、かなり戸惑いました。
私は6年間の関西の営業で、商品の説明をするよりも如何にして相手に信頼してもらってニーズを引き出すかに力を注ぐようにしていましたし、それが商売の基本であり、それを大阪で自分は学んだのだと自負していましたので、お客様との深い関係性を目指し、まず自分を売ることをしてました。
しかし、関東では深い関係性を結ぼうとすると敬遠されたり警戒される傾向があることに気づきました。組織が大きいせいもあるのでしょうけれど、会っている人がその人の上司を納得させることができるような理由、つまりはロジックを用意してあげることがとても重要で、それが信頼を勝ち取ることにもつながるのです。
何回か商談で失敗もしましたけれど、やがて考え方をシフトさせてロジックを訪問前に準備してから臨むようになり、うまくいくようになりました。
文化の違い以前に、通常は転勤で初めての土地に行く場合は「アウェイ」感と闘うこともあるでしょう。こちらもショックかもしれないですね。
ただ、その一方で「ホーム」の関係性を一旦断ち切って、更地から新たな関係性を作ってゆくというチャレンジをすることで、ネットワークを作ってゆく力が磨かれると言うことはあるかもしれないですね。
転勤が経験として良いところは、それまで自分が行ってきたことに区切りをつけることができること、そしてもっていた知識や経験を一旦手放して、一から新しいものを入れてゆくことができることではないかと私は思います。
出した例で言えば、「商売はまず懐に入る」という経験則を手放せたことで初めて別のやり方を試せるようになったということであり、ここは気づいた時点で頭を切り替えられるかどうかが勝負かもしれないですね。
転職
ここで言う転職は会社を移ることではなく、職種が変わることです。
その意味では、私は職種は四種、細かく分けると6職経験してると思っています。
前の項で書いた営業が最初の仕事でしたが、そこからマーケティング、そして人事、経営企画、そしてまた人事と移ってきました。
人事の中では、L&D(能力開発)、採用、HRBPをそれぞれ担当しているので、細かく分けると6職種というのはそう言う意味です。
それぞれの職種の切り替わりが「転職」となります。
そこでは、求められるスキルや知識が異なるものになってゆきますよね。もちろんポータブルなスキルというのもありますけれど、求められるものがガラリと変わると逆に自分の経験や知識や前提が邪魔になることも出てきます。
なので、気持ちの上ではこだわりを捨てて身軽になった方が良いでしょう。
まぁ、でも簡単なことではありません。私は死にそうになりました…
転職何回かしてきた中で、私にとって最もキャリア・ショック的だったのは人事から経営企画に移った時でした。
まず、望んで異動したのではなく当時の副社長から言われ断ることができなくなっていたため、人事の仕事の道半ばで一旦異動という状態であったことがショックの要因の一つでした。が、それ以上にキツかった変化がありました。
経営企画に移ったことで私自身は二つの大きな変化に晒されることになりました。一つは部下が4人ついたこと、もう一つは自分にとって全く知識も経験もない分野の仕事をすることになったことでした。
経営企画に行ってからの仕事は、全社的な中期経営計画を策定したり、事業部門のマーケティングを強化したりがメインだったのですが、産業材(B to B)のマーケティングしか経験がなく、しかも実際には生産計画支援や営業支援といったオペレーションのコントロールタワー的な役割が中心だった私にとって、「戦略的マーケティング」と言うのはほとんど未知の領域でした。しかしながら、それを全事業部門で行えるようにせよと言うのが命題でした。
自分がよくわかっていないことを人に教えないといけない…これはかなりハードルが高く必死になって勉強をしなければならなくなりました。
そして、部下は私よりもこの分野の経験が長いので、何もわからない私のことを白い目で見たり、場合によっては完全に馬鹿にされ無視されることもしばしばありました。
さらに副社長命令での異動であったこともあり、マイクロマネージする上司からかなり細かくチェックをされて仕事中に呼び出されて中断してしまうので仕事が進まないと言ったことが頻繁に起きていました。
この状態はかなりキツかったです。孤立無縁で、プライドはズタズタになり、頑張っても頑張っても物事が先に進んでいないように感じられました。
夜は眠れなくなり、仕事の夢に魘され、朝起きても気力が湧かない中で、シャワーを浴びてスイッチを入れようとするものの、シャワーを浴びながら涙が出てきて止まらなくなり、涙が枯れてからじゃないと外に出れない状態でした。
心療内科には行かなかったのですけれど、間違いなく鬱状態に入っていたと思います。
ちょっと怖い話ですけれど、ふらふらと会社に向かっていると何度かマンションの屋上から落ちそうになったり、駅のホームで電車に吸い寄せられるようになったりと言うことが何度かありました。
危ないところで親切な人に受け止められ声をかけられ、「大丈夫です」と言っている自分自身の膝がガクガク震え出して立ち上がれない、と言う始末です。
情けない状態ですけれど、その時に悟ったのは「自分の意志で自殺しなくても、死が自分を呼ぶことがあるんだ」ということでした。
気力が底をつくと死神が鎌もってやってくるとでも言いましょうか…御伽噺のようですが、実際それに近いことが起きるのだと言うことを身をもって知ったのでした。
この気力の底から脱することができたのは、最愛のパートナーからの一言でした。
会社に行くのが辛い、もうダメかもしれない…とこぼすと、
「そんなに辛かったら辞めていいのよ、大丈夫、なんとかなるから」
普段コンサバティブで石橋を叩いて渡る彼女からのその一言に感謝の涙を流しながら、一息ついたとき、私は目が覚めました。
何やってるんだ、俺は。しっかりしろ。
そこからの私はとにかく我武者羅にいろいろなことを学びました。ビジネススクールに通って経営戦略やマーケティング、ファイナンスや会計を学び直すともに、勧められる本を次々に読み漁りました。もう、手当たり次第でした。
仕事でわからないことは部下に聞いていましたが、やがて部下のやってる仕事の仕方や考え方に対して提案したりアドバイスしたりができるようになってきました。
ビジネススクールで知識をつけた後も、まだこれでは不十分だと思って、今度はコミュニケーション・スキルアップのためのセミナーやトレーニングを受講しまくりました。
プレゼンテーション、ファシリテーション、コーチング、交渉術…
おおよそビジネススキルというものには何があるのか全部を理解し、全部とりあえず受けてやろうぐらいの勢いでした。楽にドイツ車が買えるぐらいの金額を自己投資に充てていました。それもほとんどが自腹でした。会社が行かせてくれるものだけでは到底足りないと思っていたので。
そんなことを1年、2年と続けるうちに、部下からも研修講師からも副社長からも一目置かれるまでにはなりましたが、自分自身はまだまだ…と思っていたかもしれません。
そのくらいに思ってるからこそ、頑張り続けられたのだろうと今は思います。
私にとってはこの転職の経験は、今まで自分が培ってきた能力や知識、経験に価値があると言う思いを捨てざるを得ない状況(アンラーニング)であり、自分の持っている能力をアップグレードして新しい環境で使えるようにする(リスキリング)ことであったのだろうと今は思います。
ただ、書いてきたようにこれは尋常なことではありません。
アンラーニングもリスキリングも今や教育と人材開発の世界ではバズワードになっていますけれど、当事者になってみるとそれがどんなに大変なことかわかります。
私が経験してきたように、本人の意にそぐわない職務変更とそれによって求められるアンラーニングとリスキリングは強制的に行うと人格を破壊しかねません。
焦らずに少しずつ、楽しさを発見できるようなやり方をすることが必要だと思います。
転社
世の中で一般的に言われる「転職」は会社を変わることでしょうけれど、同じ職種で会社を変わることをここでは「転社」と呼ぶ事にします。
私はそれほど転社の経験は多いわけではなく、会社を変わったのは一回、出向が一回だけです。
それでも業界が変わったり、文化が変わったりしてたのでなかなか貴重な体験ができていると思っています。
私の場合は、新卒入社から30年近く勤めた会社からの転社でした。
50代に入ってからでしたのでそう簡単には行かないだろうと思っていましたが、幸いなことにあちらこちらのエイジェントから声がかかってきて、活動を始めてから1年ちょっとで自分にとって理想的な会社からオファーをもらうことができました。
業界こそ違いましたけれど、同じ外資企業での人事の仕事です。
期待されている役割が明確で、その役割を果たす上で前職の経験がフルに活用することができたので、ショックらしいショックは全くと言って良いほど感じませんでした。
当初は。
入社から2年ぐらいの期間がものすごく忙しく、次から次へと期限が押してるプロジェクトがやってきたり、三週間に一回海外出張していたりでしたが、新しい会社での仕事に慣れようとしていましたし、自分の顔も売らないといけないと思っていたこともあり楽しみながら仕事をしていたと思います。
その後、別のnoteで記した4人前の仕事をしていた期間もあり、気がついた時には2年半があっという間に経っていました。
仕事の量が落ち着いて一息つけるようになる少し前くらいから、違和感のようなものが沸々と湧いてきていました。
その違和感とは、「あれ?なんでそうなっちゃうの?」と言う疑問の形で私の中に現れるものでした。2年半の間も実は気づいていたのかもしれませんが、無視して強引に進めていたのかもしれません。
例えばの話をいくつか出しましょう。
前職はGEの文化が入ってきてからはトップダウンのカルチャーが強くなったので、人事からの号令で割と事業部門は素直にアクションを取ってくれました。
しかし会社が変わると、スタッフ組織よりも事業部門の方が力が強く、個別の事情を強く主張してきます。やり方を変えると業績が悪化するとか効率が悪くなってコスト増になるとかの理由とつけてこちらのやり方に対して注文が多くなります。一つの会社なのでそれぞれの事情を主張し出すとまとまらなくなってしまい、会社としての施策が中途半端なものになってしまうと言うことが時々おきました。
他の例ですと、アクションプランや標準プロセス、手順書のようなものを最初に用意せずにプロジェクトがスタートするのが日常茶飯事でした。
ゴールや目的についてコンセンサスを得るために時間をかけ、そこからチームビルディングをしたら後はプランは走りながら作り、修正しながら到達できるゴールへと向かってゆく仕事の仕方でした。
私にとってはこのスタイルの方がアジャイルで好みではあったのですが、ショックだったのはチームビルディングに時間をかけることでした。なんでいちいち集まって全員で話し合いを何回もするのか、そのために海外出張を何回もさせたりするのか?私からすると非常に冗長で無駄なことをやっているように感じられました。
二つの例で共通していることであり、私と戸惑わせたのは、理屈やプロセスでは人が動いてくれないというところでした。
相手側の事情を理解し、相手に伝わる言葉で相手の心を動かして共通の利益や共通のゴールを追求して行ける状態を作らないといけないのです。つまりは一緒に仕事をする人同士の関係性がとても大切だということです。
関係性をよくしてゆくには、感情をマネージする必要がありました。理性だけで語っても「正論を振りかざしても人は動かない」ということでもありますね。
これは私にとってはちょっとしたチャレンジでした。
…というのも他人の感情と向き合ったり感情的になる人の相手をするのはできないことではないですけれど、それほど得意だと思ってはいなかったですし、できればそういう状態は作りたくないと思っていたからでした。
しかし、プランもプロセスも決まっていない中で定まりきらないゴールを目指して動き出すためにはお互いの信頼関係が大切ですし、そのためにはお互いが何を考えているのかどんな思いでいるのかの感情の共有が必須になってくるのです。
シンプルに言えば、情報共有の前に感情共有が必要、ということです。
今までは忙しそうだからと皆んな協力してくれたけれど、これからは理屈を振り回して同僚との関係がギクシャクすることがないようになんとかしなければ…
そう考えた私は、人間関係についてきちんと学ぶためにT Groupを受講することにしました。
T Groupは組織開発の原点とも言えるグループ・ダイナミクスを学べる機会です。メンバー間の相互作用の中で自分がどんな行動としているか、その行動は自分のどんな考えから起動されるのか、そしてそれが周りにどんな影響を与えるのか。
6日間の泊まりがけの合宿を、またも自腹で参加し、トレーナーや他の参加者から率直なフィードバックをもらったことで自分自身の在り方について考え直す良い機会になりました。
T Groupから戻ってきてしばらくすると、いつしか人と人との関係性が見えてくるようになっていましたので、参加して本当に良かったと思えたものです。
転社をしても仕事自体は変わらなかったので、能力面で不足を感じることはほとんどなかったのですが、じわじわとわかってきた文化の違いからどうやら「モノの見方を変える」必要があったのだと今は思います。
なんというか、文化を人々の行動を通じて観察するのではなく、その行動の前提になっているものが何であるのかに入ってゆくことが大切であることを学べたというところでしょうか。
私が経験してきた転勤、転職、転社についてと、それらの変化の意味について見てきました。私の場合は、それぞれがおおよそ5年ぐらいの周期でやってきました。
「仕事を始めて多少つまらない思いをしても頑張って続けてみろ。そして3年目に壁が来るからそれを乗り越えろ、そうすると仕事が楽しくなってくる。そして楽しくて楽に仕事ができるようになってから転職してみろ、腐っちまう前に、な」
学生時代に社会人の先輩(OB)にそう言われましたけれど、謀らずも結果的に私の人生はそうなっていました。
今思えばとても恵まれていたと思います。
長々と書いてきましたが、振り返って端的に整理をすると私の場合は、
転勤によって、知識をアンラーンして新しい物と入れ替え
転職によって、スキルをアンラーンして新しいものを獲得し
転社によって、モノの見方をアンラーンして広く深い視野を持った
ということなのかなと思っています。
アンラーンするということ、その必要を強く感じるということは職業人生上ではなんらかのショックがあるというわけです。
私も転機には漏れなくそれを経験していますが、今思い返すとやっぱり「スキルのアンラーン」が一番きつかったなと思います。
気持ちを切り替えたり考え方を変えたりするだけではどうにもなりませんし、スキルは獲得するまでに時間もかかっているのでそう簡単に手放せるものでもありません。何よりも辛いのは「もう通用しない」と考えなければならないことでしょうか。
今の世の中では、転勤、転職、転社をしないでもリスキリングやアンラーニングが必要になってきていますし、政府もそれを推進すると言っていますよね。
しかし、トレーニングや研修をする前に、考え方や気持ちの整理をしておかないと人は置いていかれるか打ちひしがれて壊れるかしてしまいかねません。
そうならないためには個人単位のチェンジ・マネジメントをしっかりしておくことが必要だと私は考えます。
アンラーニングにおける個人のチェンジ・マネジメントは、ビリーフ・チェンジに近いものなので注意して行う必要があります。別の機会でそれについてまとめることにチャレンジしてみたいと思います。