ペール・ヘンリク・ノルドグレンの残したもの
「ノルドグレンにとっての願いは、上記のような諸要素を聴き手に認識させることが目的なのではなく、それらが組み合わされた音楽によって「明らかにしようとした何か」が伝わることを本懐としていた。そこに響くのは技術的な多彩さではなく、ただひとつのノルドグレンの音楽なのである。」
―これは2024年9月20日、旧東京音楽学校奏楽堂にて開催された、ヤンネ舘野室内楽コンサートシリーズ第31弾となる「ペール・ヘンリク・ノルドグレン生誕80年記念演奏会」に寄稿させていただいた文章である。日本に深い縁を持つノルドグレンという作曲家を包括的に紹介する文章を目指したものである。曲目・演奏者は以下の通り:
・ピアノ五重奏曲 作品44(1978)
・小泉八雲の怪談による3つのバラードⅡ 作品127(2004)(朗読付き)
・弦楽四重奏曲第10番 作品142(2007)
ピアノ:舘野泉
朗読:元田牧子
ピアノ:佐竹裕介
ヴァイオリン:ヤンネ舘野、木下真希
ヴィオラ:中田美穂
チェロ:佐藤響
はじめに
2008年8月25日、一人のフィンランド人作曲家がこの世を去った。ペール・ヘンリク・ノルドグレン(1944-2008)、彼は癌によってその命の尽きる寸前まで創造の手を止めなかった。64年の歳月の中で、2つのオペラ(1981年と83年)、8つの交響曲(1974年から2007年)、室内交響曲(1996年)、30曲余りの協奏曲(1969年から2007年)、11曲の弦楽四重奏曲(1967年から2008年)ほか、管弦楽作品に弦楽作品、室内楽作品、独奏曲に合唱作品に至るまで、実に多くの作品を残しており、その中には今後のフィンランド音楽のそれぞれの分野において重要なレパートリーを占めることとなる作品も多く含まれていると言えるだろう。2024年、彼の生誕80周年を迎え、本コンサートを開催するにあたり、ノルドグレンとは如何なる作曲家であったのか、振り返ってみたい。
ノルドグレンの時代と音楽
フィンランドの内外を問わず、芸術の分野においてノルドグレンがその活動を始めた1960年代後半とは、かつての戦争の傷跡を、あるいはようやく享受できるようになった平和を「新たなもの」によって塗り替えてゆくかのように勃興したモダニズムが行き詰まりを見せ始めた頃であった。若きノルドグレンもまた、そうした「モダニズムの虚無」に駆られた一人であったと言えるだろう。彼が世に現れた際に発表した管弦楽作品《ユーフォニー》第1、2番(1966年と1967年)は、まさにモダニズムを代表するような十二音技法やジェルジ・リゲティを模したクラスター技法に彩られた作品であった。しかし彼はこれらの技術をふるいながら、論理性が先立ち、生きる者の感情や必然性・真実性が感じられないという性質について、不満を感じていた。こうした技法に何か人々とを結びつける「地に足を着けるもの」を求めていた。
モダニズムの衰退と入れ替わるように、その後の音楽的傾向は様々に枝分かれしていくが、その中における主流の傾向の一つが、多元的な音楽的要素・様式をひとつの作品の中に融合させてゆくことであった。その意味において、ノルドグレンはその典型的作曲家であったといえるだろう。彼が用いた諸要素を並べるのであれば、前述した十二音技法、リゲティ的なクラスターによる空間的音響技法といったモダニズム的手法、調性のより自由な扱い、1970年から3年間にわたる日本留学で得た日本の民族的要素、その翌年よりフィンランド帰国後に居を構えた「民族音楽の聖地」としての地、カウスティネンで得たフィンランドの民族的要素などが挙げられるだろう。また忘れてはならないのが、彼が幼い頃から音楽的な精神的支柱となっていた作曲家、ドミトリー・ショスタコーヴィチの影響である。しかしノルドグレンにとって、これらの諸要素を利用する目的は、その性質を全面的に押し出すことではない。彼自身が「私の仕事の目的はただひとつ、さまざまな印象を組み合わせ、自分自身の声を見つけることだ」と語る通り、これらは出発地点でしかなかった。一聴すればわかる通り、それらは見事に融和され、確かな「ノルドグレンの声」が響いているのだ。
これらの多元的な特徴を結びつける上で、ノルドグレンはそれらが人々の感情を貫く真実性を持ちうるかどうかを極めて重要視していた。「音楽は単なる音楽以上のものでなければならない。音の集合以上のものでなければならない。私は音楽を単なる構成物として考えることはできない。もし耳が、内なるメッセージを欠いた技術的な美しさを受け取ることを期待するならば、音楽はその意味を失う。音楽は耳から心へと伝わらなければならない。」そしてまた、こうも語るのである。「音楽は宙に浮いた『作られた』現象ではなく、従って作曲するということは生活から、また見てきたものや経験したもの、感じたものから切り離すことができない。私は作曲作品を、言葉よりも広く自身を表現するために必要な手段であり、私の仲間たちとコミュニケーションを取るための方法と考えている。」ノルドグレンはモダニズムの技術と人工物に対し、人間の営みに通底する本質的な素材として、民族的素材に行き着いたとも言えるのだろう。こうして生み出されるノルドグレンの音楽は、人間の内なる風景―人生の深淵を覗き込むような力強い感情の変化や心の闇、癒しや救いを求めようとする切実な願い―によって特徴付けられるのであり、それは概して現実を取り巻く不条理な要因から生まれたようなリアリティのある強度を持っている。作為的な表現で取り繕うことのないその音楽は、ノルドグレン自身が感じている苦しみや希望を、自身の音楽ということばで他者と分かち合いたいとする願いなのだ。人々が普遍的に共有できる強い感情は、深い悲しみやそれを乗り越える心の在り様なのかもしれない。
「変わり者」と呼ばれて
ノルドグレンが確固たる評価を得ていた1970年代において、彼はフィンランドの楽壇においては相当な「変わり者」として目されていた。当時、フィンランドのほぼ全ての音楽家がシベリウス音楽院を通過していたのに対し、彼はヘルシンキ大学で音楽学を学びながら、日本に渡る前年まで個人的に作曲家のヨーナス・コッコネンに師事していた。更なる学習を求めて向かった先も、ヨーロッパやアメリカという一般的な留学先は選ばず、日本の東京藝術大学へと進み、伝統楽器や民族音楽、多くの著作に触れ、結婚も果たした。帰国後もほぼ全ての作曲家が集中していた首都ヘルシンキではなく、民族文化が深く根付いた小村であるカウスティネンに居を構えた。その作品についても、その当時モダニズムの文脈で民族楽器や民族的素材を主軸に置いた作品を生み出そうとした者などいなかったのである。今でこそ、ノルドグレンの行動は何ら奇妙には映らないかもしれない。だが当時のフィンランドにおいて、彼の決断は確固たる意志と強い確信がなければ行うことはできなかったはずだ。さて、ノルドグレンのこうした性質はいかにして生まれたのだろうか。
1944年、オーランド諸島の小村サルトヴィークに生まれたノルドグレンは、幼い頃から作詞、作曲、自作映画の製作など、あらゆる創造的な趣味に興味を持っていた。母親と兄が作家だったこともあり、幼少期の家庭にもクリエイティブな才能があった。3歳の時にヘルシンキに移り住んだが、作曲家を志すようになったのは、幼き日に蓄音機から流れてきたチャイコフスキーの交響曲第5番を耳にした時だという。13歳の時にショスタコーヴィチの交響曲第5番《革命》の終楽章のSP盤録音に衝撃を受け、14歳のときには理論的な知識もないまま、誰の手も借りずに管弦楽曲の作曲を始めていた。作曲家になるには何か軸となる楽器を習得するべきだと考え、ヴァイオリンを始めた。1966年、北欧の音楽祭「Ung Nordisk Musik」でヴァイオリニストであったユハ・カンガスと知り合ったことが重要な意味を持つ。ノルドグレンが後に終の棲家としたカウスティネンの生まれであったカンガスは、同時に民族音楽に精通する音楽家でもあった。ノルドグレンは彼を通してフィンランドの深く根差した民族的素材に触れ合うことで、既に可能性を見出していたのである。
ノルドグレンはヘルシンキ大学で音楽学を専攻する傍ら、コッコネンの個人指導を1965年から69年まで受けたが、この経験がノルドグレンにとって人生の転機となったという。ノルドグレンの自発性から生まれた作曲の方向性を、コッコネンは無理に変えようとはしなかった。後に指揮者としてノルドグレンの作品を数多く演奏したユハ・カンガスは「彼が独学でよかったと思っている。それが彼の強みだった」と語る。音楽的な独創性と共に、時流の常識に絡めとられない柔軟な思考もこのようにして育まれてきたのである。そうした彼が更なる学習の地として選んだのは、外ならぬ日本であった。
日本への留学
ノルドグレンはなぜ日本を目指したのだろうか。ノルドグレンが自国の民族音楽に可能性を見出していたことは既に述べたが、当時のフィンランド国内においてそれらがモダニズムの文脈で利用されることはなかった。日本が特異であったのは自国の伝統との向き合い方であった。日本の音楽界においては、モダニズム的手法をいかに日本の伝統と融合させるかという視点を既に持ち合わせており、それはかつての音楽的先進国には見ることのできない姿勢であった。「日本では多くの若い作曲家が、例えば日本の伝統的な楽器を音楽に取り入れるなど、伝統を活用しようとする試みに大きな感銘を受けた」とするノルドグレンは日本留学を終えた後、邦楽器において同様の試みを行っている。1974年に作曲された《邦楽器と交響楽のための「秋の協奏曲」》と、2つの《邦楽器のための四重奏曲》(1974年と1978年)である。彼は帰国後も、フィンランドの民族楽器を同様の精神のもとで用いることで、この姿勢を継続している。こうして生まれたフィンランドの民族楽器、カンテレのための諸作品は、現代における芸術音楽とこの楽器の可能性を示したパイオニアとなり、今日においても重要なレパートリーを形成していると言えるだろう。
東京藝術大学に入学し、同大学の作曲科教授であった長谷川良夫氏のもと日本の伝統音楽と作曲を学ぶかたわら、ノルドグレンが「私の日本留学中の最大の精神的体験のひとつ」として挙げているのが、小泉八雲の著作に触れたことだと語っている。日本滞在中の1972年、かねてより親交のあったピアニスト、舘野泉氏からの委嘱によりこの体験は音楽へと昇華されることとなった。1972年6月に完成した《耳無し芳一》を皮切りに舘野泉氏とのコラボレーションは続き、《小泉八雲の「怪談」によるバラード》は1977年までに計10曲が完成した。その後も、舘野・小泉・ノルドグレンの「トリオ」は長きに渡り縁を深めて行く。2004年に作曲された、左手のためのピアノ協奏曲第3番《小泉八雲の『怪談』による「死体にまたがった男」》、そして本日演奏される《小泉八雲の『怪談』によるバラードⅡ》である(なお、小泉八雲が題材とはなっていないが、彼のピアノ協奏曲第1番、第2番も舘野泉氏が初演)。しかしノルドグレン自身が「物語は、音楽的想像力を刺激するだけである。音楽はそれ自体で実際の出来事を表現することはできない」と語る通り、ノルドグレンにとって音楽はそれそのものが物語なのである。この音楽と物語としての『怪談』はその内容の具体性ではなく、精神的な背景において繋がりを持っているといえるだろう。
なお、舘野泉氏とノルドグレンの親交はその生涯を通して変わることがなかった。ノルドグレンの絶筆となったのも舘野泉氏から委嘱を受けたピアノ・ソナタだったという。未完のまま終わってしまったこの作品は、どのような姿だったのだろうか。
カウスティネンへ
ノルドグレンは3年間の日本留学を終え、自国の住処として選んだのは、前述の通りヘルシンキではなく、そこから450kmも北部にある、民族音楽が深く根付いた小村であるカウスティネンであった。日本で言えば東京から北海道の函館ほどの距離である。当時カウスティネンはわずか4500人が住むばかりの孤立した地方都市だったが、強力な民族音楽運動の中心地であった。これこそが、彼がこの地を移住地とした最も大きな理由である。この地でノルドグレンは史料を掘り下げ、数多くの民謡やスウェーデン語話者によるフィンランドの民族音楽、イングリアやカレリアの哀歌や牧歌を発見していった。当時の現代音楽の風潮において民族音楽はタブーとされていた中、ノルドグレンの試みは極めて挑戦的なものであった。さらに言えば、カウスティネンで彼は盟友ユハ・カンガスとのコラボレーションを始めたことも重要な意味を持っていた。オストロボスニア室内管弦楽団とのコラボレーションである。弦楽合奏のための《ペリマンニの肖像》(1976年)を皮切りに、ノルドグレンはカンガス率いるオストロボスニア室内管弦楽団のために、自身の最も主要とされる作品を生涯に渡って書くこととなるのである。またノルドグレンは1979年よりカウスティネン室内楽音楽週間という音楽祭も創立させるなど、オーガナイザーとしての活動も意欲的に展開する。国内外のトップクラスの演奏家・作曲家を招きながら、音楽の新たなる土壌も作り上げていった。カウスティネンの地で、ノルドグレンは自身の残りの間の全てを費やしたのである。
終わりに
ノルドグレンはフリーランスの作曲家という立場をとりながら、冒頭に記したように膨大な数の作品をカウスティネンで生み出していった。1970年代後半頃からは、彼の音楽語法は更にシンプルなものへと削ぎ落とされ、その内容も一層研ぎ澄まされたものへと移り変わっていった。彼の最晩年にあたる2000年代後半に至ると、もはやその音楽はもはや前衛であるか否かという表面的な問いかけを超え、人生を達観するかのような、穏やかで内省的な響きへと昇華されていった。その人生の最後に完成を見たのは、弦楽四重奏曲第11番であった。2008年に完成した本作は、同年7月25日にクフモ室内楽音楽祭にて初演された。彼が亡くなるちょうどひと月前のことであった。
それぞれが反発し合う可能性すら有する、様々な要素を融合させながら一つの音楽作品を生み出してゆくノルドグレンのスタイルは、その都度にそれまでの自身の音楽様式を捨て去り、塗り替えていくような驚きを何度も感じさせるものだが、人間の心の奥底に突き刺さるような真実性を帯びた響きやドラマは、常に彼の音楽に通底するものであった。表面的な技術的な華麗さや、その名人芸的な楽器の扱いそのものが意味を持つような音楽には全く無縁であった。音楽の形式についても同様に、あらかじめ枠組みを決めて作曲を進めるということもしなくなっていった。作品を構成する素材はそれそのものが語るものを持ち、まるで種子がそれぞれに幹を持ち枝を伸ばすように、独自の発展を遂げながら自由な形式を作り上げていくのだという。ノルドグレンにとって音楽とは、常に言葉以上に雄弁であり、最も自身の心の声を表現できる手段だったのだろう。
かつて「変わり者」と称された彼の姿は、今となっては決して奇妙なものとは映らなくなった。今やフィンランド作曲家協会にはシベリウス音楽院を卒業していない会員も多数いるようになり、その活躍の場も決してヘルシンキに一極集中するような状況ではなくなった。個々の作曲家が目指すべき道に応じた留学先を選ぶようになり、音楽の内に民族的素材を用いることなどもはや何の抵抗もなくなった。しかし、これらもかつてノルドグレンの切り開いた道であり、彼の確信に満ちた自由な発想と行動が、どれだけ後の世代への後押しとなったことだろう。そうして彼が残したものが、本コンサートを生み出したといっても過言ではない。日本留学への勇気ある行動、舘野泉氏との出会い、その深い親交が、今日のこの瞬間を生み出しているのである。
作曲作品とは我々人間同士がコミュニケーションを図る手段とノルドグレンは語った。彼の生誕80周年という節目と共に、私たちも彼の音楽を以って、ペール・ヘンリク・ノルドグレンという一人の作曲家との対話を楽しむ機会となれば、と願っている。
ピアノ五重奏曲 作品44(1978)
本作は1978年、スコットランド・フィンランド協会からの委嘱により作曲された。ノルドグレンの全作品中、ピアノと弦楽四重奏の編成による作品はこの一作のみである。初演は委嘱元の協会の領事事務所にて、リーサ・ポホヨラのピアノ、ヴォーチェス・インティメ弦楽四重奏団の演奏で行われた。単一楽章で書かれた15分強ほどの演奏時間を持つ本作は、ノルドグレンの音楽がよりシンプルな様式へと移り変わる移行期に位置している。彼は本作の前年に書かれた自身のヴァイオリン協奏曲第2番について、「最近、私は自分の様式をシンプルにしようと意識している。(…)そのためか、独奏楽器から新たな効果を得ようとは思っていない。協奏曲には名人芸的な要素はほとんどない。私は、音と音の関係や、音が語る能力、歌う能力のほうに興味がある」と語っているが、この姿勢はそのままピアノ五重奏曲にも当てはまるといえるだろう。自身に影響を与えた諸要素を融合させ、いかに統一性を持つ音楽として表現できるか。そしてそれが聴き手に対し、いかに感情的な表現へと昇華できるのかという点に心を砕いたノルドグレンの好例とも言える作品である。
ノルドグレン自身が本作に見られる要素を語っているので、ここに引用したい。
「これらの諸要素はシンプルなものである。(1)「ヨーロッパ」…調性(長調と短調の和音の使用)と無調(主要素として十二音音列)の両方。(2)「日本」…古い仏教の儀式用の歌(模倣にすぎないが)の使用。(3)「ラップランド」…フィンランド北部、スウェーデン、ノルウェーの少数民族であるサーミ族が歌う「ヨイク」に近い旋律の使用。そして「作曲家自身」…単一楽章の中で何かを表現するために、特定の要素を選び取り、彼が何を明らかにするか、ということだ。」
ノルドグレンにとっての願いは、上記のような諸要素を聴き手に認識させることが目的なのではなく、それらが組み合わされた音楽によって「明らかにしようとした何か」が伝わることを本懐としていた。そこに響くのは技術的な多彩さではなく、ただひとつのノルドグレンの音楽なのである。
弦楽四重奏曲第10番 作品142(2007)
本作は2007年に、翌年1月に開催されるカウスティネン室内音楽週間での初演のため、フィンランドのグループであるテンペラ弦楽四重奏団の委嘱により書かれた。ノルドグレンにとって、全11曲に渡る弦楽四重奏曲は、彼のキャリアの最初期から彼がこの世を去った2008年まで書き続けられた、言わばノルドグレンにおける音の歴史とも言えるジャンルである。本作は最後の第11番と共に、ノルドグレンの最晩年に位置する作品であり、まるで自身の人生における最期を予期しているかのような静謐で瞑想的な音楽となっている。この作品を手掛ける頃には、ノルドグレンは既に病魔に侵されていたのである。
本作は全4楽章で構成されている。「夜想曲」と名付けられた第1楽章では、ノルドグレンが14歳の時に作曲した《母のためのニリンソウ》の旋律が夢の様に歌われる。この楽章では、楽器の最低弦を通常より低く調律せよとの指示により独特な雰囲気を醸し出している。第2楽章のスケルツォでは一変してリズミカルで軽妙な旋律を紡ぎ出している。中間部のトリオでもその活力は保ちながらも、仄暗い印象を湛えている、第3楽章では変奏曲形式の「パッサカリア」の名が与えられている。その主題には、ノルドグレンの憧れであったショスタコーヴィチが、自身の名前の綴りから生み出した音型(DSCH音型、レ・ミ♭・ド・シ)に倣い、ノルドグレンの名から抽出した音型(HEEH音型、シ・ミ・ミ・シ)を用いている。極めて内省的な音楽でありながら、諦観にも似た深い情感に彩られた楽章である。第4楽章は「マッティナータ(朝の歌)」と名付けられており、ここではノルドグレン曰く「和声的な均衡を目指している」。朝の歌を意味するところは「1971年の富士山頂から臨んだ日の出を思い出したのだろう」と語っている。不意に鳴らされる鈴の音やピツィカートは、まるで日本の寺院における儀式を連想させる。
ノルドグレンは本作を「私の人生に起きた事柄を暗示している」と評した。その言葉の通り、まさにこの第10番は、自身の生涯を回想するかのような感興に包まれている。
小泉八雲の『怪談』によるバラードⅡ 作品144(2004)
本作はノルドグレンのピアノ作品の全てを演奏し、彼のピアノ音楽に対するインスピレーションの源とも言える存在であった舘野泉氏との友情によって生まれた作品である。2002年1月に発症した脳溢血によって「左手のピアニスト」となった舘野泉氏のリサイタルのために本作は作曲された。かつてノルドグレンは1972年から1977年にかけて、小泉八雲の怪奇小説『怪談』をもとにした作品を10曲、舘野泉氏のために作曲しているが、この作品の着想はその二人の記憶から生まれたものと言えるだろう。
第2集となる本作は全3曲でこで構成されるが、ノルドグレン曰く、これらを結びつけるのは「恋情」だという。第1番《振袖火事》は、1657年に江戸の町の大半を焼き尽くした明暦の大火に基づいた物語である。商家の娘が町で見かけた美しい侍を一目惚れしてしまう。しかしその恋はついに叶わず、想いを預けた美しい振袖はいつしか呪いとなり、手に渡る者の命を奪うようになる。不気味に思った持ち主は、この振袖を燃やしてしまおうと考えるが…。作品の冒頭では打ち付けるようなffに始まり、後半では「情念の炎」とも言うべき音の揺らめきが音楽を包む。第2番《衝立の女》では、衝立に描かれた美しい乙女に心を奪われた男の物語である。成就せぬ恋心を捨てることができず、ある老人の助言をもとに乙女に名前を与え、毎日衝立のその名を呼び続けると、遂には乙女が絵から抜け出して男に語り掛けるのである。「恋の病」の名の如く、夢と現(うつつ)の間をたゆたうような夢想的な雰囲気が音楽全体を包んでいる。第3番《忠五郎の話》は、ある旗本に仕える実直な男、忠五郎が語る奇妙な物語である。忠五郎は夜ごとに出かけては明け方に帰ってくるという毎日を訝しんだ仲間が詰問すると、彼は毎晩橋の傍で美女と出会い、水の中に引きこまれていたのだという。ある晩には水中の屋敷で婚礼まで上げたのだが、この話を他者に漏らせば永遠の別れだと言われていたのである。どうか内密に、と仲間には懇願するのだが…。妖しく明滅するように打ち鳴らされる和音、波紋の様に広がる音響や歌が特徴的である。
本日はピアノ独奏に加え、それぞれの物語が朗読される。ノルドグレンの音による物語と呼応しあうことで、本作品は一層の深みを増すこととなるだろう。