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念仏平和主義を嫌悪しています

哀悼の意を表することに異を唱えたりはしない

 吾輩は念仏平和主義が嫌いだ。犠牲者を悼み、「おかわいそうに」と同情すれば平和が来るのか。その「おかわいそうに」の裏側に生き残った人々を卑怯だの非国民だのと論う連中がいる。

 命からがら生き延びた人々を罵れば平和が来るのか。

 哀悼の意を表することに異を唱えたりはしないが、あるいは逃避し、あるいは屈辱に耐え、生き延びた人々にこそ、学ぶべきことがあると、吾輩は思う。

山手大空襲について思う

 吾輩が生まれ育った地域は、渋谷区と港区との境界に近い、渋谷区側だ。何日ぶりかで表参道交叉点を通りかかると、そこには平成19年に建てられた「和をのぞむ」と題する平和祈念碑がある。しかし、道行く人は知らぬげに通り過ぎるばかりだ。

 昭和20年までは、3月10日が陸軍記念日、5月27日が海軍記念日であった。
いずれも日露戦争に因んだことで、陸軍は奉天入城(占領)の日を、海軍は
日本海海戦で大勝利を遂げた日を記念日とした。

 昭和20年、陸軍記念日だった3月10日に下町大空襲があったのは、けして偶然ではないだろう。そして、海軍記念日の5月27日が日曜だったせいか、金曜日にあたる5月25日に山手大空襲があった。その際には、この表参道と青山通りの交差点付近でも、焼死者が折り重なる凄惨な光景があった。

 山手大空襲による犠牲者は3600名ほどと推計されており、下町大空襲との比較では、だいぶ少ない。生き残ったなかに、吾輩の母親がいる。

被害の比較

 Wikipediaによると、昭和20年3月10日の下町大空襲では
 死亡 83,793人
 負傷 40,918人
 被災家屋 268,358戸

 という数字が掲げられているのに対し、5月25日山手大空襲は

 死亡 3,651人
 負傷 17,899人
 被災家屋 165,545戸
 と、される。

 このうち死亡者数だけ見れば、昭和20年4月13日以後の空襲による被害を加えても、下町大空襲の被害に遠く及ばない。まさしく桁違いだ。

 それに対し、被災家屋は桁違いということはない。それが何を意味するかといえば、住民らが消火活動を断念して避難を優先させたということだ。

 ネット上では「山手大空襲でも多くが亡くなった」という人がいるけれど吾輩からすれば「おかわいそうに」と同情するより、下町大空襲に比較して人的被害が少なかったことに学ぶべきものがあると思う。

薩英戦争での市街地無人化

 薩英戦争(1863)で、英国東洋艦隊の襲来に際し、薩摩藩は鹿児島市街地に避難命令を発した。なにぶん封建時代のことでもあり、強制的に市街地から住民を追い出している。当然のこととして、住民の自主的な消火活動は無いわけで、艦砲射撃によって市街地に起きた火災は、燃えるに任せた。

 旧暦では文久3年7月2日(グレゴリオ暦1863年8月15日)、鹿児島市街では終夜炎焰天を焦し、民家350戸余、武家屋敷160戸余、さらに淨光明寺、不斷光院、興國寺、般若院等の寺院も焼失し、近代的西洋式工場の実験施設だった集成館も甚大な被害を受けたが、住民の死亡は数名に限られた。中風等の重い疾患で動かせなかった老人等であった。

 人が生き残れば、町を再建できる。死に絶えれば、復興が遠くなる。その先例から、われわれは何が大切かを学ぶべきではなかろうか。念仏みたいに平和平和と唱えていても、平和は来ない。

神経を逆なでされたのは

 ある作家さんが山手大空襲の日に前述した表参道の追悼碑についてtweetしたのだが、それに対して吾輩は引用RTで「下町大空襲に比して犠牲者が少ない」旨を述べた。それがお気に召さなかったらしく、いろいろリプがつくなかで、

「犠牲者のご遺族が今もこの界隈にたくさん暮らしていらっしゃる」

 という文言があった。吾輩は生き残った者の遺族だが、昭和の末から平成初年にかけての地上げブームで小中学校の同級生たちの大半は地元を去り、空襲を体験した者の遺族が「たくさん暮らしている」という印象は、吾輩のなかに無い。

 ハッキリ言って、神経を逆なでされたと感じた。

 わが曾祖父の大山巌が、かつて穏田と呼ばれた当地に私宅を構えて以来の住人である当家は、いわば先住民である。近年になって転入してきた大多数の住民から「たくさん残っている」といわれるのは心外だ。いま吾輩が住んでいる自宅の向こう三軒両隣すべて移住者であり、徒歩圏内に小学校や中学校の同窓生は指折り数えるほどしか居ない。寂しい同窓会に、ようやく数人が集まる程度でも新住民から見れば「たくさん暮らしている」ように見えるわけだ。

 なぜか北米先住民を描いた映画『ラストオブモヒカン』が思い浮かんだ。

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