やっぱり秀吉はスゴイ

 織田信長が本能寺の変で歴史の表舞台から去る一年前にあたる天正九年(一五八一)のことである。信長の重臣として中国地方の攻略を任されたた羽柴秀吉は、鳥取城攻めという困難な命題に直面していた。
 姫路城を根拠地とする秀吉が抱えていた軍勢は、およそ二万だった。中国地方で敵対関係にあった毛利輝元は五万ほど動員できる。本格的な武力衝突となれば信長に援軍を要請するほかないが、織田氏は四方に敵対勢力を抱えており、必ず来てくれるとは限らない。そして、秀吉には猛将と呼べるほどの強さがなかった。野戦での能力はまずまず平均点でしかない。そのころ秀吉の勢力圏は毛利氏の本拠地近くまで広がっており、城攻めに時間を費やせば、五万の毛利勢に背後から襲われてしまう。
 鳥取城主の山名豊国は、織田・毛利という二大勢力に挟まれた小領主で織田氏に従属しようとしたが、毛利氏を頼るべきだと反対した家臣団と対立し、単身城を出て秀吉の軍門に降った。それ以来鳥取城は、いわば労働組合による自主営業で存続していた状態であったが、まもなく毛利氏が派遣した新たな城主である吉川経家がやってくる。
 凡庸な武将であれば、経家が鳥取に入る前に攻めかかろうとするだろうが、秀吉は違った。攻め込む前に若狭の商人を通じて鳥取の米を買い占めたのである。米相場が暴騰すると、城内の兵糧米までが目先の欲にとらわれた城兵によって売られた。城主を欠いて城の秩序が乱れていたためだった。経家が入城したとき、もはや兵糧は尽きかけていた。
 ここで秀吉は二万の兵を繰り出すとともに、海や川を軍船で封鎖した。毛利氏は迅速な対応を迫られ、本格的な動員をかける時間を得られない。小出しに援軍を送り、外部との連絡を絶たれた鳥取城に兵糧を運び込もうとしたが、かねて待ち受けていた秀吉の軍勢に撃退されてしまった。やがて城内は飢餓状態に陥った。秀吉の軍勢に囲まれて四ヶ月目には餓死する兵も出始めた。やむなく経家は降伏を申し入れ、切腹した。
 この鳥取城攻めに先立ち、秀吉は三木城(兵庫県)でも兵糧攻めを成功させている。しかし、単に成功例をなぞったのではなかった。米の買い占めをしなかった三木城では一年半の期間を費やしたのに対し、鳥取城では四ヶ月と、大幅な期間短縮を果たしている。はじめの相場操作で大量の資金を用いているが、たいした問題ではない。現地で買い占めた兵糧を消費することで輸送コストを節約しているうえ、期間短縮によって兵糧の所要量を大幅に減らしているからである。
 歴史上、失敗から学ぶ事例は多いけれども、秀吉は成功例をも反省して学んでいることに賛辞を贈りたくなる。だが、天下統一を果たしたころになると、秀吉は過去の成功例に学んだ謙虚さを失っている。無謀な朝鮮攻めを一度の失敗で懲りず二度までやったことは諸大名の怨嗟の的となり、その死後に至り徳川家康に天下を奪われる原因となった。

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