攘夷の果てにあるもの
ペリー来航によって欧米列強との貿易が始まると輸出品目となった絹や茶の値が暴騰し、やがて諸物価に波及していった。庶民の生活が脅かされたのにとどまらず、関西の両替商も困惑した。金銀交換比率が国内と国際相場で大きく異なるため、突然の国際化によって対策もないまま大打撃を受けたからだった。こうした不利益は攘夷という感情論に結びついた。外国人を国内から力ずくで追いだそうというのだから無茶な話だが、武家社会の下層にいた人々が異人斬りをするまでに至った。
薩摩藩の首脳部は、こうした無謀な攘夷運動を抑制すべきだと提唱し、そのために京都を経て江戸まで遊説した帰りに、生麦(横浜市)で英国人を殺害してしまう。藩主の父である島津久光の行列を馬で横切ろうとしたため無礼討ちにした偶発的な事件で、攘夷を意識したことではない。だが、薩摩藩も本音では欧米列強の横暴な振る舞いを嫌っていたため、英国からの賠償請求をはねつけ、謝罪もしなかった。あくまで薩摩藩の行為は合法であるという武門の意地もあった。その結果、英国はインドを根拠地とする東洋艦隊を錦江湾に派遣し、軍事的恫喝によって賠償金と謝罪を獲得しようとした。
かねて英軍の来襲を予期していた薩摩藩は戦備を整えて待ち受けていた。当然、賠償交渉は決裂し、英艦隊は実力行使によって薩摩藩の汽船三隻を拿捕した。それを見た薩摩藩の沿岸砲台が砲撃を開始、おりからの台風のなかで薩英戦争が勃発した。英艦隊の優勢な火力は鹿児島市街の家屋約六〇〇戸を焼失させたが、あらかじめ消火を諦めていた薩摩藩は事前に市民を避難させていたため、砲台の戦死者を含めても死者は数名にとどまった。一方で英艦隊は旗艦ユリアラスに命中弾を受け、艦長と副長が戦死したほか十数名の死者を出し、目的を達しないまま錦江湾を去っていった。勝敗はいずれとも言い難い結果で、英国も薩摩藩も相手が侮りがたいことを悟った。そして、この薩英戦争の戦後交渉を通じて両者は急速に接近し協力関係を築いた。
長州藩は、藩ぐるみで確信的に攘夷を決行した。沿岸砲台から外国船に無差別砲撃をしたのである。薩英戦争の翌年には、英仏米蘭四ヶ国連合軍の報復攻撃を受けた。連合軍は容赦なく上陸戦を仕掛け、砲台を無力化した。この馬関戦争での手痛い敗北に多くを学んだ長州藩は、やがて坂本龍馬らの周旋で、意見を違えていた薩摩藩と秘密提携を結んだ。
攘夷運動を抑制しようとした薩摩藩も、その根底には日本の自主独立を保つという大目的があった。その部分で両藩は一致しており、やがて幕府を倒して明治維新を実現するに至った。まさに災い転じて福とした典型例といえよう。
維新後の薩長藩閥について、あまり世間の評判は芳しくない。だが、日露戦争で勝利を得るまでの数十年間、日本の独立を保つという目的を忘れず、ついにそれを果たしたことに評価を惜しんではならないだろう。