歴史的イメージからモデルをつくりだす、文学

「水を差す」という言葉がある。浮かれていたり熱狂している話の合間に、場を「冷ます」「打ち水」となる言動を行う。冷静な、ウケを狙わないツッコミ、ともいえる。
ところで、お互いに「水を差」しあうとどうなるか。それは「水掛け論」となる。びしゃびしゃと論を水のように掛け合う、それは「対話」というより「言い合いっこ」です。
これが「水を差す」と「水掛け論」の関係……とするには、まるでこれでは言葉遊びだ。ですが、単なる言葉遊びとも言い切れないところがある。それはこの二つの言い回しが「水」に力点を置いて使われているということです。場を冷やし、容易に掛け合える、「水」を喩えに使った言い回しだ。
これには、「水」に付いている歴史的なイメージが用いられている。言葉にはどうしても歴史の積み重ねがあるから、言葉そのものの単純な意味と、付与されたイメージと、この二つが利用される。
以上のことをふまえると、こういえそうです。言葉遊びは、歴史的な言葉の使用をちょっと復元することがある。単純な意味の連想から、歴史の積み重ねによるイメージの関連が少し明らかになる。ただし、これはつねにそうではなく、もちろん全くのナンセンスな言葉遊びというものもあり、そういう場合のほうが多いかもしれない。
アイルランドの作家、ジェイムズ・ジョイスは、まさにそういった言葉遊びと歴史の連想関係に興味を持ち、探求した人で、「言葉遊びによる・意味の・イメージの連想」を用いて、「アイルランドの・ダブリンの・人々の営み」を徹底して描いた。彼の用いた歴史観に、螺旋状の時間というモデルがあります。つまり、過去と現在と未来は単純な一直線ではなく、周期的に類似した形態をとり、かつ漸進的に発展していく、という見方といっていいでしょう。彼は書くことで、過去から現在に連なる意味とイメージの関係を描いた。つまり「水を差す」と「水掛け論」の間を媒介する「水」を「体験」させようとしたのです。
ここで「体験」という言葉を使ったのは、文学を読む意味とはまさに体験であり、「経験」とか「教訓」とか「実践」とはまた異なるニュアンスが必要だからです。あなたが、文学を「経験」として、自分の経験知として重視することや、「教訓」として、生活の規範として生きていくことや、「実践」として、文学のように生きることは、多くの場合、少々都合が悪い。これは、スペインの作家であるセルバンテスが『ドン・キホーテ』という小説でテーマにしたことです。そこでは、文学を「経験」「教訓」「実践」として生きることの困難、可笑しさ、哀しさが徹底して描かれている。
「水」を「体験」するというレトリックは、これもレトリックですが、川のせせらぎを手のひらで感じることのようなものです。川のせせらぎがあなたのいるところまで流れてくる、あるいはあなたが川の流れるところまでやってくる、このことの背後には長い物語、複雑な過程があった。それと同じで、何かの本(たとえばジョイスの本)をあなたが手にとり、「体験」することには、本とあなた双方の長く複雑な事情がある。そして、文学は、似たものを結びつける力が特に優れている本のジャンルです。ですから、文学とあなたはひょっとすると何か「運命的な(水を差させていただくと、それはひどくナンセンスな)」歴史の螺旋の中で出会った、と感じさせられることがある。こうしたロマンチックな考え方(生き方)は、確かに豊かなのかもしれない。と同時に、ドン・キホーテのように生きる道の始まりでもあります。
話が予定していたより文学の話になってしまいました。お気づきかもしれませんが、「水を差す」と「水掛け論」の間をつなぐ「水」と、「文学」と「あなた」の関係を結びつける「ドン・キホーテ」は、同じ使われ方をしています。文学の試みてきたことのひとつには、歴史が積み重ねてきたイメージから、何かを媒介するモデルをつくりだすということがあります。
ジョイスも、現代の都市生活と神話・伝説世界が意識下のイメージ上でつながるモデルをつくりだしました。そして彼は、それを「夜」「夜の言語」と呼びました。そして、彼の最後の作品、『フィネガンズ・ウェイク』は、初めから終わりまでがひとつの巨大な冗談であるかのような小説です。読者はそこで、活き活きと動き回るドン・キホーテではなく、文学として生きる狂気のドン・キホーテその人の意識を見たかのような体験をします。それは客観的にドン・キホーテを見ること、つまりドン・キホーテから距離を置くことなのでしょうか? それとも、よりドン・キホーテに近づくことなのでしょうか。そして、私たちがこれから水を差すべき対象は何なのでしょう? そのためにいったいどのようなモデルをつくりだすことができるのでしょうか。
いよいよ本当に文学の話になってしまいました。自問自答の水掛け論になってしまう前に、ここで話を終わりにしたいと思います。

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