心象スケッチ『まだら牛の祭り』
私の書いた小説『まだら牛の祭り』 10月25日くらいから無料キャンペーンを実施します。 この小説は私が危機に陥っていたとき書かれたもので、「小説に擬態した心象スケッチ散文」です。 ちょうど10年前に書かれ、5年前に完成しました。 私はこの小説の完成によってある種の「心身の模型」を獲得し、危機から脱することができました。 小説を書くということは地の底からデーモンを招来して格闘することかもしれません。しかし誰もが無理に執筆する必要はないのです。私は必要あってそうしました。 いま読み返しても、この作品は私にとって透明な水のようなもので、私自身と一致します。創作上の欠点などは枚挙に暇がありませんが、本来の目的、自分から生まれたデーモンと格闘し、いったんの決着をつける、ということは達成されており、そのゆるがしがたい記録にはなっています。 人に読んでいただいたところ、この小説のガワは寂れたテーマパークあるいはMIDI音楽を連想させる稚拙でスカスカの文体と荒唐無稽で支離滅裂なコミック物語で構成されており、その展開に気味が悪いほど迷いがないのですが、いったいどういうことなのかわからない、これは(そのものの生のままのむきだしという点で)文学、表現といえるのか、という意見があり、私は非常にうれしく、いろいろな方の感想が知りたくなりました。 理解しがたい分だけ、分析の目で読んでも一興かもしれません。得体の知れない分だけ、理屈、理論、批判、分析、そういったものに耐えられるものであるかもしれません。 しかし、私自身にとってはまぎれもない切実なフィクションあるいは抽象的なノンフィクションであり、私にはこの小説の全てが手に取るようにわかります。 読んでわかるのは私の具体的なエピソードではなく、極めてパーソナルなメカニズムです。そして危機と克服の過程そのものです。 確かに文学ではないのかもしれません。一見文学や小説にみえるだけの、別のものかもしれません。私には判断がつきませんしどうでもかまわないのですが、そのような見方もあるのだと思います。 これは海の深くから浮びあげた何かであり、その記録です。そしてもし人間の潜在意識が万人に通底しているとすれば、わずかばかりの普遍性を帯びた海に浮かぶボトルの中の手紙です。 面白さや爽快感はありませんが、読者はこの中に間違いなく他者を発見するでしょう。
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