小説「自販機までコーラを買いに行く」

歩行中、常にじゃらじゃらポケットが鳴る。十四枚の十円銅貨が摺り合って絶妙にグルーヴィなリズムを奏でている。はっきり言って手練れのパーカッショニストのプレイするシェケレさながらだ。そのシェケレと俺の歩行リズムとのズレがまたオツな具合にアンサンブルを調子付けている。おお、神よ。人の子の歓びよ。感謝します。俺にこんなピチピチのジーンズをお授けになるなんて。俺をしてこんななけなしの小銭を残さしめてくださるなんて。俺のピチピチサイズのジーンズのポケットの内部で一流パーカッショニストにシェケレ演奏をプレイさせてくれるなんて。俺は神に感謝しながら絶妙なシェケレと俺のヒップな歩行リズムとの永遠に矛盾したズレを楽しんでいた。さすがにこうまで心地いいグルーヴを体感させられると、目的地点である自販機に直行することは躊躇われる。無闇に直行することはしたくない。たとえこの酷暑の中、汗ダラダラで街中を彷徨うことになろうとも、このゴキゲンなリズムに満足するまで多少の寄り道はしたい。俺は気の利いたタイミングで屁をこいた。こいつぁまるでアルバート・アイラ―の狂ったサックスだ。ゲコゲコゲコ。ジューダス・プリースト。プラトニック・ラヴ。とんだ僥倖の一日だ。世界の全てに愛を。平和万歳。戦争万歳。それぞれの反対万歳。と、そんな高尚なことは屁ガスと一緒に後ろに置きっぱなしにして、俺は通りの横道に急旋回した。あまりに壮観な直角度での旋回だったから、通りすがりの中年女性すらビクッとしたのを俺は見逃さず、俺の自尊心は無限に膨張した。シェケレのフィル・イン。じゃらじゃらが、ジャ・ジャ・ラ・ジャジャ・ラ・のリズムを・とる。なんせこの急旋回だ。中年女性のハートにアタックしたこの急旋回に、思わずポケットのミクロ・パーカッショニストもキレッキレのフィル・インをかます。ジャ・ジャアー・ジャッ・ジャ。神よ! 今日一日に俺の全ての幸福を捧げます。どうかこのまま絶妙のアンサンブルをお与えください。ジーンズのヒザのほつれから剥き出た膝小僧に、日本の一番長い日の太陽が照り付ける。俺の額からは汗が滔々と流れ、はりついた一本の前髪がモーセさながらに汗を二つに割っている。我はハチワレ。髪の預言者。オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ。愛とはポケットの小銭。ピチピチのジーンズのヒップ。そして目指す自販機の最上段のコーラ。冷たい汗をかいた黒いペット・ボトル。ボン・キュ・ボンなそのフォルム。細く窄めた口から俺は飲む。悩ましい炭酸の刺激。そして俺は思い切りゲップをするだろう。山手線の駅名を言い切る前に。ワッツ・ゴーイン・オン。俺はまったく知らない道に来てしまった。余りにも蠱惑的でグルーヴィなシェケレのリズムに酔っているうちに。もう近所じゃない。ああ、神よ。どうして俺に試練をお与えになるんですか。俺は自販機へと行きたいんです。何か罪があるんですか。告白します。いま俺は屁をこきました。まるでセシル・テイラーの七色の音のように。そう、俺の屁ガスは七色に輝いています。この屁ガスに免じて許してください。ウィー・アー・ザ・ワールド。ジャ・ジャ・ジャ・ジャーン。フィル・イン。再びワッツ・ゴーイン・オン。そうか。俺は忘れていた。自販機は街の至る所にあるということを。だからいま眼の前に現れたこの自販機も、不思議なことじゃない。だがそれは汗でラディカルな模様が付いたこのクールなTシャツくらいに俺にとって欠かすことのできないものだ。今日という空前絶後の最高の一日を完全完璧にするためには。じゃらじゃら。はっきり言ってもうシェケレもジーンズもTシャツも屁もどうでもいい。全部脱ぎ捨ててしまってもいい。だがそれは罪であることを俺は知っている。だからとりあえず屁だけこいた。俺は盲目に自販機の前まで突き進む。そしてもう俺には用のない十四枚の十円銅貨を遮二無二自販機に投入していく。余りにも猛烈に入れたから、釣銭口から二、三枚が吐き出された。俺が3分後にするであろうゲップのように。あばよ、ポケットのミクロ・パーカッショニスト。お前のプレイするシェケレのグルーヴは永遠に生き続ける。俺は思わずジーンズをも脱ぎ捨ててしまおうとした。もう汗で色が五段階くらい濃く染まっており、搾ったらバケツ一杯分くらいは採取できそうな不快指数100%の代物になり果てていたからだ。だがそれはあまりにヒップすぎることに気づき、俺は額のモーセに祈った。頼む! 買ったあとのルーレットを当てさせてくれ。俺に二本のコーラを与えたまえ! だがそれはまず買ってからだ、ルーレットのことは後だ、今はとにかくさしあたり屁をこく、屁をこいてジョン・コルトレーン、ラヴ・シュプリーム、じゃなくて十四匹の子豚を入れて最上段のコーラを示すボタンを押す、脱ぐのもこくのも祈るのもその次でいい。俺は流れ落ちる汗に視界を奪われながら夢中で全ての小銭を投入し、無心でボタンを押した。おお、神よ。感謝します。俺に最高の一日をくださったことを。世界を愛す。すれ違った中年女性を愛す。俺のヒップを愛す。そしてコーラを愛す。ガシャン! 味噌汁が出てきた。


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