極限状態の危機にトップはどう動いたのか ― 秘書から見たリーマンショック ―

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リーマンショックでは何が起こっていたのか

—フラナガンさんは様々な企業の秘書を歴任されてきましたが、特にリーマンショックの時にリーマン・ブラザーズ(以下、リーマン)の日本支社にいらっしゃいました。社内はどのような状況だったのでしょうか。

   「破綻が決定する前の何日かのことは、今でも事細かに脳裏に焼きついています。週明けにはリーマンを買ってくれる他社の社員になるかもと、 金曜日の仕事帰りに我々はオフィスの下にあるバーで陽気にグラスを空けていたのですが早くもその晩、NY時間の金曜日朝には不穏なニュースが入り始め、あっという間にリーマンがどこにも救済されずに破綻への道を突き進むことが明白になってきました。
上司や他のエグゼクティブたちも週末のオフィスへ詰めっぱなしになったのです。週末の夜中にもかかわらず当局が訪れて、破綻への処置が次々と取られていきました。NYとの差は13時間。日本においては夜昼逆転しており、結果不眠不休のような現場だったのです。

   倒産が決定しNY本店だけが英系企業に買われることが決まると、我々アジアのトップの動きは俊敏でした。多くの社員を守る為に、彼らの敏腕ビジネスマンとしての大仕事が始まったのです。いかに社員を守りつつ、少しでも好条件で買い手を見つけるか。私はリーマンで働くまでにいくつかの大きな取引を見る機会に恵まれましたが、あれこそは正真正銘の大勝負、百戦錬磨の交渉力だったと思います。そして彼らの下で各部署を守り続けるトップたちもまた、自分すらどうなるか分からない極限の状況の中でひたすらダメージを最小限に抑えるべく、それぞれができることに集中していました。私たち秘書の役目はその最悪の状況の中でも、少しでも彼らにかかる負担を少なくすること、そして上司が仕事だけに集中できるよう他のこと一切を引き受けることでした。

   興味深かったのは、有事の際に明らかになった、人々の本質でした。泣きはらした目にサングラスをかけたままオフィスに入ってきては座り込んでいる社員、とにかく色々な人に電話をかけまくり自分の不幸を訴え続ける社員、大きなバックパックで現れて、私物以外に会社の備品を詰め込む社員、ひどい人になるとPCや椅子にまで手を出すケースもありました。他にも、自分の部下のことより、まずは会社から経費が下りるうちに『妻や家族を自国に返す飛行機を取ろう』とする中間管理職もいました。ボスの部屋に座り込んでは、今言ってもしょうがない話を延々としたり、誰もが当然ですがどうして良いか分からない不安に陥っていたのです。

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