私にとってのヨルシカ
先日、高校を卒業しました。あまりにもnoteを更新していないので、卒業文集用に書いた文章を載せてみます。何を書いても良いとのことで大好きなヨルシカについて書いたら原稿用紙5枚に渡ってしまいました。
学校用のかなりいい子ちゃんな文章ですが、良ければ…。
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ヨルシカが好きだ。聴く度胸が苦しくてたまらなくなる音楽。一緒に絶望してくれる音楽。それに私は、何度救われてきただろう。彼らの楽曲の一番の魅力は、何と言っても歌詞だと私は思う。コンポーザーのn-bunaが生み出す歌詞はいつだって人間らしく、生々しい。それが切なく美しいメロディーに乗って頭に流れ込んできたとき、そのアンバランスさになんだか泣きそうになってしまうのだ。これから、実際に歌詞を抜粋して紹介したいと思う。
これは、「八月、某、月明かり」という曲の冒頭の歌詞だ。どうだろう、何もかもが上手くいかず、自暴自棄になった主人公の様子が、この数行で頭に浮かんでこないだろうか。
さらに、サビではこのような歌詞がある。
さらりと聞き流せないほど大きな主人公の苦しみが、このわずか数文字で表されている。私がヨルシカの歌詞で特にすごいと感じる点は、これらの、簡潔でありながらも濃厚な、感情の表現だ。それがキャッチーで疾走感のあるメロディーと合わさり、美しくグロテスクに聴き手の心を裂く。
そして、ここでの「最低だ」というフレーズは、全編を通して何度も繰り返され、非常に耳に残る印象的なものとなっている。それをふまえた上で特に注目したいのは、曲中で最も盛り上がる場所、所謂「ラスサビ」に当たる部分の歌詞だ。
今まで幾度となく繰り返したフレーズを、悲鳴のようなこの言葉を、主人公はあろうことか「語呂だけの歌詞」と突っぱねたのである。
強い言葉というのは、ときに使うだけで自分が特別な人間になったかのような気持ちにさせてくれるものだ。例えば、「死にたい」と口に出すだけで、自分の人生がドラマチックで価値のあるものに感じられる。そんな経験はないだろうか。そして、そんな浅はかな自分にまたどこかで絶望したことはないか。
ヨルシカはそんな、誰しもが持っているような歪みまでも、曲の流れの中で見事に表現してみせたのだ。聞こえの良さのため、自らの価値のためだけに詞を書いた自分を嘲る。どこまでもリアルで生々しい。私はこの曲がヨルシカの楽曲の中で、いや、この世に存在するすべての曲のなかで最も好きと言っても過言ではない。
他の楽曲の歌詞を見ても分かるとおり、ヨルシカは度々、人間の歪みを描く。何かを恨み、妬み、呪い、突き放す人々を描く。しかし、その根底にはいつも、恐ろしいほどに巨大な苦しみが横たわっているのだ。
「人には人の地獄」という言葉があるように、誰にだって影の落ちた部分は存在する。だからこそ、彼らの音楽は我々の心の暗がりにそっと入り込み、世界中で愛されているのではないだろうか。
私は今、音楽を作っている。そして、そのきっかけの一つとなったのはもちろんヨルシカだ。私自身、彼らの音楽に何度も救われてきた。それは、その歪さに痛いほど共感できてしまうからだ。ヨルシカが紡ぐナイフのような言葉で心を抉り、ひたすら絶望に浸っていると、なんだか、もう少し生きてみようと思えてくるのだ。共感すること、されることは、ものすごいパワーを秘めているのだと感じる。たとえヨルシカにそんな意図が全く無かったとしても。
だから、私も私なりに、劣等感や憎しみのような人間らしい感情を、隠さずそのまま描いていきたい。私の言葉で、誰かの、あの日の私の、眠れない夜が少しでも救われてほしい。まだまだ程遠いけれど、いつか誰かの「私にとってのヨルシカ」のような存在になれたら、とても嬉しい。