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トリノの憂鬱(3)

 僕は、はやる気持ちをおさえるため、まず館内を見て回ることにした。

 イタリアは映画産業がさかんだ。だが、館内はイタリア映画のみならず、世界中の映画の歴史がわかる年表や膨大な数の写真、モニュメントが展示されている。
 
 ちょっとした映画ファンなら、丸一日、充分に過ごせそうなところだ。数々の名画のポスターや、壁一面に貼られたスターの写真を見ているだけでも楽しい。また初期の活動写真時代のカメラや、撮影に使った小道具なども展示してある。
 
 それだけではない。映画の画面に自身が溶け込んでいるように見えるスポットや、パーソナルモニターで映画を見ながらエスプレッソの飲めるカフェもある。とにかくこんな面白い博物館は他にそうないと思えるくらい、コンテンツの充実した所だ。
 
 映画好きのキョウがここに来ていたら夢中になっただろう。
 
 僕たちはよく映画の話をした。自分のことは、お互いあまり話さなかった。それは、普段あまりに自分のことを話したがる人が多く、二人とも、そういう話にはうんざりしていたからだ。
 
 だから、結局、僕はキョウのことをよく知らない。
 
 知っているのは、一人っ子で信州の高い山に囲まれた小さな町で育ったということ。高校を卒業後、写真の専門学校に入るため、東京に出てきたこと。そして、たいがいの人が名前を知っているカメラマンの助手になったが、セクハラを受け、拒否したら罵倒され、嫌になって辞めたこと。そのうえ、望んでいたファッション業界での仕事はしづらくなってしまった。
 
 それでも写真の仕事は続けたかった。だから、SNSを使ってフリーのカメラマンを名乗り、依頼があれば、たいていの撮影はこなしていた。
 短髪でスタイルがよかったし、口数が少なくてクールだったから、何処に行っても気にいられることが多かったし、時には他のバイトもしながら何とか東京での生活を続けていた。
 
 いつか何者かになることを夢見て…、それはキョウの口から直接は聞いていない。けれども、僕にはわかっていた。だから、キョウは信州には帰らなかった。

 僕は新しい便利グッズをリサーチしたり、ミニマムなライフスタイルの提案をしたり、時には秘湯に出向いたり… 要するに、これから流行りそうなものならなんでも紹介する、いわゆるB級雑誌の記者だ。志望していた大手出版社には入れなかった落ちこぼれである。
 いずれはフリーランスに、という夢をかかげていたが、そこまでの得意分野もないし、この業界で独立して食べていくことが簡単ではないことはよくわかっている。
 
 キョウとは取材先で知り合った。

 一目見た時から、僕はキョウに惹かれた。でも、ひと目惚れとは、自分で思っていなかった。キョウの顔や、スタイル、クールな雰囲気が好みに合っていたのだ。
 実際のところ、写真の腕は大したことはなかった。でも、彼女なら、この業界でやっていけるかもしれない、と思わせる何かがあった。一方で、地方で生まれ育った素朴さが垣間見える部分もあり、それが、いつか弱点になるかもしれない、という不安も感じさせた。
 そのアンバランスさが魅力でもあった。
 
 キョウに対する自分の気持ちが本当にわかったのは、キョウを失ってからだ。どうしてもキョウと居たい、ということがわかったのだ。一緒にいる時には、二人で過ごした居酒屋や銀座の時間が、自分にとってどんなに価値あるものかすら、気づいていなかった。
 
 館内を回り、気持ちの鎮まってきた僕は、展望台に向かうことにした。

 高いところから眺める街の景色は好きだ。
 街を俯瞰して見るのも勿論良いが、米粒みたいに小さく見える人や、ミニカーよりさらに小さな車を見るのが何故か面白い。
 
 キョウとはいくつかの展望台に一緒に行った。
 
 東京タワー、通天閣、名古屋のテレビ塔……、
 スカイツリーは登っていない。最近は地震が増えたので、高すぎるタワーは怖い。登っている際にもし揺れたら…と思うとためらってしまう。これで、今の時代のニーズを記事にしようというのはおこがましい。
 要するに、僕は二流の記者なのだ。
 
 海外ではパリのエッフェル塔にも一緒に行った。

 僕の人生でただ一度のパリ出張、フレンチダンディズムの取材。それに、自腹を切って、キョウを連れて行ったのだ。
 フランスのショップを回り、写真を撮り、カフェで食事をした。僕一人で行くより、取材がスムーズにいったことは言うまでもない。

 それは、二人の関係が最高潮だった時期で、もう少しで結婚しそうになっていた頃だ。
 けれども、僕たちは、いや僕はそのタイミングを失した。

 キョウは迷っていたが、まだ何者かになりたがっていたし、僕は籍など、どうでもよかったから、結局プロポーズはしなかった。

 ただ、二人でエッフェル塔からパリの街を見おろした時は感動した。

 ああ、オレはいまキョウとパリに居るんだ。パリの景色を一緒に見てるんだ、と思うと胸が熱くなった。
 
 もし結婚していたら? あの時なら、キョウはきっとOKしてくれていたと思う。だから、僕はあとで後悔した。
 
 キョウはトリノの映画博物館の展望台に上がれば、パリより、もっと美しい景色が見れそうな気がすると言っていた。
 パリより小さなこの街で、本当にそんな美しい景色を見ることができるのだろうかと、僕は思っていた。
 
 僕は館内の中央にある、尖塔の展望台に上がるエレベーターに乗った。
 
 ガラス張りでスケルトンのエレベーターが、尖塔に向かって登っていく。数名のドイツ人のグループ、何人かのイタリア人と一緒になる。
 
 尖塔まで上がると、エレベーターは止まった。
 
「WA~O!」

 先に降りたドイツ人のグループがその景色に歓声をあげるのが聞こえた。眼下には、トリノの街並みが広がっていた。
「……」
 僕は言葉を失っていた。

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