11. カナリア(丸に梅鉢・楽曲コラム)
人間に溺れることは、一つの地獄だ。
地獄であると同時に生きる意味にもなり得る。
それを「推し」と呼ぶこともあるかもしれない。
ホストを生きがいにする女性たちは、その存在を「担当」と呼ぶ。
母である人間にとっては、それが「子」かもしれない。
もっとも、地獄ともなるほどまでに溺れ得る他者の魅力を、自己と切り離せないことは両者にとって大きな苦痛を伴うことに思えるが、今回はその話がしたいわけではないので置いておこう。
私は「カナリア」というこの曲の着想を、谷崎潤一郎の『痴人の愛』から得ている。
その他にも、森鴎外の『舞姫』、川端康成の『眠れる美女』、もっと辿ると『源氏物語』の若紫になるのだろうか。
そういった物語をヒントに作っただけに、なんとなく現実と切り離されたような曲に思える部分もあるが、「人間に溺れる」という天国と地獄は、上記であげた例(推し、担当、子供)のように、すぐ身近に、いつも潜むものであるように思う。
この世にもたらされる強烈な天使は、同時に、悪魔にもなりうるということだ。
そして、その天使を悪魔に反転させるのは、当の本人ではなく、他者なのだ。
例えば、魅力的な若い女性がいたとしよう。
何度か食事にいって、恋に落ちてしまった。
しかし彼女に伴侶がいた。
悲しみは当然湧くだろう。
そこで、相手の価値が下がったと少しでも感じるのならば、あなたはそういう、「変動し得る天国と地獄」をひとつ、価値観として持っていることになる。
天国と地獄は価値の変動により起こる。
若い女性は、もとから何も変わっていない。
ただあなたを幸福に魅了しただけだ。
この「カナリア」という曲は、「若い女性が他者によって常に反転する状態にある」ということをテーマにした曲だ。
そのためこの例を出したが、私たちは惚れた腫れただけでなく、欲という天国と地獄を、そこら中に抱えて生きている。
その天国と地獄も、物語なら大いに魅力的だが、現実ではそうはいかない。
私はその反転を苦痛とするのではなく、もはや大いに楽しみたいと思って開き直りはじめている。
そしてそのためには、天国と地獄の反転について熟知する必要があるし、同練度の相手と楽しむ必要があるのではないかと思う。
天国も地獄も知らない無垢なものを、無自覚に、その満ち欠けに溺れさせてしまう、溺れあってしまうことは、あまりにむごいことのように思う。
(逆にそういうビジネスをしている団体もあるだろうが・・・)
できる限り、「無自覚な傷を負わせない好敵手」として、多くの人と関わり合いたいと思うものの、私の持つ「感性」という価値観もまた、天国と地獄。
反転を行き来する練度を、日に日に上げていきたいと思うのである。