8.生き日和(丸に梅鉢・楽曲コラム)
ノイズキャンセリングという技術がある。
音声波形に対して、逆相位の波形をぶつけることによって、音を相殺する。
私は「雑音」を見つけるたびに、その波形をじっくりと眺める。
逆波形のデータが出来上がった。
これでもう大丈夫だ。
そう喜んだのも束の間。
ぶつけどころが悪いため、相殺するどころか余計に凸凹して、データ量だけが膨らんでいく。
これは私の頭の中の話である。
私の頭の中は、とにかくものすごい騒音だった。
騒音だと気づくまでに10年以上を要した。
頭の中を、誰かと比べることは出来ないからだ。
普通はノイズキャンセリング機能がデフォルトでついているようなのだが、私にはそのノイズキャンセリングの機能が搭載されていない。
騒音から逃れるためには毎回毎回、1から波形を研究して、逆相位の波形を作り上げ、良いタイミングでそれをぶつけなければならない。
その作業に疲弊した私は、自分の殻の中だけで世界を構築するのが、最も心地よく、攻撃性がないことに気づいてしまった。
他者に対して、挨拶をすることが怖く、面倒ごとだと思うようになったのもこの時期だ。
私にとって他者は、「大きすぎる音」である。
「すみませんが、糸電話か、文通でお願いします」と言いたくなってしまうのだ。
そうもいかないので、他者という「大きすぎる音」の波形をじっくり眺め、どのように相殺、もしくは増幅させるかということを思考する時間が必ず必要だ。
「生き日和」はそういう、ノイズキャンセリングのできない頭でっかちな自分を表現するために作った曲だった。
ものすごく個人的な世界を描いた曲のつもりだったので、反響が大きいことに戸惑いがあった。
ライブで歌うと「あの曲で泣いてしまいました」とか
YoutubeのPVをみて「心に響いた」とか
「なぜ音源がないんですか!?」とか…(お待たせしました)
この曲が、想像していたよりもずっと広い範囲の他者に響くものであることを、そういった声ではじめて理解した。
「広く響く」エッセンスがどこにあるのか、私はまだ咀嚼できていない。
少し小難しい話になってしまうが、言語化を試みる。
私の愛読書はパタンジャリの『インテグラル・ヨーガ』だ。
その本の中で、私たち人間は「プルシャへの合一」を目指すものだとされている。
「プルシャへの合一」とは「1人1人が独立した肉体を持ちながらも、その魂がひとつになることを無意識に望む」ということだ。
祭りや、ライブ、イベントなどを行う根源的な意味は、その「プルシャへの合一」だろう。
では、小さな社会集団のなかでプルシャへの合一(魂がひとつになること)を目指すとどうなるか考えてみてほしい。
「相手を思い通りにしたい」という欲と隣り合わせになるような気がするのだ。
そういった、他者との合一を目指した際、付随して起こる葛藤、というところにこの曲のエッセンスがあったのかもしれない。
私がさまざまな他者との合一を阻まれていると感じたのは、ノイズキャンセリングの機能がないことがきっかけだった。
しかし、他者との合一を阻まれる理由は、多様性に満ちていて、誰もが感じていることなのだ。
この曲が「広く響く」のは、そういうことなのだと感じる。
どちらかというと、「生きづらさ」のようなものに焦点が当たっている曲ではあるが、その生きづらさは、誰かとの合一を願う美しい心でもある。
踏まえて、聴いてもらえると嬉しい。
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Photographer:大西佐智子
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