13. 純情(丸に梅鉢・楽曲コラム)
「純」という文字がはらむもの。
透き通っていそうだとか、透明な印象をもつ人も多いかもしれないが、私にとっては少しちがうニュアンスをもつ文字だ。
純金、といった物質の混じり気のなさを表すこともある。
純粋、純真といえば恋心やあどけなさ、清廉さを表現することもある。
欲と混ざっていないことを指すのだろう。
私にとって「純」という文字は
「心の底からそうである」
「どこまで突き詰めてもそこに辿り着く」
そういったニュアンスがあるように感じられる。
全てのひとにその「純」が与えられていて、「心の底からそうであること」がある。
あなたにとって、一番「純」なものはなんだろうか。
その「純」があなたを幸せにするものであるなら、とても幸福なことだろう。
そうでなければ、この世は地獄に感じるかもしれない。
この曲を作った当時、私にとって最も「純」だと言える感情は、怒りだった。
(もしかすると今もそうかもしれないが、ずいぶん和らいだ。)
その「純」は、硬く、凝縮させられた癇癪玉だった。
毎日、乗算で重くなっていく癇癪玉をどうやって壊すかわからず、肌身離さず持ち歩くしかないまま、普通にしているのがやっとだった。
なにもかもやめたい、と常に思っていたが、癇癪玉は私の体から離れようとしない。
この癇癪玉を、自分の「純」だとは思えず、ちぎり取ることの出来ない異物として認識していた。
もう、無理だ、なにもかも、自分のやり方で生きていくしかできないのだと諦めてから、その癇癪玉はすこしずつ澄んで、私の体の中に入りたがるようになってきた。
重かった癇癪玉は、私の体を軽く羽ばたかせるエネルギーになる。
癇癪玉がようやく、柔らかく私に心を開き始める。
そうして初めて、この異物は本当は美しい純な存在だったのか、と抱きしめられるようになってきた。
癇癪玉が「純」になっていく様子を自分で実感してはじめて、この曲に『純情』というタイトルをつけた真意にたどり着いた気がした。
この世に実体を得て、たった100年も生きられない私たち。
実体を得ることは、いつも喜ぶべきものだと無条件に祝われる。
それ故に、この歌詞を歌う時、苦しい。
ライブでも、この曲を歌っていいのだろうか、と思う。
ただ嘆くだけの曲になっていないだろうか。
そんな葛藤は常に抱えながら、癇癪玉を、純として練り上げて、また次の段階の段階へと進みたい。