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1.∫(丸に梅鉢・楽曲コラム)

このからだ耳をすませば夕立がおとずれ地上の水膜となる

板倉雷夏


私はこの短歌のように、自身の体の中に大きな「水」の流れを感じている。

幼い頃から、水に対する初期衝動がすごい。

水への初期衝動をひとつ、紹介したい。

2歳のころ、母に連れられて、兄の通うスイミングスクールに行った。
兄が泳ぐのを見た私は、目の前の大きな水たまりによほど魅力を感じたのだろう。
母の横で静かに服を脱ぎ捨てた。

素っ裸の女の子を心配そうに抱き抱える水泳コーチの姿が目に入った母は、「よっぽど泳ぎたかったのかしら」と人ごとのように微笑ましく思ったそうだ。

ふと隣を見ると、2歳の娘の服が抜け殻になっている。

「やけに静かだと思っていた!いつの間に!あれは私の娘だ!」

大慌てでプールサイドまで走り、素っ裸の私を受け取ったそう。
「そんなにやりたいのならば」と対象年齢が3歳からのスクールで、2歳の私も通い始めることとなった。

運動音痴の私が、水泳だけは小・中とリレーの選手になれたのもそのおかげだ。

他にもびっくりするような「水」のエピソードがある。
とにかく、水の中で過ごすのが、ものすごく好きだ。

前置きが長くなったが、この楽曲はそういった「水」への初期衝動がなければ生まれていないように思う。

「人間の70パーセントは塩水だから、人間は海から生まれたんだよ」

そういう話はよく聞く。

私はそれを聞くとそわそわと目が泳ぎ、居心地が悪いほどにむず痒い。

「せめて、もうちょっと詩的な表現を…」
「もしかしたら、そういう天啓の念もあるかもしれないなあ、と思わせるような、芸術性を…こう…なんか…」

モゴモゴとしながら、目を覆うように恥ずかしい気持ちになる。
共感性羞恥、というやつだろうか。

私の考えも、似たようなものなので、完全に否定できないのだ。

冒頭で紹介した短歌

このからだ耳をすませば夕立がおとずれ地上の水膜となる

板倉雷夏

海を縫う膜の張力が血液になって僕を呼び覚ました

『丸に梅鉢』1.∫より


遠回しに「地上の水とは、私であり、あなたそのものです」と言いたいのだ。

冷静になると、恥ずかしい。
人間が、海なわけなかろうよ。

私は、その合理的な思考も大切にしたい方なのだ。

それでも、海という人類の系譜に想いを馳せ、その美しさに感動しながら、歌にしている。

私の思考は、すごい矛盾を持っているなあと思う。

∫は、Integral(インテグラル)と読む。

数学の積分記号のイメージが強いだろうか。
言葉自体には「肝要な」「完全な」などという意味がある。

楽曲のサビから2つ、歌詞を引用する。

僕らの呼吸は刺すように凍りついた脳の真ん中にある

あの地平線を覆うこの酸素たちが僕らの生命

『丸に梅鉢』1.∫より

水である私たちが「酸素」「呼吸」とつながる瞬間の完全性。それが、肉体を得た私たちの「Integral」。
それは航海のようにも思える。

恥ずかしくないような詩的表現に到達しているかはわからないが、テーマとしては『丸に梅鉢』の冒頭を飾るに相応しいだろう。

龍が雲を得る如く、皆様の心に届いてほしいと思う。


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