9.ランドセル(丸に梅鉢・楽曲コラム)
「みんな、自分で生きるのは一年生やねん。」
尊敬している大好きな先輩がそう言った。
私は深く頷いた。
今世に、前世の記憶は残らない。
その上、場所も環境も、肉体も全く違う。
何度、輪廻を転生したところで「今の私」が2年生だったり3年生だったりすることはない。
今世は1回きり。
全員、1年生だ。
私は1年程前から、アカシックレコードと呼ばれる人の前世や、異界のものを視る力が目覚めた。
仕事として口コミで依頼を受けるようになった。
そうしているうちに、人間みんなが背負っている前世を「ランドセル」のようだと思うようになった。
カバンとしての「ランドセル」は1年生になるときに1人1人に与えられる。
そこに、「生きる智慧」である教科書を詰めて登校する。
学校という社会集団の中で得手、不得手を学び、自分というものの形を認識する。
1年生が6歳になる時に学校に送り出されるように、私たちは「大いなる母」より然るべきタイミングで今世に送り出される。
そのとき、1人1人に与えられるランドセルの中には、目に見えぬ前世や、異界の力や智慧が入っている。
私たちは、そのランドセルの中身が何であるかを知りたいと無意識下で願い、一生かけて試行錯誤する。
「大いなる母」が詰めたランドセルの中身が、数学の教科書だった人は学者になるかもしれない。
裁縫道具だったのなら、服屋になるかもしれない。
包丁が入っていれば、料理人になるのかもしれない。
ランドセルには、その人がその人として生きるための智慧が詰まっている。
しかし、さまざまな外的要因で、そのランドセルを開けられないことがある。
その中に、私たちがホモ・サピエンスであるという理由がある。
幸福の尺度が「生存」なのだ。
寿命を与えられた私たちは、ランドセルを開けることを放棄すれば安定した生存が手に入ることをよく知っている。
それを幸福だと思うように設計されている。
与えられたランドセルの中身は一生かけても、知りつくすことは出来ないほどに豊かな智慧がつまっているのに。
私は何者なんだろう?
いや、何者でもない。
という自問自答は、生存に必要ない。
ではなんのために生まれたのか?
繰り返し探し続ける。
そう探せる人生に感謝しながら。
フルアルバム『丸に梅鉢』も、私のランドセルの中身を探すための、スタートライン。
つまりこのアルバムも1年生。
『丸に梅鉢』の大いなる母として、期待、智慧、愛を込めて、送り出したい。