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2.浮世絵(丸に梅鉢・楽曲コラム)
浮世絵、といわれて思い浮かべる絵はあるだろうか。
葛飾北斎の富嶽三十六景、神奈川沖波裏
歌川広重の東海道五十三次
菱川師宣の見返り美人
有名な浮世絵はたくさんあるが、この楽曲のタイトルである「浮世絵」は、どの絵も当てはまらない。
では、どの「浮世絵」がこの楽曲のテーマなのですか?という話になる。
私がこの楽曲に「浮世絵」というタイトルをつけた意味は、「絵」とは別のところにある。
私が、文字への執着がある人間だということを前提に、その話をしよう。
歴史で「浮世絵」について習ったのは、小学5年生の頃だろうか。
「浮世絵」という文字を見たときに「なんて不思議な名前なのだ」と思った。
「浮世」とは、定めがないこの世のこと。
定めがないこの世、それを「絵」とする!?
わざわざそんな言い方をするだろうか。
不思議だ、不思議だ、と考え続けて、最後に、これはものすごく格好いい名前だという結論に至った。
「定めがないからこそ切り取ってやろう」
そんな江戸っ子の精神性が感じられるような気がしたのだ。
「浮世絵」という言葉そのものが「転がりゆく、定まらない世を書き留める美学」のように思えた。
そうして、この曲のタイトルとなってもらった。
そのため「この歌からは浮世絵そのものが浮かんでこない」と言われたときに、「そりゃそうだ」と思うのと同時に、怒りが腹の奥に沸るのを感じた。
公表した以上、誰がどんな感想を持とうとかまわない、心からそう思っているのに、怒りが湧いたことに驚いた。
そこで、「私は視覚よりも文字から感じるウエイトが大きい。」と改めて思ったのだ。
僕らはいつも置いてけぼりだ
置いていかれる浮世をにいるからこそ、僕らを切り取るための絵が生まれる。
「浮世絵」という言葉の背中を借りて込めた、今を切り取るという精神性は、この歌い出しとセットだ。
浮世絵という絵画そのものを想起させるために、このタイトルをつけたのではない!と1人でメラメラ悔しさに燃えた。
さて、言葉の話ばかりして、しかも怒りをたぎらせてしまったが、私は「絵」としての浮世絵のことも好きだ。
浮世絵の、平面的でありながらもモダンな奥行き、静動併せ持ちながらもすっきりと潔い画面構成にはいつも感動する。
今回、『丸に梅鉢』のアートデザインには「浮世絵」が入っている。
葛飾北斎の富嶽三十六景で描かれている雲
歌川広重の亀戸梅屋敷で描かれた梅
CDを購入していただいた方には、ぜひ、外側の静けさと、内側の華やぎのコントラストを楽しんで欲しい。
浮世絵という造形美に、私の作品も乗っからせていただいている。
それでもやはり、これらを「浮世絵」というジャンルにしようと名付けた人物のセンスの良さに、言いようのない感動を覚えるのだ。
私は「文字側」の人間なのだろう。
「浮世絵」という名で切り取られた楽曲のゆく末も、楽しんでもらえると嬉しい。