tofubeatsで父親の死を実感した話
物心ついた時から私にとって、実家とは、居心地の良い場所ではなく、長男の嫁として舅、姑からの嫌がらせ!?虐め!?に日々耐えながら生活する、いつも機嫌が悪い母親の顔色を伺いながら、『手のかからない良い子』でいる事で、少しでも母の助けであろう、機嫌を取ろう、とする健気な幼少期を過ごした。
(当時は気付かなかったが、年々、自分が人間として成長する度に舅姑の態度でそれがわかるように。そして、私は大人になってメンタル病んで内省を何万回とした時に、自分は自分の気持ちを優先せず、人の気持ちを慮る、そして、周りからの目、体裁優先で自分の行動を決めがちだった自分に気付いた。後の祭り笑)
一方、父親は基本、『いい奴』だった。滅多に怒らない、怒られた記憶は一度だけ。
(高校時代、喫煙見つかって停学になった時だけ苦笑)控えめなお調子者、サービス精神旺盛で、外ヅラ最高。ただ身内、いや、妻、私の母には厳しい、というか身内、親類縁者諸々達と母親との軋轢を見て見ぬフリ。私の母が我慢したら済む事、そして母の味方にはならない。事なかれ主義。そんな父親だった。
(でも母親の機嫌を取るのはそれなりに上手で両親がケンカした日、その夜は早寝させられるのだが、結果私は深夜ほんの少しだけ起きてしまい、そんな時、両親はたいていの場合、しっかりセックスしてたし、半年に1回は私と弟を祖父母に預け2人でデートしてた記憶)
そんな父だったが、エンタメ、特に、音楽やお笑いを積極的に私に享受させてくれた。単純に、父親の趣味を浴びただけかもしれないが、
「自分が聴いて気に入った曲を自然に鍵盤で弾ける
自分が好きな曲を譜面が読めて自力で弾けたら
俺の人生、きっともっと楽しかっただろうから。」
という理由で私にピアノを習わせてくれた。
今となっては、感謝と同時に、即ドロップアウトし母親をイラつかせた弟の代わりに母親に怒られ泣きながらもピアノを練習し、程よい所まで、母親が、
もうピアノって感じじゃないよね、男の子だしという年齢、中2まで、10年、なんとか続けた。
うちには父の妹のお古のアップライトピアノがあったし、父親のフォークギターが2本。ギターの教本もあった。周りの人が寛大で音量を気にする事はなかったし、少ない小遣いで父親がコレクションしたCDは名盤ばかりで、アンテナの感度は自分を田舎者と卑下していた、1度も地元から出る事はなかった父親にしてはセンスがよく、私の、とても広くそして、そこそこの深さはある音楽知識の基盤となってくれて、人生を豊かにしてくれた。あと当時では珍しくWOWOWにずっと加入していたのも大きかったように思う。
(お笑いはクレイジーキャッツ、TBS系のドリフをめっちゃ観てたし、WOWOWでシティーボーイズのコントを観て録画して何度も…みたいな渋い幼少期)
そんな父親が本当に大好きだったミュージシャンが森高千里だった。母親の目もあり、普段はそこまで熱くないのだが、母親のいないタイミングでライブビデオを見たり、録画した音楽番組を観たりすると、たまに私に、森高千里の素晴らしさ、一般的なアイドルとは全く違う事、当時は珍しかった自分で作詞作曲したりする事や、その内容の斬新さ新しさ、面白と見せかけてシリアスだったり、お祭りも出来るし、ド直球バラードもイケる幅の広さ、あわせて歌唱能力の高さ、声質の良さ等などを語ってくれた。
(きっとビジュアルも本当に大好きだったのだろうが、そこにはあまり触れなかった)
18で私は家を出た。上京した。無理を言って。私が自分で探した安い古いボロアパートを見て父親が、「もう少しは頑張れるけどな苦笑」と言われたが、甘えなかった。大学行きながらバイト三昧。実家には寄り付かず、そのまま就職した。当時勢いのある名の知れた会社で、父親は喜んだ。短いスパンで全国転勤、海外赴任もある会社だった。(父の死後、父の勤めていた会社に挨拶に行ったのだが、父の同僚、上司は、「長男さんの話は定期的に聞かせてもらってました。またどこどこに異動だ。今回は栄転っぽい。次はかなり大きい所らしい。」と自慢気に話していたそう。)私は本当に忙しく、そして苦しくも楽しく働いた。更に実家に寄り付かなくなった。
母親はもちろん、父親とも滅多に連絡は取らないのだが、父親とはエンタメ情報、特に音楽の情報交換を思い付いたタイミングでお互いがしていた。
拓郎がBSにいついつ出るぞ。今の部屋BS観れるか?とりあえず録画はしとく。
お前の言ってた◯◯、今、俺も聞いてるけど、来週Mステ出るな。売れたな。
こんなメールのやり取りをするのが、唯一の親との繋がりだった。
そんな生活をしていたある日、会社の昇格試験前日の朝、珍しく母親からの電話があった。
父が死んだ。
父親から受け継いだ外ヅラの良さ、仕事で培った対人スキルを駆使し、親類縁者、その他、色んな所にいい顔はしつつも、冷徹に思い切った取捨選択を繰り返し、喪主やその後の手続きをやり切った。その時に助けになったのも父親の言葉だった。
父の死の1年前。祖父が亡くなった。祖父は私が実家に帰る度「道玄坂から富士山見えた」という名言を遺した生粋の叩き上げ職人。若くして東京で修行し、地元に戻り、全盛期は弟子を十数人抱える大工の棟梁だった。むちゃくちゃ稼いでいたらしい。祖父の出自は貧しい家柄、家の墓すらなかったらしい。そんな祖父は婿入り、祖母と結婚。祖母を溺愛していた。そんな祖母は私の父を溺愛していたので相当甘やかしたし(女、女、女ときて、待望の末っ子長男が父)、その影響もあって、祖父母は私の母に厳しかったのだろう。そんな話はどうでもよく、祖父は兄弟が10人。(腹違いやら何やら真実は誰も知らないらしい苦笑) 古くからの慣習を重んじる存命親類縁者も多く、私が全く預かり知らない所で、私の父は祖父の死後、本当に大変だったらしい。どの方向にもいい顔する生き方だから、自業自得なのだが、それはそれは祖父の死からの諸々は大変だったらしい。そんな祖父の葬式後、父は私に言った。
「俺の時は、こんな事しなくていい。お前の知ってる範囲の人に連絡してくれたらいい。もし、俺が死んだのを知って、来たいと連絡してきた人だけで、サクっと済ませて欲しい。最低限最小限がいい。頼むよ。」と。
ただ、私が喪主、そして、その後の手続きを最短最速でやり切ったのは、他でもない、早く仕事に戻る為、だった。父の死で、そのタイミングでの昇格のチャンスはなくなった。まぁ仕方ない。私は私の日常に戻った。何も変わらない。18に家を出て、そこから十数年ひとり暮らし、(同棲を何回か挟みつつだが)、もうすでに私の日常に父も母も弟もいない。いつもひとりだから、父親の死を実感する事なく、私は日常に戻っていった。
2013年年末。あれは12/30だった。仕事柄、毎年、年末年始に休みはなかった。当時は雪国勤務中だったので、深夜、仕事を終えていつものように雪かきしてクルマを運転し、唯一深夜もやってるラーメン屋に向かう所だった。クルマ移動中は地元のFMを聴くようにしていた。地域の情報収集はもちろん、地方のFMは選曲に気合いみたいなものを感じるからだ。(あくまで個人的な感想)その時に流れてきたのが、
Don't Stop the Music!
だった。
アレ!?、、、。コレは森高の声だよな。でも曲調が完全に最新の音楽。なんだコレ!!めちゃくちゃ良い!!
完全に心を掴まれた瞬間だった。
調べてみると、何でもtofubeats君というDJの楽曲にフューチャリングしてるとの事。ラーメン屋の駐車場に着いたのだが、そのまま曲を最後まで聴いた。そして、おもむろに携帯を取り出し、父親にメールをしようとしたのだ。
森高がtofubeatsという新しいアーティストとコラボした楽曲知ってる?めちゃくちゃ良いからまだ聴いてなかったら即聴いた方がいいよ。
と。
ただメールを打とうとした瞬間、はたと気付いた。
父親は死んでいた。
私はそこで初めて、父親の死を実感した。
好きな音楽を分かち合う友、のような存在を亡くしたのだと感じたと同時に、最近は疎遠だったが私を産み(正確には産んだのは母だが)育ててくれた父はもういないのだ、死んだのだと。
通夜、葬式の最中にも流れなかった涙が溢れた。ラーメン屋には入れなかった。そのまま自宅に帰った。キッチンにストックしてあった、父親が大好きだったシーフードのカップヌードルを食べてその日は眠った。その日食べたシーフードヌードルはいつもより少ししょっぱかった…みたいな事はなく、普通に、本当に、いつもの味で旨かった。
それから数年後、遂に私は働き過ぎからの燃え尽きで仕事を長い間休む事になる。その時、何も出来ない自分の時間を楽しく埋めてくれたのが、
ハードオフビーツ だった。
Don't Stop the Musicを初めて聴いてから約10年。
2024年11月15日。恵比寿Garden Hallにて、tofubeatsのワンマンライブを観た。
感想はポストした通りだが、初の生tofubeatsはもちろん、ゲストで登場した、これまた大好きな藤井隆さん。そして、森高千里さんを生で観聴きした。感動だった。
親父よ。あんたは森高を生で観た事はあったのか!?甘やかされてはいたものの、ちゃんと働いて我々を養う、育てる生活で、ライブに行く、行ったという話をあなたから聞いた事なんてなかったな。でもさ、親父が好きだった、そして俺も好きになった森高を遂に生で観たぞ!!ララサンシャイン!!って歌ってたぞ!!親父はDon't Stop the Musicって曲は知ってたか!?ララサンシャイン同様、長年の月日が経っても色褪せない名曲だぞ!!スゴかったぞ!!
今後も私は微力ながらtofubeats君を応援し続けるし、会場にいた森高ファンの皆様が本当に楽しそうで、森高千里ワンマンライブにも是非機会を作って行ってみたいと感じた、そんな夜でした。