VALUをやってみて思ったこと

まず、審査に通りませんでした。本名でないとだめだそうです。本名でやればいいのですが、本名をあかしたくない理由があります。それについてはまたお話します。本名を明かしたくないのは私の勝手なので、運営が本名でやりなさいというなら、そこは批判せずに発行を諦めます。そのうえで感想を書きます。

VALUは大人の社交場だと感じました。私は年齢、肉体は大人ですが、ここでいう大人には満たしていないと思われます。経済的に自立できていませんし、これまでの実績もありません。将来にむけて公共の利益になるような何かをしようとしているわけでもありません。そういった最低限度のことがPRできなければ、仮にVAを発行できたとしても、支援は集まらないと思います。

現実社会では、私が大人になりきれていないことは私自身の責任とされます。なぜ私はここでいう大人になりきれていないのか、その点は全く考慮されません。もちろん、あたりまえのことです。あたり前田のクラッカー!

VALUでこれまでやってきた実績を書きたくても、「親を介護しながら資格を取得し正社員で働いていたが難病になった、」と書くくらいでしょうか。今後についても、ほぼベットで寝たきりでは今後どうしていったらいいかわからない状態です。

私の不幸自慢をしたとしても、「それは大変だったね」というくらいで支援にはつながらないと思います。気の毒にと支援をしてくださっても、そのお金は生活費に消えるだけです。それでは一時の支援にしかならず、私はそれではだめだと思います。だからといって、私には何かいい展望が思いつくわけでもありません。だからこそVALUという場で皆さんの意見を聞いてみたかったと思います。VAを発行できたら、株主総会のようなものを開いて、資金の使い道や今後について、みなさんに意見をいただけたらと思っていました。それもかないませんでした。

また、例えば、みなさんのわに入るため、優待に入るため、VAを買いたいと思っても、みなさんならためらうことなく購入できると思いますが、私は500円、1000円でもためらいます。貯金を切り崩し、所持金がそこをつく時が刻々と近づいている状態だからです。

VAが発行できなかったことも、みなさんのわに入れなかったことも、それは私自身の問題であり、私自身に能力やその他の色々な事が備わっていればよかったわけです。人間力、人間の魅力というものでしょうか。

もちろん、競争社会である以上、淘汰されるのはあたりまえです。ライオンが獲物を狩ろうとしているとき、シマウマが「親が障害があって介護しないといけないの、私も障害があって大変なの、見逃して」と言うと、ライオンが「お、そうか、それは可愛そうだから見逃してやるよ」というわけがありません。

人間の競争社会も同じです。しかし、人間社会には、これまでの経験の蓄積からそれだけではだめだと、セーフティーネットというものがあるわけです。このセーフティーネットも日本は満足に機能していません。税金を払っているので、きっと機能しているはず、そうみなさん思っているだけです。みなさんが政治に無関心だから政治家の怠慢が許され、セーフティーネットが軽視されているといっていいでしょう。

もちろん、VALUはセーフティーネットではないでしょう。だからこそ、ALUに参加している人々にゆだねられているといってもいいと思います。現実では民主主義が完全に正しいことをするとは限らないので憲法で、例えば生存権が設けられています。しかし、VALUにはそれがありません。ですから、あとは皆さんの心しだい。それはいい側面もありますが、逆に危うい側面もあると思います。

VALUは人とのコミュニケーションもインターネット上ですし、VAやビットコインというもので、バーチャルな要素が多いです。しかし、そこにいるのは紛れもない人間です。VALUは現在多くが日本人だと思われます。そのため日本の現実社会そのものだと感じます。現実と同じ、最低限生きていく資金(余裕)のある人で、能力と努力が一定以上できる”大人”が参加できる世界です。それ以外は相手にされません。

困っている人にいちいち声をかけて助けたりはしないでしょう?

もちろん生まれてきた差はあります。みなさんが何不自由なく生活してきたとは思っていません。大変な苦労と努力をしてきたり、色々な経験をされて今にいたるのでしょう。しかし、どうしようもできない状況があったり、大きな格差があり、スタートラインに付けない状態があり、それを許し、放置しているのは、競争社会の崩壊だと思います。そして、最終的に行きつくのは世襲社会だと思います。私からすると、みなさんのいわれる大人は貴族のように思えます。貴族は貴族どうしで支援を行っている。ますます貴族は栄える。貴族からすると平民のお前はなんでこんなことができないんだ、こうすればいいだろう、と思われることでしょう。その当たり前がない人はどうしたらいいのでしょう。

NEETという言葉があります。巷では、90年代に流行った新しい生き方、フリーターの言葉のごとく、気軽に「お前はニートだ」、「私はニート」、いわれています。本来のNEETは就学・就労・職業訓練のいずれも行っていないのはなぜかを調査し、どういう問題がそこにはあり、どうすれば社会がよくなるのかを研究しようとして作られたラベルです。日本ではそのラベルを”何か”の代名詞にしていることがとても遺憾に思います。これが教養のある”大人”のすることなのでしょうか。

私は親の苦労はあっても友人たちの助けもあり、資格をとり正社員として働いていました。会社にいるとき、かわいい女の子が保険に入って♪と直筆のお手紙入りパンフを持ってきました。私は将来、障害者になるなんて少しも思わず、ただ女の子に鼻の下を伸ばしているだけでした。みなさんだっていつかは死ぬのです。それまでに健康で働ける状態が続くかはわかりませんし、セーフティーネットで保証してもらえない難病になるかもしれません。年金は2割減らされるそうです。老後どうなるかわかりません。”私は大丈夫と”、”なんとかなる”、そう思えるのは、あなたに、お金(財産)、親や友人など、そうした心の緩衝材があるからです。それはとてもいいことなのですが、なくなった場合どうなると思います?



追記

省いたところ。

また、VALUを作ったかたは、「複数の新規事業立ち上げに従事してきましたが、資金が足りず事業を大きくすることを、どれも諦めるしかありませんでした。」が出発点のようですし、弱者を助ける制度というより、ある程度実現可能な人がお金という問題で躓いているところを助けたいという目的ではないかと私は思います。現にFacebookなどフォロワーが100人以上でなければ審査対象にならないことからも、ある一定以上の実績を求めているのではないかと思います。その一定以上に足りない人は参加できません。


その一方で、「海外展開もしたくて、「子どもに勉強道具を買ってあげたい」という発展途上国の人が出てきてもうれしいです」といわれています。よくわかりません。揚げ足かもしれませんが、発展途上でなくても日本にも勉強できない人がたくさんいるので、上記のようなことを考えているなら、将来の日本を支える子供がNEETにならないように支援して欲しいと思います。


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