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白い夏と緑の自転車、赤い髪と黒いギター
無邪気だった季節をちょっと引っ張り出してみます。どうも毎オムです。
気が付けば7月。風吹けば恋。
そんな韻を踏みながら今日も今日とてただ思ったことを羅列していく。
在宅勤務が続きすぎて、もはや会社ってどんな感じだったっけ?ってなってます。
今私は、特段やることがないのだが(担当している仕事が終わってしまっている),まだ入社2年目、配属されて半年なので勉強をしたり、自分の担当しているものはせめて理解しようということを淡々とやっていたりする。
こう、目標をその日に立てて今日はこれしようとか、これを理解しようとか、資料でも作るか、と細かい目標を立ててはいるのだが、思ったようにやる気が出なかったり、達成感もないので熱が入らない。
とはいえ、時間がたてば今担当している仕事が動き出すはずなので、それまでの時間を有効に使うべき!むしろ無知ボーイの私には天より与えられた猶予だ!と思う節もあるので、助かっている面もある。
ちなみに私は、エンジニア、技術者と呼ばれる類の仕事をしているので無限に勉強することはある。設計業務ではあるが、分からないことが多すぎる。きっと学生時代さぼってきたツケだ。
昨日の棚林君の記事にもあったが、時間を無駄にしている感が一番ストレスになる。
自己管理しようとしてできないことへのストレスもある気がするので、もしかすると私もまた歪んだ完璧主義者なのかもしれない。
よく、在宅ワークで部下がさぼってないか?みたいな心配をする記事をネットで見るが、さぼりたくなくて苦痛を受けている立場である。
やってはいるが、思ったように進まなかったり、理解できず調べまくって成果0みたいな日はこの苦痛を本当に受ける。
人によっては、さぼり放題でラッキーと思うだろうが、変に真面目なのか、世渡りが下手なのか、まぁバカなんだろうなと思うわけだ。
というような人結構多いんじゃないかな?と思う。とくに新人の人。
同じような境遇に立たされている人にはぜひ意見を乞いたい。
とまぁ、私の日常についてはこれくらいにして、話題を変えようと思う。
優しい人の愛を見殺しにして生きてきた
この見出しはなにか、また好きな歌の歌詞から引っ張り出したのだが、こういう歌詞には作者の心情が詰め込まれているので、共感できる歌詞というのは仲間ができた気がしてうれしい。
たまに(よく)、媚を売るかの如く共感を求めてきてそうな歌詞があるが、それは違う。本人が経験してきたすべてが詰め込まれた歌詞にこそ意味がある。音楽は生き様でもあるのだ。と私は思う。
わたしは少年のころ、優しい人の優しい愛を見殺しにしてきたなぁなんて思ったりする。
好意を持ってくれている女の子と、めんどくさくなって距離をおいてしまったり、優しく接してくれるけど性格が合わなさそうな人を無碍に扱ってしまったり。
この年になって思うのだが、人にやさしくするというのは勇気がいる。
愛情をもって接するなんて特にだ。
昔は、そんなことも考えずに、気の合う人には優しくできたり、年齢関係なく無邪気に接することができた。
今はどうだろう、常識の範囲だからというやさしさでしか人と接することができていない気がする。
もちろん、みなそんな感じだと思うので、優しい人からの優しい愛など受ける機会は減った。
当時、仲良くしてくれていた人たち、小学生のとき仲良くしてくれた人たちに平等に接してこれていただろうか。
一人ひとりに向き合って接していただろうか。
楽しそうな人とそうでないひとでは、きっとウエイトが違っただろう。
優しい人の優しい愛を見殺しにしてきてしまったと、今になって思い出す。
夢中だったおもちゃの兵隊は、もう一歩も進まなくなってしまった。
26歳になって、うそをついてすり減った僕の歌はどんな風に響くのだろう?
このスープはとっくに冷めている、特別じゃない、終わっていくんだな。
彼の歌うこの一節はとても心が痛む。
自分は他の人とは違う。自分ならできる。と思っていても特別じゃないと実感する。
あの青春の数ページも、ずっと続く事なんてなかった。大人たちと同じように、終わっていってしまった。
それでもまだ、あの虹を見ている。不自然じゃないんだ。みっともなくても夢の続きを見続けたいと思う。
ここは途中なんだって信じたい。
I can feel that Hybrid rainbow.
ではでは、毎オムでした。