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「遊び」と「勤勉」〜冗長性と学校事務職員
「いい意味でヒマに」
月刊「学校事務」2025年2月号が届いた。
全体はまだ斜め読みだが、「学校事務職員のわ」コーナーに今回掲載の「遊びのあるハンドリングを♩」が目を引いた。
大阪の小学校事務職員である筆者は、勤務校の技能職員(用務員)のこんな話に同感したという。
「自分たち一人職はいい意味でヒマにしておかないといけない」
筆者はこれを学校事務職員に引き付けて、次のように述べている。
業務の特性としてリアクション対応(頼まれごと、コトが起こってからの対応)も少なくないことは事実。いざという時に出動できるように、こちらのキャパの余力はつくっておきたいところです。
嬉しいなぁ
これが目を引いたのは、かねて私自身も「学校事務は『遊び』である」と、ところどころで述べてきたからだ。
つまり、筆者(と技能職員)に大いに同意するところ。
言葉選びとスタンスの共通性に嬉しくなった。
立ち位置としての「遊び」
「学校事務=遊び」論を初めて提唱したのは、2010年代後半のいつだかの全交流(全国学校事務労働者交流集会)の席。
その後もX(Twitter)で何度か言及した。
例えば20年3月。あるネットメディア記事を引用しつつ次のように。
《日本の公共部門は、本来自らが担うべき業務を民間に任せることによって、少ない人数でなんとかやりくりしてきた。公務員の削減は、一面で良質な雇用が失われることを意味している》これは重要な観点だと思う。
◇
《2000年代に入ってからのこの国は、公共部門の多くを「不要不急」のもとして切り捨ててきた。そのことが、今日の窮状を招いたのではないか。組織を円滑に機能させるためには、冗長性を、すなわちある程度の無駄やゆとりを抱え込むことが必要だ》
これは本当にその通りだと思う。
◇
私は以前、全学労連の夏の集会で「学校事務職員は『遊び』である」と提唱したことがある。遊戯のことではなく、自動車のハンドルで言われる遊びのこと。
その場では、ミもフタもない言い方ということであまり評判は良くなかったし私も詳しく展開できなかったが、言いたいのはこういうことだった。
◇
特に昨今、教員不足が進行し特に臨時教員のなり手がなく、産休者や休職者の代替が補充されずやむなく教頭が学級担任を兼ねるような事態も起きている。
そうなれば背に腹は代えられない。本来教頭が担う業務の一部を、事務職員が肩代わりする場合があろう。私も数年前にそういうことがあった。
◇
しかしもしそのとき、もともと事務職員が負っている業務がすでに目一杯でこれ以上の業務を肩代わりするゆとりがなかったら?あるいは、そもそも事務職員が学校に配置されてなかったら?他にカバーできる人員もいない。
これすなわち、学校に「遊び」がない状態だ。これではもう学校は回らなくなる。
◇
どんな会社でも同じだが、学校にも「遊び」が必要だ。しかし、学校の業務や役割が増大の一途を辿ると共に、行政合理化で現業職員を中心に人員も削減され、遊びはどんどん減っている。
そうした中で、学校事務の「役割」ならぬ「立ち位置」として「遊び」という考え方はありなんじゃないかなと思う。
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アウトサイダーとしての「遊び」
あるいは23年1月。月刊「学校事務」連載の内田良名大教授インタビューを元に次のように。
月刊学校事務1〜2月号に連載された内田良名大教授インタビュー。
学校事務職員が学校組織・教員中心の学校文化・教育の論理に対して「アウトサイダー」「周縁」で「いられる」ことへの積極的認識に、強く同意するところ。
特に「いられる」の表現が良い。ここに学校事務職員の自立の価値と困難を見る。
◇
「いられる」表現。人数と管理職権力と教育の論理を背景にした学校文化の同調圧力に対して、放っといてもアウトサイダーでいられるわけでは必ずしもないことを理解されている。
法が「つかさどる」になったからこれからは云々、みたいな現場意識欠如のヨタ話を飛ばす、狭い研究者とは認識の幅が違う。
◇
ちなみに私はかねて「学校事務職員は学校の中の“遊び”である」と提唱しています。ここでの遊びというのは、ハンドルの遊びのこと。教育目標(=教育の論理)達成に向けて犠牲を払ってでも最短距離で走ろうとする車の、そのハンドルに埋め込まれた遊び。走りの障害になっても結果的な是につながる存在。
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「怠けてる」「ズルい」
この話、必ずこういう話になりそうである。
ただ、組織の冗長性やゆとりや多様性を確保するとはそういうことだ。
「共通の目的・目標に向けて全員一致団結して突き進もう」
いかにも学校が好きそうな考え方だが、とても全体主義的だ。
勤勉という逃避
いま、ビョンチョル・ハン「疲労社会」を読んでいる。
レビューするにはもう何度か読んで咀嚼して思考しないといけないが、その中でニーチェ『ツァラトゥストラ』のこんなくだりが紹介されている。
「きみたちはみんな、激しい労働を好み、また速いもの、新しいもの、見慣れないものを好む。ーきみたちは自分自身に耐えることができないのだ。きみたちの勤勉とは逃避であり、自分自身を忘れようという意思である。もしも、きみたちがもっと生を信じているならば、きみたちはこれほど刹那に身を任せはしないだろう。しかしきみたちは待つために十分な中身をもち合わせていない。ー怠けるためにさえ、十分な中身をもち合わせていないのだ!」
学校分権、地域連携、カリキュラムマメネジメント、教育事務、学校運営参画……。
絶えず目先を変えて新しい概念と学校事務を結び付け、ますますの「勤勉」=業務増を追い求める風潮の強い学校事務業界に、響く。