前提は疑わずに「つかさどる」ということ
「学校現場における課題の多様化・複雑化を踏まえ、令和の日本型学校教育を推進する上で教師が教育活動に専念できる環境整備のため、学校事務職員がその役割を発揮することが求められまた期待されている」
あたりが最新の学校事務役割論。
ただこちら、前提を所与のものとしている点に疑問があります。
例えば、これだけ疲弊し人も集まらない学校現場にさらに多様・複雑な課題を負わせることの是非は、かねて議論の俎上に乗ってること。
課題の中身、日本型学校教育の是非、教育活動に専念できる環境整備の中身、これからの教師の役割の変化。
吟味すべき前提はたくさんあり、実際検討に付されてます。
そこら全部すっとばして、学校事務職員への「役割」「期待」だけ取り出す学校事務論というのは、前提部分を所与のものとして疑いもせず丸呑みする姿勢であって、それこそ主体的でも対話的でも深くもなく、積極的でもない、思考のない現状肯定、つまり「つかさどる」とは真逆のありようだと言えましょう。
不思議で仕方ないのが、「つかさどる」を称揚し呼号推進し自身こそその体現者であるかのように振る舞う全事研や日教組事務職員部が、そうした前提部分に対しては一端の疑問さえ差し挟まないことです。
思考の枠組みを所与のものとしその中での行動しか考えないのは、まったくつかさどってないし、究極的には「凡庸な悪」にもつながる姿勢です。
しかし、そうした姿勢のもと「つかさどる」「参画」をキーワードとした学校事務役割論は、教育委員会当局や学校管理職の利害との一致も背景に、その影響力を広げています。
「つかさどる」「参画」が「凡庸な悪」の導入路となるとき、つぶされるのは誰でしょう。
おそらく、ひとりではありません。