「定型的」と断ずる人の仕事
学校事務の世界には、ある種の業務を「定型的業務」と呼んで、それへの軽視を露わにする方がいる。
それとセットで言われる近年の流行文句は「AIで代替可能」だ。
ただそれを見聞きしていると
「それはあなたが、その業務を定型的にしか執行していないだけではありませんか?」
と感じてしまう。
私は、どんな業務にも工夫と改良の余地があって、そのことが、賃労働に過ぎずとも「人」が仕事をすることの価値のひとつだと思う。
冒頭のスタンスの主=言ってしまえば日教組事務職員部や全事研の幹部=が、学校事務職員のかねてからの業務を「定型的業務」と呼び否定的に評価するのは、他ならぬ自身が、それらの業務に対する工夫や改良の歩みをやめてしまっているからではないだろうか。
工夫や改良は頭を使う。
その頭を使うことをせず定型的にしか業務遂行していないのであれば、確かにAIの方が役に立つのかもしれない。
(AIの現実空間における機能を踏まえると、なお私はそうは思わないが)
「定型的業務」で頭を使わない方が、いわゆる「企画・立案業務」になったとたん頭を使い始めるのか。
使い始められるのか。
はなはだ疑問だ。
誤解してほしくないが、私は定型的にしか業務執行しないことがいけないとは全く思っていない。
あくまで賃労働である。
工夫や改良はしない、求められてもいない頭は使わない。決められた仕事を決められた通りにやるだけ。
そういう働き方は全然アリだし、そういう働き方もまた絶対に必要なことである。
それはともかく。
ひとつの組織体の中にある業務を「定型」と「非定型」に分けて、役割を細分化しその価値の軽重・評価の高低につなげる発想は、果たして正しいのか。
様々な価値観、様々な立場に基づいても、あまりにナイーブな考え方であると思う。