「期待」という魔物と自己の根拠〜「ヤンキー母校に恥じる」を通して
はじめに
少し前に、河野啓さんの新著「ヤンキー母校に恥じる」を読んだ。
私は、「ヤンキー母校に帰る」から始まる一連のドキュメンタリーやドラマを、視聴したことがない。
あれが放映されていた当時はもう、テレビとは縁遠い生活を送っていた。
仮にそうでなかったとしても、そのような「感動モノ」「更生モノ」を視ることはなかっただろう。個人的に好きではないので。
ともあれそうなので、「ヤンキー先生」義家弘介氏のことは、よく知らない。
さりとて、政治家・義家弘介氏のことも、さほど知らない。
「『ヤンキー』が更生して教師になった後に、それを売りに自民党議員になった」という程度の認識。
以下はそんな、本書でほとんどはじめて義家氏について知ったも同然の人間が、本書により義家氏の「変転」を通して感じたことだ。
何に飲み込まれていったのか
義家氏の人生を飲み込んだのは、権力や地位や金ではなくて、「期待」という魔物だったのではないか、と私は思った。
氏に対しては多くの場合、「ヤンキー先生」の頃の氏と自民党議員になってからの氏の言動の変転が、問題にされる。
それは本書も同様だ。
もちろん、政治家である以上様々な視点から言動が検証されるものだし、その際に過去の言動との整合が問われ、過去の言動を評価する立場から変転を批判されるのは、当然であろう。
義家氏の言動の変転は、確かにそれに該当する。
ただ。
「期待」という魔物に飲み込まれた、というふうに見てみると、単に「前は良いことを言ってたのに、変わってしまった」ということとは違う、氏のあり方が浮き彫りになる。
それは文部科学副大臣のとき、文部科学政務官のとき、自民党ネットメディア局次長のとき、参議院議員のとき、横浜市教育委員のとき、講演に執筆にと引っ張り凧のとき…。
…母校に帰った「ヤンキー先生」のとき…、…いやもっと前から。
義家氏は、「期待」という魔物に飲み込まれ続けてきたのではないだろうか。
「ヤンキー先生」に係る、私は知らなかったがおそらく有名な美談。
義家氏が大学生時代、バイク事故で生死を彷徨った際に、母校の恩師が上京し看病し、そして泣きながら言ったという言葉。
氏に教師になることを決意させたという、この言葉。
「あなたは私の夢なの」
私はこの言葉にも、強い強い魔物を見ずにはいられないのだ。
「特別」寄りに変えていく
「義家氏には確固たる信念がなかった」。
そうした評価は氏の言動の変転ぶりからすれば当然起こり得るものだろう。
ただ一般論を言えば、そうした変転を見せる者は政治家を含めごまんといる。
その上で、氏にそうした変転を合理化せしめたのは「期待」であり、「期待に応える」というこれまた一般論を言えば決して悪いことではない行為だったのではないだろうか。
「ヤンキー先生」として有名となった頃。
義家氏に寄せられた(社会の多数の)「期待」とは、勤務校で授業を行うことではなく、講演や本を出版することだっただろう。
教員において、授業は「当たり前」のことであり、講演・出版は「特別」だ。
そして「期待」は「特別」に寄せられるのであり、「当たり前」に寄せられることはない。
「期待」という魔物。
信念がなければ、いや信念を持つ者でさえ、変えてしまう。
しかもそれは、外からの説教や啓蒙や強制ではなく、その者の内面から自発的に。
「期待に応える」という、善意と責任感と誇らしさと自負をエネルギーとして。
それは義家氏だけの話ではない。
「期待」に自己の根拠を置けば…
「期待に応える」ことと一体で内発した、善意・責任感・誇らしさ・自負。「特別」な自己。
それが、その人なりの正義感と猛進を生み、さらには過度な自己肯定と他責傾向を強める。
義家氏の変転は、そういうことだったのではないだろうか。
善意も責任感も誇りも自負も正義感も猛進も、それ自体は決して悪ではない。
しかし。
他者の「期待」にその根拠を置くなら、「他者」が変われば「期待」の中身は変わり、ひいてはそれに依拠する自身の信念や言動も変わってしまう。
エネルギーは変わらないのだから、その人なりの正義感と猛進、自己肯定と他責傾向はそのままに。
義家氏は、その時その時に背負った「期待」に応えてきた。
その結果が今であり。
またかつての「ヤンキー先生」であった。
…のではないだろうか。
「今の自分の日常」
「期待」という魔物。
繰り返すがそれは義家氏だけが直面するものではなく、身近なそこここに潜んでいる。
人は期待を求めるものだし、期待されれば応えたいと思うもの。それはいい。
でも、そこに自己の役割や言動や意義や価値や根拠まで置いてしまえば、魔物の餌食になるのみ。
いかにも。学校事務業界についても同様だ。
事務職員は、(2)マネジメント機能強化という箇所で、教員(教員出身の副校長・教頭も含め)とは異なる総務・財務等の専門性を持つ職員としての存在意義が評価され、これまで以上に権限と責任を持って学校の事務を処理することが期待されました
ー藤原文雄・国立教育政策研究所総括研究官(当時)
「チームとしての学校」と「つかさどる」事務職員
https://www.nits.go.jp/magazine/h30/20181026_001.html
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https://zenjiken.jp/wysiwyg/file/download/1/36592
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https://zenjiken.jp/wysiwyg/file/download/1/36592
“「期待」は「特別」に寄せられるのであり、「当たり前」に寄せられることはない”
そう書いた。
なお付け加えれば、「期待」は「未来」の「特別」に寄せられる。
それに飲み込まれたとき、「今の自分の日常」は、いったい誰が大切にするのだろうか。
「今の自分の日常」において、なすべきことはないのか。
「今の自分の日常」の行動を、必要としている人はいないのか。
「今の自分の日常」は、他者の「期待」に応えることよりも価値がないものなのか。
私はそうは思わない。
人間としての生命も生活も。
そして学校事務職員としての仕事も。
「今の自分の日常」における「当たり前」の積み重ねが、あくまで基盤なのだ。