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ハッピー・バレンタイン

第一章

 とりあえず僕はそのチョコレートを眺めながら、時計の秒針が刻む音を数えていた。薄いピンク色の包装紙に、一見すると無造作に貼られたハート型のシール。どこにでも売っていそうな、もしかしたら新宿駅西口の小さな雑貨屋で買ったような――そんな既視感を覚えるものだった。それがなぜ、僕の郵便受けに投函されていたのかは謎のまま。宛名が書かれておらず、差出人も不明。ただ「ハッピー・バレンタイン」とだけ手書きで書かれたメモが同封されていた。

 僕は29歳の翻訳家だ。一日のほとんどを自宅のデスクで過ごし、翻訳する小説や企業のレポートを読み、時々ネットの海をさまよう。それなりに気楽な生活だが、この暮らしには決定的な欠落がある。それは「人と交わす会話」――特に感情のやりとりの類だ。誰かと一緒にチョコレートを食べ、他愛のないことを話し合うこと。そういう、日常の小さなやりとりを最近はめっきり忘れかけていた。

 「やれやれ、これはなんだろう」などと芝居がかった言葉を口にしつつ、僕は包装紙を静かに開けた。中から出てきたのはチョコレートというよりは、銀色に光る小さな立方体だった。その表面には何やら記号が刻印されている。最初は暗号のようにも見えたが、じっと見つめると複雑な幾何学模様にも見える。もしかして、ただの飾りかもしれない。ともかく、それは食べられるチョコレートには思えなかった。

 直感的に、この奇妙なチョコ(と呼んでいいのかも定かではないが)を口に運ぶのはあまりにもリスキーだと感じた。しかし同時に、捨ててしまうにはあまりに興味をそそられる存在感があった。「変なものを食べても、どうせこの世には死ぬまでにいろいろある」。そんな自暴自棄混じりの開き直りも少しは手伝って、僕は意を決して、その立方体を指先で割ってみることにした。

 意外なほど脆く、軽い音を立てて二つに割れた瞬間、視界がほんの僅かに歪んだように思えた。乾いた電流のような刺激が指先をかすめ、思わず息を呑む。まるで自分の身体が、一瞬だけ別の周波数にずれてしまったような感覚。気のせいかもしれないが、その刹那、僕の中で何かが小さく弾けた気がした。そして少し遅れて、甘いチョコレートの香りが鼻腔をくすぐる。夢と現実の境界を、ほんの微妙な角度で壊すような香り――僕はそのまま、断面をそっと舌先に触れさせてみた。すると、胸の奥で正体不明の鼓動が微かに高鳴った。


第二章

 その夜、どうにも落ち着かなくて、僕はふらりと外に出た。チョコの断片が舌先に触れただけで目まいがし、部屋には奇妙な静電気が漂っているように感じられたのだ。外の空気に当たろうにも、バレンタイン当日の渋谷や新宿の街並みは、恋人たちと観光客とで騒がしい。だから僕は、敢えて少し離れた場所――青山通りから路地裏に入ったところにある不思議なバーに行くことにした。その店は看板こそないが、確か「クロノスタシス」と呼ばれていると聞いたことがある。

 ガラス戸を開けると、店内は薄暗く、LEDで照らされたカウンターがぼんやり浮かび上がっていた。中には客が一人だけ。それも、長い黒髪をさらりと垂らした小柄な女性だ。彼女は僕の姿に気づくと、ほんの一瞬だけ目を伏せたまま、小さく笑ったように見えた。「いらっしゃい」とバーテンダーが低い声で言う。僕は無言でカウンターに腰掛け、端の席にいた彼女と一つ空けて座ることにした。

 注文を済ませると、彼女が静かに「それ、食べちゃったの?」と問いかけてきた。僕はドキリとした。まるで僕があの「チョコレート」を口にしたことを知っているかのようだった。「ええ、まあ……ほんの少しだけですけど」「そう。きっと不思議な夢を見たでしょう?」彼女の言葉は、奇妙な確信に満ちていた。

 実際、あれを口にしてから、頭の片隅に奇妙な残響がずっと居座っている。断片的な映像が、まるで切り取られたフィルムのように浮かんでくるのだ。そこでは、僕はまったく知らない街並みを走っていて、ビルの壁には見たこともない文字が描かれている。歪んだピンク色のハートが、空の至るところに漂っている。あれが夢なのか、あるいは自分の記憶のどこかから引きずり出された映像なのか、判断がつかない。

 「あなた、まるで異世界転生小説の主人公みたいな状態になってるわね」と彼女は続ける。「いずれにしても、もう引き返せない。出会うべきものと、出会ってしまったんだから」。僕は彼女の言葉を不気味に感じつつも、その淡々とした口調に妙な安心感を覚えていた。なぜか分からないが、僕のなかにうっすらとした期待が芽生えていた。何かが大きく変わりつつあることを、感覚的に察していたのだ。


第三章

 バーを出るころ、彼女は僕に名刺サイズのカードを手渡した。手触りはプラスチックのようでありながら、どこか有機的な温かみをも感じる不思議な素材だった。片面には「ミア」とだけ印字され、もう片面には奇妙な紋様があった。あのチョコレートの表面を飾っていた記号に酷似している。グリッドを歪めたような幾何学模様の中に、折り重なるハートのかたちが見え隠れしていた。

 部屋に戻ってカードをテーブルの上に置くと、まるで生き物のようにかすかに脈動しているように思えた。試しにスマートフォンをかざしてみたが、NFCやQRコードの類ではないらしい。僕は興味が抑えきれず、カードを手に取ったまま、あの銀色のチョコレートのかけらを机の引き出しから取り出した。何かの暗号、あるいは鍵と鍵穴のような関係があるのではないか。そんな妄想が頭をよぎる。

 すると、スマートフォンの画面が突然明滅を始め、奇怪な音が響いた。「どうした?」と独り言をつぶやくより早く、画面には文字化けした文字列がびっしりと並ぶ。そこに、一瞬だけ「valentineday.exe」という文字列が浮かんだ。まさかウイルスかもしれない。焦って電源を落とそうとするが、ボタンがまるで効かない。代わりに、映像が一瞬切り替わり、見覚えのない都市のパノラマが映し出された。前に夢で見た街とそっくりだ。ピンク色のハートが宙を漂い、人々の顔にはチョコの紋様と同じマークが刻まれている。

 不安と興奮が入り混じった感情に翻弄されていると、部屋のチャイムが鳴った。こんな時間に訪ねてくる人などいないはずだ。ドアスコープを覗くと、そこにはバーで会ったミアが立っていた。僕は慌ててドアを開ける。「少し、時間がないの。あなたを連れていかないと、取り返しがつかなくなる」と、彼女は早口で言う。何の話か分からないまま、僕は引っ張られるように靴を履いて外に出た。そのままタクシーに乗り込み、目的地も告げずに彼女は運転手にカードを見せる。すると、運転手は無言で発車し、夜の街を静かに疾走し始めた。


第四章

 タクシーを降りると、そこは都心の一角にある地下研究施設らしき建物の入口だった。僕は戸惑いながらも、ミアに導かれるまま暗い通路を進む。奥には厳重な扉があり、彼女がカードをかざすと小さなビープ音が響いて扉が開いた。その先には、巨大なチューブが幾列にも並び、中には人間がカプセル状の装置に横たわっている。無機質な蛍光灯の光が、眠りにつく人々の姿をあらわにしていた。

 「いったいここは……?」と尋ねると、ミアは面倒そうにため息をついた。「あなたはまだ気づいていないのね。ここは“シミュレイティブ・バレンタイン計画”の実験施設。私たちは、このプログラムによって無数の“バレンタインデー”を作り出し、あらゆるパターンの恋と出会いをシミュレートしているの。その中でも、あなたは特異なパターンを示したの。だからここに呼ばれたのよ」

 耳を疑った。自分はただ翻訳家として平凡な日々を送っていたつもりだ。それが実はシミュレーションの一部だったとは。チョコレートに見えた奇妙な物体は、現実の制御を揺るがす鍵。僕が口にしたことで、プログラムの限界を越えた演算が行われ、ついに“外部”に接触できたという。「あなたが来なければ、このままプログラムは再起動して、また同じバレンタインを繰り返すだけだった。でも、あなたは目覚めた。だから、次のステップが必要なの」

 そのとき、背後のモニターに映し出されていた都市のパノラマが歪み、激しいノイズが走った。そのノイズの中で、僕は見覚えのあるカプセルを目にする。カメラがズームすると、そのカプセルの中には――僕自身が眠っていた。意識の混乱に耐え切れず、足元が揺らぐような感覚に襲われる。どちらが現実で、どちらが仮想なのか、もはや区別がつかない。

 「なぜ僕がここに?」とうわごとのように繰り返す僕に、ミアはささやく。「あなたがずっと望んでいたのでしょう? 孤独を超える、特別な出会いを。それがバレンタインなら尚更、効果的だった。あなたの深層意識がこのシミュレーションを完成させたのよ。でも、もう一度やり直すか、ここで目覚めるかは自由。あなた次第だわ」

 視界が急に暗転し、ビルの壁に描かれた無数のハートがぎらつきながら溶けていく。気がつくと、僕は自宅の机に突っ伏していた。あの銀色の立方体とカードは、まるで最初から存在しなかったかのように見当たらない。ただ机の上には、かすれた文字で「Happy Valentine’s Day」と書かれたメモだけが残されていた。そして、その裏面にはこうある――「実験成功、次回起動を待て」。脳裏に、微かな電流の弾けるような感覚が戻る。「どちらが夢なんだ?」僕は呟き、窓の外の街を見つめる。すべてがいつも通りに見えるはずなのに、街灯の光に混じって、僕の知らない文字が一瞬だけちらついたような気がした。バレンタインデーの不思議な出会い――それは、もう既に僕の現実の一部を侵食しているのかもしれない。

(終)

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