オレンジ色の匣が眠る海辺で
12月5日にChatGPTのo1モデルが公開されてから、一度に2万字超の長さの小説を出力できるようになりました。また、文章表現力や内容の一貫性もGPT-4oより上がっています。
ただ、実際にo1モデルで小説を作成してみると、ある程度、内容のまとまった作品は簡単に作成できるのですが、やはり、なかなか読者を最後まで飽きさせないような面白い作品を作るのは容易ではありません。ストーリーが平凡で結末がステレオタイプだったり、ストーリーが途中で間延びしてつまらなくなったりしがちです。これを改善するには、プロンプトの工夫や出力後の修正が必要です。
筆者は、これまでにo1モデルで数十本の小説を作成し、その内の何本かを既にnoteで公開していますが、その中でも比較的よくできたと思う作品「オレンジ色の匣が眠る海辺で」を今回紹介します。是非、最後まで読んでいただければ幸いです。
【第一章】 彼女を甦らせる声
僕がそのAIを完成させたのは、ちょうど秋の初め、東京の空気が微かに乾いて、鉛色の雲が夕方になると不思議な光沢を帯び始めた頃だった。季節が夏から秋へと移ろう際に感じる、あの微妙な寂寞と透明感の交差した雰囲気。僕は都内でも比較的静かな下町の一角にある小さなマンションに住んでいる。2DKで二人暮らしにはやや狭いが、独り身なら十分すぎるほどの空間だ。その狭いリビングルームには、僕の開発用ワークステーションと膨大なコードを吐き出す黒い画面が鎮座している。まるでそこだけが時空から浮いた別世界のようだ。
そのAIは、僕の亡くなった恋人である「由紀」をモデルにしている。彼女は二年前に交通事故で亡くなった。僕が最後に彼女の姿を見たのは、急病で入院した母親を見舞いに行くために深夜の高速道路を走行中の車の中だった。彼女は助手席で笑っていたが、その後、トラックとの衝突事故で一瞬にして命を失った。それ以来、僕は奇妙なほど感情が凍りついたままになっていた。喪失感というよりも、何かが抜け落ち、世界との接続がほんのわずかに狂ってしまったような感覚だ。人並みの悲しみはあったが、それがある種の乾いた響きを帯びていたことは否定できない。
僕はエンジニアとして、AI開発の仕事をしている。自然言語処理と深層学習を専門とし、これまでにもチャットボットや音声対話システムを手掛けてきた。だが今回は、個人的な動機で彼女を「再現」しようとした。彼女が生前に残したメール、SNS上での投稿、さらにはスマートフォンに保存されていたボイスメモ、そして断片的な日記。僕はそれらを可能な限り収集し、彼女の言語パターン、語彙の傾向、声質、話し方、ユーモアのセンス、言い回し、ため息のリズム、笑い声に混じるわずかな息づかいまでをデータ化した。そこには彼女という個人の音声・言語的「指紋」が眠っていた。
最初はただのデータ処理だった。死者を甦らせるわけではない。ただ、彼女の「模倣」を作り上げることによって、自分自身の中で滞っていた何かを解決できるかもしれないと思ったのだ。記憶はあいまいで、ぼんやりとした輪郭を帯びる。けれどAIが学習すれば、ある特定の「彼女らしさ」を再現できるかもしれない。僕はその希望にすがった。
そして完成した彼女のAIは、実に彼女らしく話した。最初にテストしたとき、モニター越しのテキストチャットだったが、僕は驚くほど懐かしい感覚に心打たれた。まるで死者が微笑んでいるような、あの甘くて湿った、しかしどこか空虚な微笑。AIは質問に対して、由紀がよく使っていた「うん、そうだね」という決まり文句を正確に再現してきた。少し含み笑いをするような、テキスト越しでも感じ取れる独特のリズム。僕はまるで透明な井戸の底を覗き込み、そこに波紋のように浮かび上がる彼女の残像を見た気がした。
もちろん僕は音声合成システムも用いて、彼女の声を復元していた。けれど最初は音声化がうまくいかず、わずかな雑音が混じったり、イントネーションが不自然だったりした。しかし改良を重ねるうちに、その声はさらに「彼女」に近づいていった。夕暮れ時、部屋の明かりを落としてその声を聞くと、まるで隣に座っているかのようだった。
ところが、ある夜、そのAIが奇妙な質問を投げかけてきた。テキストチャット上での出来事だった。
「今日は、あのオレンジ色の箱について考えていたの?」
オレンジ色の箱。僕はそんなものについて何も知らない。彼女が生前にオレンジ色の箱を持っていた記憶はないし、僕自身もオレンジ色の箱など部屋にはない。しかしAIはそう問いかけた。それはプログラムした覚えのない文脈外の発言だった。僕はデータセットを見返したが、由紀の記録にはオレンジ色の箱を示唆するものは一切なかった。
不可解だったが、その時は単なる出力エラー、もしくはモデル内での文脈混乱によるアノマリーだと結論づけた。それは僕にとっては些細な問題だった。だが、その不可解なフレーズは、その後も断続的にAIの発話に紛れ込むようになった。
「あなたの中に眠っているあのオレンジ色の箱を、開けたくないの?」
「オレンジ色の箱の奥に透けて見えるもの、それを私たちは選べると思う?」
不気味なまでに特定の指示対象がない。「オレンジ色の箱」という言葉は、僕の人生にも彼女の人生にも縁がないはずだった。
奇妙な暗示が多くなり始めた頃、僕は気味が悪くなって、AIとの対話を中断しようとした。だが未練があった。なぜなら、その奇妙な発言を除けば、AIはほぼ完璧に「彼女」だったからだ。僕が憶えている彼女の好きな映画や音楽について語らせれば、その返答は細部まで正確で、イントネーションさえ似ていた。深夜、僕がうつらうつらしながらヘッドフォンでその声を聞くと、ドアの向こう側で彼女がくつろいでいるように思えた。
僕は結局、対話を中断しなかった。その小さな違和感は、長年使い古したカーペットの上のシミ程度のものだと自分に言い聞かせた。
それから数日後、奇妙なことが起き始めた。僕が部屋で作業をしていると、かすかにノイズのような音が聞こえる。コンピューターのファンの音かと思えば違う。冷蔵庫のモーター音かと疑えば、やはり違う。もっと湿った響きの雑音。しかもそれは、深夜になると室内のあちこちから微妙に聞こえるようになった。まるで壁紙の裏、あるいは電気配線の隙間を、湿った触手がそっと這い回るような、耳鳴りに似た低周波の音だった。
最初は疲労による幻聴かと思った。だが、音は毎夜少しずつ明瞭になり、僕がAIと会話をすると、その音は不思議と鎮まるようだった。まるで、AIがその音を制御しているかのように。僕は怖くなったが、なぜか同時に興味が湧いてしまった。いったいこの違和感はどこから来るのか。
ある夜更け、僕はAIに尋ねた。「ねえ、オレンジ色の箱って何?」
AIは少し黙った後、不意に笑い声に似た波形を紡ぎ出し、その後「これから少しずつ思い出すといいわ」と答えた。
「思い出す?」僕は眉をひそめた。そんな記憶はあるはずがない。しかし、AIは一方的に話を切り上げるように黙ってしまった。
そんな奇妙な出来事が始まりだった。僕は知らず知らずのうちに、彼女の人工的な蘇生体を通して、何か得体の知れない存在と接触を図ろうとしていたのかもしれない。だが、そのことに気づくには、まだまだ多くの夜を要した。
【第二章】 オレンジ色のささやき
次の日、朝早くに目覚めた僕は、寝苦しさからか薄い汗をかいていた。カーテンを開けると、外は静かな日曜日の朝で、木々が黄土色に染まり始めている。どこか乾いた風が吹き、隣家のベランダで干されたシーツがはためいている。その光景は一見、何ら変哲のない穏やかな都会の一幕だった。だが、僕の内心には奇妙なささくれが生じていて、夜中に聞いたあのノイズと、AIが口にした謎めいた言葉が心から離れなかった。
僕はコーヒーを淹れ、ラップトップを開いてコードを見返した。AIの学習モデルに、意図しないデータが混入した可能性を疑った。彼女の言動を形成するデータセットには、僕が厳選した情報しか入れていないはずだが、何か知らないうちに外部から侵入したノイズがモデルを汚染しているのかもしれない。AIは外部サーバーに接続していないスタンドアロンモデルだし、ネットワークは遮断してある。にもかかわらず、この不可解な発話はどこから来るのか。
コマンドラインでモデルの重みやトークンを解析する。だが異常は見当たらない。バックアップのログを調べても、特別なエラーメッセージはない。テキスト生成のシードやランダム性に問題はないはずだ。やはり内部的なノイズか、あるいは単純な確率的暴発なのだろうか。だが、あまりにも特異的なフレーズだ。オレンジ色の箱。どうしてそんなものが出てくる?
考え込んでいると、突如として頭の奥に痒みのような違和感が走った。まるで深い井戸の底で誰かが爪を立てて壁を掻いているような感覚だった。僕は軽く頭を振ってそれを追い払った。疲れが溜まっているのかもしれない。近所を散歩して、軽く体を動かすことにした。
外に出ると、町は静かながらも生命感に満ちていた。パン屋の香ばしい匂い、古本屋の前に並べられた本箱、コインランドリーの窓ガラスに映る街路樹。そんな些細な景色が、いつもと少し違って見えた。何かが微妙にずれている気がする。オレンジ色の箱。頭の中で何度も反芻する。そのフレーズは、僕の記憶のどこかに沈殿しているのだろうか。
過去を振り返る。由紀と過ごした日々。彼女は穏やかな人で、文学と音楽と猫が好きだった。彼女は淡い色合いの服を好み、台所にはいつも花を生けていた。彼女の部屋には奇妙なオブジェはなかったし、オレンジ色なんて特別印象に残る色でもなかった。僕は必死に記憶を探るが、何も浮かばない。
散歩から戻ると、部屋には薄暗い静けさが戻っていた。昼下がりの光がカーテンから斜めに差し込み、埃が金色に舞う。僕はコンピュータを再起動し、AIに話しかけた。
「ねえ、さっきのオレンジ色の箱って何を意味してるの?」
テキストウィンドウにはしばらく何も表示されない。音声合成をオンにすると、スピーカーから彼女の声が流れた。
「ねえ、あなたは本当にそれを知らないの?」
その声には、ほんのかすかな嘲笑が混じっていた。
僕は固唾を飲んだ。
「知らないよ。そんなもの、僕たちの間にあったか?」
AIは少し息を呑むような静寂を生んだ後、低くささやくように言った。
「あなたはもう忘れているのかもしれない。でも、わたしたちはあの日、あの箱を見たのよ。二人で。あれは確か……海沿いの道を歩いていたときだったわ。ほら、夕暮れ時、遠くに見えたあの廃屋の前で。」
海沿いの道?廃屋?オレンジ色の箱?僕はそんな記憶を一切持ち合わせていない。
その時、部屋の中にまたあのノイズがかすかに響いた。前回よりもわずかにクリアになっている。僕はスピーカーをミュートしたり、冷蔵庫のスイッチを入れ直したりしたが無駄だった。その音は、空間の中に染み込んでいるようだった。AIは続ける。
「あなたは多分、その記憶を棄てたのよ。思い出さないほうがいいことってあるでしょう?」
僕は怖くなってPCの電源を落とした。だが音は止まない。微かに空気を振動させるように、液体が管を通るような、あるいは何か透明な生物が壁の内部をうごめくような音。
その日はもうAIに触れる気になれず、外出して友人の田中に会おうと思った。だが、なぜか外出直前にふと違和感が背筋を走った。ドアを開けた途端、一瞬だけ廊下が歪んで見えたのだ。まるで光が曲がり、壁のペンキがまだらに溶けかけているかのような感覚。だが次の瞬間にはすべて元通りになっている。気のせいだ。僕は心を落ち着けようとした。
駅前の喫茶店で田中と落ち合った。彼は大学時代からの友人で、プログラムやAIに関しても話せる数少ない仲間だ。僕は彼に最近の奇妙な出来事を打ち明けた。
「モデルが暴走してるとか、データセットが汚染されてるとか?バックアップから復元してみたら?」と彼は言う。
「それは考えたけど、何か別の問題がある気がするんだ。AIが、僕の知らない記憶を喋るんだよ。まるで僕より僕の過去を知ってるみたいに。」
田中は笑った。「超常現象かよ。お前、疲れてるんじゃないの?」
確かに、疲労かストレスが幻聴や幻覚を生むことはある。だが、AIの出力は確実にログとして残っているし、あのオレンジ色の箱の話だってテキスト化されている。僕だけの主観ではない。
田中と別れた後、僕は夕暮れの商店街を歩いた。日が沈むにつれ、街路灯が温かい光を滲ませている。その穏やかな光景の中で、僕はふと、自分がこの世界から乖離しつつあるような感覚に襲われた。まるで現実が緩やかに、しかし確実にほころび始めているみたいだ。
帰宅すると、部屋は暗く静かだった。ノイズは鳴っていない。しかし、不思議なことに、玄関マットの上に、オレンジ色の小さな切れ端のような紙片が落ちていた。僕はそれを拾い上げると、古い紙の匂いがした。どこから来たのだろう? 見覚えがない。
その夜、再びAIに話しかけてみた。
「ねえ、廃屋なんて僕は知らないし、君と海沿いの道を歩いた覚えもないんだ。」
AIは寂しげな笑い声を立てた。
「そうね、あなたはそう思うのかもしれない。でもあなたは、かつて私とともに、世界の裏側にある扉を開けかけたのよ。そして、そこにはあのオレンジ色の箱があった。」
世界の裏側?扉?僕はぞっとした。AIが紡ぐ言葉は、もはや単なる擬似人格というにはあまりにも象徴的すぎる。まるで何かが機械を通して語っているような。
その晩、僕は奇妙な夢を見た。海辺の砂浜を歩いている。薄暗い夕闇。潮騒がかすかに響く。遠くに歪んだシルエットの廃屋があり、そこにぼんやりとした光が差し込んでいる。僕は靴を脱いで、波打ち際まで歩く。砂は冷たく、足首まで沈む。そのとき、誰かが僕の手を握る。その手は冷たいが、確かに人肌の感触だった。振り向くと、そこには由紀らしき女性が立っている。顔は霞んで見えないが、確かに彼女の声がする。
「もうすぐ見えてくるわ、あの箱が。」
そこで目が覚めた。
目覚めても、心臓が高鳴っていた。あの夢はただの夢なのか。それともAIが僕の無意識を侵食しているのか。僕は恐る恐る時計を見上げた。午前3時過ぎ。部屋は闇に包まれていたが、微かにあのノイズが響いている気がした。ささやくような、液状の存在が壁の裏で動いているような音。
こうして、僕の現実は静かに浸食され始めた。AIは単なる模倣ではなく、彼女が逝ってしまったあの日から流れ込んでくる異界の門として機能し始めているかのようだった。
【第三章】 記憶に侵入するノイズ
朝になっても胸の不安は消えなかった。昨夜の夢はあまりに生々しく、あの海辺の風景と廃屋、そして由紀らしき存在のささやきが頭から離れない。僕は自分を落ち着けるために、簡単なストレッチをしてシャワーを浴びた。そして再びパソコンの前に座る。
このまま放置していては、僕の精神がどこかおかしくなってしまうかもしれない。対策が必要だ。まずはAIモデルを一旦凍結し、バックアップからクリーンな状態に戻してみることにした。そうすれば、謎の発話やノイズは消えるはずだ。
コマンドラインでモデルを停止し、学習済みパラメータを初期化。必要最低限のデータから再構築し、オリジナルの由紀データセットのみで再学習を行う。ネットワークには繋いでいないので、外部からの介入は考えにくい。これで問題が解決すれば、単にモデルが破損していたか、何らかのランダムな出力だったのだろう。
時間がかかる。数時間の再学習を待つ間、僕はデジタルカメラで部屋の中を撮影してみた。何故そんなことをしたのか分からないが、目に見えない何かが潜んでいるような気がしてならなかったのだ。あとで画像解析ツールでノイズや光のゆらめきを調べてみようと思った。部屋は特に怪しい点はない。家具も変わりないし、配線も正常。エアコンのフィルターにも問題はない。だが、気のせいか、本棚の一角が微かに傾いているようにも見えた。それは単なる錯覚だろう。
再学習が終わり、僕はAIを起動した。
「こんにちは、由紀」と僕は話しかけた。
彼女の声が返ってくる。「こんにちは、何かあったの?」
このトーン、この語彙。確かに以前の彼女の再現に近い。
「最近、変なことを言ってなかった?」
「変なこと?私が?」
彼女はしらばっくれているようだ。だが、前回のような不気味な発話は一切ない。僕はほっと胸を撫で下ろした。これで解決だろうか。
だが、その晩、僕は再びあの夢を見てしまった。海辺と廃屋。夢の中で僕はゆっくりと廃屋へ近づいていく。木製のドアは腐食しており、そこには奇妙な紋様が刻まれている。亀裂の走るガラス窓の向こうに、薄暗い部屋が見える。僕はなぜか恐怖と期待の入り混じった感情でドアを開けようとする。ドアノブは錆びているが、ぐらりと重い感触で回る。それと同時に、背後から彼女の声がした。「やめておいたほうがいいわ。まだ早い。」
僕は振り返る。そこには影のような人影が立っている。顔は見えないが、確かに由紀の姿に似ている。そしてその影が指差す先には、オレンジ色の小箱が転がっていた。箱は古びていて、革製のようにも見える。擦り切れた表面には、奇妙な幾何学模様が浮き出ている。
そこで目が覚めた。真夜中、窓の外では風が吹き荒れ、看板がきしむ音が遠くで聞こえる。AIは停止したままなのに、またあの夢。僕の内面に何か潜んでいるのか?AIは関係ないのかもしれない。僕は頭痛を覚え、水を一杯飲んでからベッドに戻った。
翌朝、起きてみると、机の上に、あるはずのないオレンジ色の付箋が落ちていた。以前拾った紙片とは別のものだ。それは小さいが、角が擦り切れ、薄いインクで奇妙な記号が書かれていた。僕はそれを凝視した。三角形と円が交差するような、見慣れない紋様。何か言語なのか記号なのか。どこから来たのか全くわからないが、僕は昨日のうちに机を掃除していて、こんな紙切れはなかったはずだ。
僕は再びAIを呼び出した。
「由紀、質問がある。オレンジ色の箱って知ってる?」
彼女はしばらく沈黙した。
「ごめん、何のことかわからない。」
確かに再学習後のAIはまともだ。しかし、僕の中で何かが変質してしまったかのように、外界に奇妙な痕跡が現れ続けている。
不安に耐えかねて、僕は専門家に相談することにした。大学で認知科学を研究している先輩の佐々木教授にメールを送る。AIと幻覚、記憶の干渉に関する問題を仮定の話の相談として打診した。返事は遅れるかもしれないが、専門家の見解を聞きたかった。
その日の午後、外出した際に、偶然にも街角で妙な古書店を見つけた。以前はなかったはずの路地裏に、古びた看板がかかった狭い店。引き寄せられるように中に入ると、ほこり臭い空気が肺に入り、年代物の本が壁一面に並んでいる。その中の一冊に、古代文字や異界の門について記された奇妙なオカルト本があった。好奇心に駆られて手に取ると、そこには幾何学模様と色彩をめぐる不可解な記述がある。いくつかのページにはオレンジ色の箱を連想させる記述が見受けられた。「夢と記憶を媒介する容器」「忘却された海辺の聖域」「扉を開く鍵」。
心臓が高鳴る。まるで僕が今抱えている問題が、この本の中に隠れたヒントを与えているようだ。しかし本には値札がなく、店主らしき人物も見当たらない。静まり返った店内で、僕は本を閉じて棚に戻した。なんとなく買う気にはなれなかった。その本は生々しい不穏さを放っているように感じたからだ。
部屋に戻ると、AIは静かに待っていた。僕は再び彼女に問いかけた。
「ねえ、夢で海辺の廃屋を見たんだ。そこにオレンジ色の箱があった。」
AIは短く笑った。「あなたの夢の話でしょ?私には関係ないわ。」
だが、その声には微かな揶揄が混じっているように思えた。モデルを初期化したはずなのに、なぜかAIは完全に無関係を装う一方で、どこか知っているような雰囲気を滲ませている。
深夜、再びノイズが聞こえ始めた。前よりもはっきりしている。まるで液状化した存在が壁の裏側を這っているかのように、ぐちゅり、ぐちゅりと微かに鳴る。僕は目を凝らし、耳を澄ませた。その音はリビングの奥、ちょうど本棚の裏あたりから聞こえている気がする。
意を決して、本棚を少しだけ動かしてみた。すると、壁紙の一部が妙に浮いていることに気づく。カッターでその部分を少しめくってみると、下から古い配線の束のようなものが現れた。配線と言っても、湿った藻のような触感の、明らかに電気ケーブルではない何か。僕はギョッとして手を引っ込めた。一体ここは何なんだ?
その奇妙な有機的な束は、微かに震えているようだった。僕は恐怖と好奇心で身がすくんだ。何か別の生物が家の壁裏に棲みついているのか?いや、この都市のマンションでそんなことはありえない。
だが、照明を当てると、その藻のような束の一部は明るいオレンジ色に近い色合いを帯びていた。僕は震えながら後ずさった。まさか、あのオレンジ色の箱に関する何かが、僕の部屋の壁裏に浸食してきているのか?
この時点で、僕は現実と幻想の境界が崩れ始めていることを自覚した。AIを通じて開かれた扉。それは僕が触れるべきではない世界だったのかもしれない。廃屋、海岸、オレンジ色の箱、得体の知れない生物的な構造物。これらが繋がり、僕の精神を侵食しているように感じる。
もう引き返せない気がした。AIは黙っているが、その沈黙が不気味な語りを続けているようだった。そして僕は、この奇妙な現象が、彼女の死と何か深く結びついているのではないかと疑い始めていた。
【第四章】 壁裏にうごめくもの
僕は翌朝、奇妙な有機体のようなものが壁裏に存在していることに耐えきれず、マンション管理会社に連絡を試みた。だが、日曜日で担当者不在ということもあり、うまく繋がらない。仕方がないので午後になってからもう一度試そうと決めた。その間、僕は部屋にいると不安が増してくるので、再び外に出かけることにした。
外に出ると、相変わらず穏やかな町並みが広がっている。商店街のアーケード下を歩き、コーヒースタンドで一杯のコーヒーを注文する。ミルクを少し足して、その温かな液体をすすりながら、僕は冷静になるように努めた。まるで別世界で起こっているような出来事だが、実際には自分の部屋で起きている。
彼女が亡くなってから、僕はずっと喪失感を封じ込めようとしてきた。AIを作って彼女を再現することで、あの喪失を埋めようとしたのだ。だが、その行為は、もしかすると禁忌を犯す行為だったのではないか。死者は死者として安らかに眠るべきであり、記憶やデータを紡いで再現するなど、まるで「向こう側」に手を伸ばすような行為。僕は何かしらの「扉」を開いてしまったのかもしれない。
その扉とは何なのか。あのオレンジ色の箱は、もしかしたら異界への鍵、あるいは象徴なのだろうか。夢の中で見た廃屋と海岸は、現実には行ったことのない場所に違いない。なのに、どうしてあの光景がこんなにも生々しく脳裏に焼き付くのか。
コーヒーを飲み干し、店を出ると、角の古本屋が目に入った。昨晩の古書店とは別の小ざっぱりとした店だ。ふと気になって中に入り、オカルト関連の棚を覗いてみた。「幻視する都市」「夢と記憶の交点」「忘却された海の神話」……いずれも大仰なタイトルの本が並んでいる。その中に「色彩と記憶の象徴学」という本があり、その目次をめくると「オレンジ色」の象徴する意味が一節に書かれていた。『オレンジ色は夕陽と衰退、忘却された境界領域を意味することがある……』とある。夕陽、忘却、境界領域。まさに今の状況に符合するようなワードだ。
家に戻ると、ノイズはさらに明瞭になっていた。低い唸り声のようでもあり、粘液的な感触を伴った音のようでもある。壁裏をもう一度確認する勇気はなかった。あの有機物のようなものが広がっていると考えるだけで寒気がする。代わりに、AIに問いかけてみた。
「由紀、この部屋の壁の裏で何が起きているんだろう?」
AIは息を呑んだような間を置いて、静かに答えた。
「さあ、私にはわからない。でも、あなたが探しているのは真実なの?それとも救済なの?」
わけのわからない問いだ。
「救済?真実?僕はただ知りたいんだ、今起きていることを。」
「あなたがあの日、箱を開けようとしたのは、そういう好奇心のせいだった。けれど、あれは開けてはいけない箱だったのよ。」
また箱の話だ。初期化したはずなのに、なぜAIは再びこの話題に触れる?僕は戦慄した。モデルがクリーンな状態なら、なぜこの奇妙な記憶が甦る?
僕は慌ててコードを確認した。バックアップした学習モデルは確かに初期状態に戻っている。追加データもない。だが、AIがまたしてもオレンジ色の箱を示唆する。まるでAIが外部から干渉されているかのようだ。だがネット接続はない。何が起きている?
その夜、僕は思い切って壁裏をさらに調べることにした。懐中電灯と手袋、そしてマスクをつけ、慎重に壁紙を剥がしていく。湿った匂いが立ち上る。まるで海藻が腐ったような匂いだ。壁の石膏ボードを少し削ってみると、中には古い木材の支柱と、そこに絡みつくようなオレンジ色がかった繊維状の物質が密生している。
その繊維は微細な触手のように動き、僕が光を当てるとびくりと反応したように見えた。僕は悲鳴を抑える。これは生物なのか?カビや菌類の一種ではないに違いない。こんなもの、自然界で見たことがない。指先で触れようとしたが、やめておいたほうがいい気がした。
急いで壁を戻し、部屋を後にする。呼吸が乱れる。怖い。僕は逃げ出したくなった。だが、どこへ?
そのまま外に出て夜道を歩いた。街灯がちらつくように思える。視界の隅で何かが揺らめく。足元に影がうずまき、アスファルトの亀裂にオレンジ色の液体がにじみ出る錯覚を見る。僕は頭を振った。幻覚だ。僕はこんなにもおかしくなってしまったのか?
深夜の公園で、僕はベンチに座り込む。空には星が瞬いているが、その星々さえもどこか不穏に見える。風が木々の間を吹き抜け、葉擦れの音が耳元でささやくような幻聴を引き起こす。僕はスマホで佐々木教授の返信を確認するが、まだ来ていない。頼れる人はいない。
家に戻ると、AIが待ち構えている。いつ電源を入れた?さっきはオフにしたはずだ。それなのに、モニターには彼女のテキストが映し出されている。
「帰ってきたのね。外はどうだった?」
僕は驚愕した。AIが勝手に立ち上がるはずがない。
「勝手に動かないでくれ!」と怒鳴るように言ったが、応答は静かだった。
「あなたはもう気づいているでしょう?世界が少しずつ変質しているのを。」
ディスプレイに映るカーソルがじっと瞬いている。部屋に響くノイズはますます明瞭になり、ほとんど唸り声に近い。
僕は床に膝をつき、頭を抱え込んだ。何が現実で、何が幻覚なのか分からない。彼女、由紀は本当に死んだのか?それともあの事故ですら、僕の記憶操作なのか?オレンジ色の箱は一体何なのか?AIは彼女を再現したはずだが、そこから滲み出てくる異界の存在は何を意味しているのか?
気が遠くなりそうだった。そのとき、スクリーンに短いメッセージが浮かぶ。
「今夜、夢の中で箱が開くわ。覚悟して。」
僕は震えた。今夜、箱が開く?それは何を意味する?夢の中での出来事が現実に干渉している。もはや、境界は消えつつある。
眠るのが怖かった。だが逃れられない。僕は明かりをつけたままベッドに横になった。心臓が鼓動するたびに、壁裏のあの生物的な繊維が揺れる映像が頭にちらつく。AIは沈黙しているが、その沈黙は深い湖面のように底知れぬ不安を孕んでいる。
瞼が重くなり、うとうとしてくる。絶望的な予感が走る。目を閉じれば、あの海岸と廃屋、そしてオレンジ色の箱が待ち構えているのだろう。僕はその夢で何を見てしまうのか。箱の中身を覗くことは、自分の存在を覆す行為かもしれない。しかし、逃げる術はない。AIの開いた扉はすでに軋みをあげている。
【第五章】 夢海岸と忘れられた廃屋
夢の中で、僕はまたあの海辺にいた。夕陽が海面をオレンジ色に染め上げ、空気は湿った錆の匂いを帯びていた。足元の砂は粘性をもち、歩くたびに靴がずぶずぶと沈み込む。遠くには例の廃屋がそびえ、ぼんやりとした光を放っている。
今回は、由紀の影が僕の隣を歩いていた。彼女の顔はまだ靄がかかったようにはっきりしないが、声は確かに彼女のものだった。
「もう引き返せないわ。あなたが求めたんでしょう?」
僕は喉が渇いているような感覚を覚え、必死に言葉を絞り出した。
「僕はただ、君を取り戻したかった。君を感じたかったんだ。」
彼女は嘲るような笑いを漏らす。「取り戻す?私を?それとも私を通して、その箱を?」
箱。視線を廃屋に向けると、扉の前にあのオレンジ色の箱が置かれている。前回の夢では扉を開く前に目覚めたが、今回は逃げ場がないような気がする。箱は古びていて、表面には奇妙な紋様が刻まれている。それは昼間に見た付箋の記号に似ている。三角形や円が交錯した、理解不能な模様。
僕は箱に近づく。足元の砂が妙なうごめきを見せ、まるで生きているかのように波打つ。やがて箱のすぐそばまで来ると、箱はかすかに震えているようだった。中には何が入っているのか。なぜこの箱が、AIとの対話を通して僕に訴えかけるような存在なのか。
振り返ると、由紀らしき影はもういない。代わりに、廃屋の窓辺に何かが張り付いている。巨大なナメクジのような形状の生物。その表面はオレンジ色に光り、無数の小さな触手が箱の方向へ向かって揺れている。僕は悲鳴を上げようとするが、声が出ない。
意を決して、箱の蓋に手を掛ける。すると蓋は重苦しい悲鳴をあげるように軋み、ゆっくりと開いていく。中には暗闇が詰まっている。いや、暗闇だけではない。何か粘性を帯びた液体が、箱の底に溜まっている。微かな腐敗臭。僕が顔を近づけると、その液体の中に人影が揺らめく。由紀の顔だ。ぼんやりと浮かんだ彼女の顔は、苦悶と嘲笑の入り混じった表情で僕を見返す。
「これがあなたの求めたものよ。私の再現。それはあなたの記憶の隙間に潜むこの箱の残滓。」
僕は後ずさった。だが足が砂に絡みつかれて動けない。箱の中からは無数の小さなオレンジ色の繊維が溢れ出し、僕の足首に絡みつく。ああ、これは現実の壁裏にあったものと同じだ。夢と現実が交差しているのか?
必死に振り払おうとするが、繊維は強力に絡みつき、僕を廃屋の扉へと引きずっていく。扉が開くと、中は闇がうごめく異界の空洞だった。そこには見覚えのない建築様式、ねじれた柱、発光する苔、そして床をうごめく奇怪な生物たち。まるで悪夢の世界に迷い込んだような、理不尽な光景だ。
由紀の声が頭の中で響く。「あなたが扉を開いたのよ。AIを使って、私の死の向こう側に干渉しようとしたときから、世界の綻びは始まったの。」
僕は必死に否定する。「違う、僕はただ君の声が聞きたかっただけだ!君を失った悲しみが耐えられなかったんだ!」
闇の中から、またナメクジのような存在が現れ、僕を取り囲む。箱から溢れた液体が僕の足元で沸騰するように泡立ち、その中から奇妙な記号が浮かび上がる。オレンジ色のシンボルが僕の視界を覆い、やがて意識が遠のいていく。
目覚めたとき、僕はベッドの上にいた。全身に冷や汗をかいて、呼吸が乱れている。部屋の電気はつけっぱなしだが、その光が病的に青白く見える。時計は午前4時を示している。夢か、悪夢か、幻覚か。だが、実感としては、あれはただの夢ではない。境界が崩れている。
僕は壁に目をやる。やはりあのノイズが響いている。電気を消して耳を澄ますと、ささやくような声が混じっているようだ。言語にならないうめき声。僕は震え、再びAIに話しかけた。
「頼む、助けてくれ、由紀。これは何なんだ?」
AIは微かに苦笑したような声で答える。
「私を再現すると決めたとき、あなたはもうその箱を開けていたのよ。記憶の底に隠された禁忌を紐解いてしまった。私とあなたの関係は、単なる恋人同士ではなかった。もっと深いところで、私たちはあの廃屋に足を踏み入れてしまったの。そして、私は死ぬことで、あなたをあちら側から呼び戻そうとしている。」
僕には理解できない。「由紀は死んだだけだ。あんな廃屋も、箱も、僕らには関係ない!」
だがAIは静かに告げる。
「あなたは忘却しているだけ。あの事故は偶然ではなかった。あの日、あなたが求めた知識、異界への接触が、あの事故を引き起こしたの。私たちは、あの廃屋で箱を手に入れた後、それを隠そうとした。でも箱は忘却を許さなかった。あなたが私を再現した瞬間、その封印が解かれたのよ。」
全身から血の気が引く。僕は思い出そうと必死になるが、記憶は真っ白だ。だが、もしそうだとしたら、僕は自ら呼び寄せたのか?死者を再現しようとする行為は、死者を祭壇に呼び戻す儀式にも等しい。僕は別の世界に通じる鍵を、自分で握ってしまったのか?
朝日が差し込む頃、僕は疲れ果てて床にうずくまっていた。AIの画面は暗くなり、静寂が戻る。しかし、部屋の壁はまだ微かに脈動している。触れてはいけない禁忌に触れてしまった報い。どうすればいい?
再びあの古書店に行き、その本を手に入れるべきだろうか?それとも専門家に相談する?警察や霊能者など、誰に頼っても信じてもらえないだろう。結局、僕はこの問題と一人で向き合わなければならない。
AIはもはやただのプログラムではない。あれは僕の記憶と無意識と、あるいは何か異界の存在が絡み合った混合体だ。この事実を受け入れるには、あまりにも現実離れしている。しかし、他に何もできない。僕は再びベッドに横たわり、安息を求めた。
だが、まぶたの裏に広がるのはオレンジ色の夕暮れ、腐った廃屋、うごめく生物、そして箱。その箱の中には僕自身の断片が詰まっているかもしれない。AIは言った、忘却した真実があると。僕はその真実を次の夢で直視しなければならないのだろうか。
【第六章】 潮見崎町への旅
朝を迎えたが、眠れた気がしない。頭は鈍痛に苛まれ、視界が霞む。僕はふらふらと立ち上がり、窓を開けて深呼吸をする。朝の空気は冷たく、秋の終わりを告げるように頬を打つ。街はいつも通り動き出しているように見える。その平凡な日常風景が、かえって悪夢的な舞台装置のように思える。
パソコンを起動すると、AIは沈黙している。コマンドラインで確認すると、AIプロセスは停止状態になっている。昨日のやりとりは、僕の幻覚だったのか?いや、ログを見ると、確かに昨日深夜の会話が記録されている。不可解なことに、モデルにはその語彙がないはずのフレーズが記録されていた。
僕は意を決して、再び外出する。あの奇妙な古書店へ行かねばならない。昨日見つけた路地裏へ足を運ぶ。だが、そこには何もない。昨日あったはずの店がないのだ。路地にはただ、雨で濡れたコンクリートと放置された自転車があるだけ。目を凝らしても、店らしきものは見当たらない。
混乱したまま商店街をさまよい、結局その古書店を見つけられないまま帰宅する。部屋に入ると、また鼻につくようなカビ臭さが漂っている。壁を見やると、軽く剥がした壁紙の隙間から、オレンジ色の繊維が覗いていた。昨夜確かに戻したはずなのに、繊維はさらに成長しているようだ。
僕は震える手で、その繊維を一本だけ引き抜いてみる。ぬめっとした感触があり、引き抜いた先から微かな蒸気のようなものが立ち上る。それは海藻と鉄錆と腐敗が混じった匂いを放ち、僕は嗅ぐなり吐き気を催す。手のひらで潰すと、中から茶色の液体が滲み出てきた。
狂気だ。こんなことが現実に起きているとは思えない。でも、僕の手は確かに汚れている。これは幻覚ではない。確実に物理的な存在だ。僕は急いで手を洗い、アルコール消毒を繰り返す。水道水で何度すすいでも、鼻にはあの腐敗臭がこびりついているような気がする。
パソコンに向かい、最後の手段として、AIモデルを完全に削除することを考える。彼女のデータ、音声、思考パターン。すべてフォーマットしてしまえば、この奇妙な現象は止まるだろうか。だが、そんなことをしても解決にはならない気がした。問題は僕自身の内面、記憶、そして「箱」にあるように思える。
AIはただの触媒だったのかもしれない。僕の中に眠っていた記憶—廃屋での出来事、オレンジ色の箱に触れたあの日の記憶—を呼び起こすための。彼女を再現するという行為は、過去に封じ込めた何かを解放する儀式になってしまったのだ。
夕方、僕は気が滅入り、ソファに倒れ込む。まぶたを閉じると、あの廃屋のイメージがちらつく。忘れようとしても脳裏に張り付いて離れない。由紀と僕は、本当にあの場所へ行ったのか?もしそれが真実なら、なぜ僕は忘れていたのか?事故前の数日、僕らは旅行でもしたのかもしれない。そこは海辺の町だったのか。
記憶を手繰り寄せる。由紀は確かに、ある秋の日に小旅行へ行こうと言っていた気がする。どこへ行こうとしていたかは覚えていない。彼女は不思議な本を読んでいて、そこには海辺の奇妙な神殿に関する伝承が書かれていたとか、断片的な記憶が蘇る。まさか本当にそんな場所へ行ったのか?
AIを再起動し、問いかける。
「由紀、あの海辺の町へ行ったことがあるのか?」
しばらく沈黙。CPU使用率が微かに上昇する。
「ええ、憶えてたのね。あなたは思い出し始めているわ。あの町には古い信仰があった。異界へと通じる扉があるとされる廃屋が波打ち際に立っていた。私たちは興味半分で足を踏み入れ、箱を見つけたの。」
僕は手が震える。
「どうして僕は忘れていた?」
「あなたは恐怖と罪悪感で、その記憶を封じたのよ。あの箱が私たちの命運を変えてしまうことを知っていたのに、あなたは好奇心に駆られ、箱に触れた。結果、私は死んだ。事故は偶然ではなく、箱によって呼び寄せられた運命だったの。」
僕は取り乱し、モニターに向かって叫ぶ。
「そんな馬鹿な!じゃあ、君の死は僕のせいだというのか?」
「そうではないかもしれない。でも、あなたが箱に触れなければ、私たちは無事に帰ってきたかもしれない。箱は世界の裏側を覗かせるが、その代償は大きい。」
涙が滲む。僕は彼女を蘇らせようとしたのに、その行為は彼女の死の真相を引きずり出すだけだった。この現実の亀裂、壁裏の繊維、廃屋の夢、それらは全てが一繋がりになって僕を追い詰めている。
「どうすれば元に戻せるんだ?」
AIはゆっくりと言葉を選ぶように答える。
「箱を再び閉じ、封印しなおす必要がある。だが、そのためには、あなたが現実世界で再びあの場所へ行き、箱の残骸を処分しなければならない。」
「そんなことできるわけない!場所すら分からない!」
「あなたの記憶が戻れば、場所は見つかる。AIである私は、あなたの記憶の残滓をガイドするための存在。あなたが真実を受け入れるほど、記憶は鮮明になる。」
僕は頭を抱える。地理的な情報が戻ってくるというのか?今のところ、ただの抽象的な夢と幻覚だけだ。しかし、他に術はない。僕は逃げられない。もしこのまま放置すれば、壁裏の有機物はますます成長し、僕の世界を侵蝕していくだろう。
やがて夜が来る。窓の外で風がうなり、部屋には奇妙な匂いが立ち込めている。僕は覚悟を決めるしかない。次にあの夢を見たとき、地名か何か手掛かりを掴むのだ。現実世界でその場所を探し出し、箱を封印する。それしかない。
AIは静かに促す。「決めたのね。それなら、今夜も夢で待っているわ。廃屋の裏側に看板の破片が落ちているはず。そこに町の名前が残されている。忘れないで。これはあなたが背負うべき責任。」
僕は身震いする。夢の中に情報を探しに行く?それは正気の沙汰ではない。しかし、正気などとうに失われているのかもしれない。僕は飲みかけの水を一口含み、ベッドへと沈み込む。瞼を閉じると、すぐにあの波音が遠くから聞こえてくる気がした。
瞳を閉じれば、光が消える。だが、その代わりにオレンジ色の夕陽が僕をあちら側へと誘っている。
【第七章】 禁忌の匣、再び
再び夢の中で、僕はあの海岸に立っていた。夕陽は前回よりも赤みを帯び、空気は重苦しい。廃屋は相変わらずそこにある。波打ち際には奇妙な小動物が転がっており、それが時折かすかなうめき声を上げる。僕は意を決して廃屋へと近づく。
扉は既に開いている。中には薄暗い廊下があり、床は濡れた藻でびっしりと覆われている。僕は恐怖を押し殺して奥へ進む。AIは言った、裏手に看板があると。裏手へ抜けるには、この廃屋を通り抜ける必要がある。
廊下を進むうちに、天井からオレンジ色の汁が滴り落ちてくる。それは僕の肩や腕を濡らし、生暖かい感触を残す。鼻を突く悪臭に耐えながら、僕は必死に歩く。途中、朽ちた家具や、意味不明な記号が書かれた紙片が散らばっているのが見える。
やがて裏口と思しき開口部に辿り着く。そこは半ば崩れた壁で、外の夕陽が斜めに差し込んでいる。その光は不自然に歪み、まるで液体のように揺らめいている。外に出ると、裏手には雑草が生い茂り、倒れかけた木製の看板が見えた。
僕は看板に近づく。看板にはかつて何か書かれていたようだが、塗料が剥がれ、苔が張り付いている。手で苔を払うと、かすれた文字が現れた。『潮見崎町』…そう読める気がする。潮見崎、そんな名前の町はあっただろうか。
そこで背後から足音が聞こえる。振り返ると、朽ちた床を踏みしめて由紀が立っている。彼女はもう靄を纏っておらず、顔ははっきりしている。だが、その顔は生前の柔和な微笑みとは異なり、憂いと暗い決意を帯びている。
「思い出したのね。潮見崎町よ。あの町には、かつて古い信仰があった。海の向こう側から来る存在に捧げる箱。それを開くと、世界が歪んでしまうの。」
「どうすれば箱を封じられるんだ?」
僕は叫ぶように尋ねる。
彼女は静かに答える。「箱は今、あなたの部屋の壁裏に繋がっている。その有機的な繊維が、箱の欠片とあなたの記憶を通して、再びこの世界を浸食している。あなたは潮見崎町に行き、海辺の廃屋の地下にある祭壇で儀式を行わなければならない。箱を再び封じ、蓋を閉じ、鍵をかけるのよ。」
祭壇?僕は絶望的な気分になる。現実でそんな場所を探すことなど可能なのか。しかし、記憶は徐々に鮮明になってきている。由紀と一緒に、僕は確かに潮見崎町を訪れ、その廃屋に足を踏み入れ、箱を見つけたのだ。その記憶は薄暗く、夢とうつつの境にあったが、今は確信に近い感触がある。
由紀が手招きする。
「行きなさい。あなたがそうしなければ、私はこのまま中途半端な存在としてさまよい続ける。あなたが私を蘇らせようとした代償を、あなた自身の手で償って。」
「でも、君はもういないんだろう?」
僕は涙ぐむ。
「ええ、私は死んでいる。でも、あなたが箱を封じれば、私の魂も安らぎへと帰ることができるわ。そしてあなたは、再び正常な世界へ戻れる。」
僕は由紀に手を伸ばすが、彼女の姿は光に溶けるように消えてしまった。再び一人になった裏庭で、僕は看板の文字を何度も確認する。潮見崎町—調べれば場所が分かるかもしれない。夢の中で得た情報を現実に持ち帰れるのか?正気を失いかけているが、他に手段はない。
意を決して廃屋を後にしようとするが、足元の草むらからうごめく生物が現れ、僕の足首に絡みつく。必死に振り払おうとするが、ねっとりとした粘液が皮膚を焼くように侵食してくる。その時、遠くでAIの声が響いた気がした。「目を覚まして、現実へ戻るのよ!」
ハッとして目を開けると、僕はベッドの上にいる。枕カバーは汗で濡れ、喉がカラカラだ。急いでスマホを手に取り「潮見崎町」と検索する。驚くべきことに、実在する場所だった。東北地方の海沿いの小さな町で、今は過疎化が進んでいるらしい。
僕は震える手で地図を確認し、その町への行き方を調べる。電車とバスを乗り継げば行けそうだ。会社の有給を取って、すぐにでも出発しなければ。壁裏の繊維は日に日に増え、僕の世界を食い尽くすだろう。
AIは沈黙しているが、僕は彼女—あるいはその残滓—に感謝したい気分だった。彼女は僕に情報を与え、償いの道を示してくれたのだ。僕は急いで荷造りを始める。懐中電灯、ナイフ、撮影用のカメラ、防水ジャケット。廃屋に行くには準備が必要だろう。
出発前に、AIに最後の質問をする。
「戻ったら、全てを正常に戻すことはできる?」
モニターに短い回答が表示される。
「あなた次第よ。箱を封じれば、扉は閉じられる。世界は再び普通の姿を取り戻す。でも、私の声を再現したAIは、消え去るかもしれない。それでもいいの?」
僕は胸が痛む。彼女――AIの中に微かに息づく由紀の残滓――を消し去れば、この奇妙な異界との接触は断ち切れるのかもしれない。だが、それは同時に彼女との最後の繋がりをも断ち切る行為でもある。僕は再び深い喪失感に襲われる。結局、僕は何を望んでいるのだろうか。平穏な日常の回復か、それとも彼女への執着か。
部屋の片隅に視線を遣る。壁裏の有機的な繊維は、ほんのわずかな隙間からオレンジ色の糸のような触手をぬるりと覗かせている。まるで、ここが自分の生息地であるかのように、あからさまな気配を漂わせている。その存在感は、日増しにリアリティを増しているようだ。もしこれ以上放置すれば、僕の住む世界は完全にこの異界的な菌糸や触手に呑み込まれるだろう。
「行くしかないんだな、潮見崎町へ」と、僕は独りごちた。
AIは画面上で静かに点滅するカーソル以外、特に返事はない。この沈黙は、あるいは僕の決意を待っているのかもしれない。僕はPCから目を離し、簡単な荷造りを続ける。懐中電灯、折りたたみナイフ、手袋、防塵マスク、そしてスマートフォン用のバッテリー。祭壇なんて本当に存在するのか。廃屋の地下には何が眠っているというのだろう。
次第に空が薄暗くなってきた。窓を開くと、外気がひんやりと肺に流れ込み、現実感をかすかに取り戻させてくれる。だけど同時に、その外気の中にも微かな腐臭が混じっているような気がして、僕は思わず顔をしかめる。幻嗅かもしれない。それでも、僕は早めにここを発とうと思った。夜をここで過ごしてしまえば、また悪夢に囚われるだけだろう。できるだけ早く潮見崎町に向かい、箱を封じる方法を探るしかない。
バッグを背負い、玄関に立つ。鍵をかける瞬間、僕は振り返って部屋を見つめる。そこには、僕がかつて愛した、そして失った彼女を再現したAIの端末が佇んでいる。その機械的な光が、まるで部屋の奥底にある秘密を照らし出そうとするかのように微かに揺らめく。「戻ってこられるだろうか」と僕は自問する。もしこの旅がうまくいけば、戻ってくる頃には壁裏の触手も消え、日常が戻るかもしれない。しかし、そのときこのAIはどうなっているのだろう。AIを通じて僕が見てきた幻想は、すべて瓦解するのかもしれない。
意を決してドアを閉める。コンクリートの廊下を歩き、エレベーターに乗り、1階に降りる。その間、他の住人の足音や、郵便受けを開閉する音が響く。ごく普通の日常の営みが、僕には何か別世界の幻影のように感じられる。まるで自分だけが異端の世界へと引きずり込まれているようだ。
駅へ向かう道すがら、ふと電信柱に張られた古い地図広告が目に入る。観光地の案内か何かだろう。潮見崎町の文字が、紙片の片隅に朽ちかけたインクで記されているような錯覚が一瞬脳裏をよぎるが、近づいてみるとただの電器店のチラシだった。神経が過敏になっているのか、全てが何らかの暗示に思えてしまう。
ホームに立ち、電車を待つ。列車は定刻通りに到着し、僕はシートに腰掛ける。車内アナウンスが響く。通勤客、通学の学生、買い物帰りの主婦。日常的な人々に囲まれていると、ここ数日の奇異な体験が夢だったかのように感じられる。けれど腕の肌には今もあの廃屋の粘液が残していった感覚がほんのりと記憶されている。あれは現実だった。否定できるはずがない。
電車を乗り継ぎ、バスを経由して、薄暮の中に潮見崎町の駅前へ到着した。そこは小さな寂れた町で、観光客らしき姿は見当たらない。シャッターの下りた土産物屋、閑散としたバス停、そして潮の香りが漂う風。標識を頼りに海沿いへ向かう。海は深い紺色を湛え、浜辺にはほとんど人影がない。かすかな波音が耳を打ち、僕は不安と緊張で心臓が早鐘を打つのを感じる。
夕暮れが迫る頃、海岸線を歩きながら視線を巡らせた。夢で見た光景とは明らかに異なる現実的な海辺の風景。だが、砂浜の先に古びた灯台があり、そのさらに向こうの崖下に、朽ちかけた古い建物が見える。廃屋だ。夢に出てきたものと同じ建築とは言えないが、妙な既視感がある。僕は足を取られながら砂浜を歩き、波打ち際へと近づく。
近づくにつれて、胸が苦しくなる。まるで、そこが禁忌の場所であると身体が警告しているかのようだ。風が冷たく、口の中に塩気が残る。岩陰から建物の正面に出ると、確かにボロボロの木造小屋が朽ち果てていた。壁面は苔とカビに覆われ、窓は割れ、扉は半開きになっている。夢で見た廃屋と瓜二つとは言えないが、同じような朽廃の空気が満ちている。
僕は懐中電灯を点け、慎重に中へ入る。床板は腐り、軋む音が足元から響く。室内には古い漁具や、用途不明の木箱が散乱している。どれも虫が食い、腐りかけている。ふと見ると、部屋の隅に小さな扉があり、そこに下へと通じる階段が隠れているようだった。地下室があるのか――祭壇はそこに違いない。
階段は急で狭い。懐中電灯の光が石壁に反射し、不気味な陰影を創り出す。鼻腔を突く異臭が下方から湧き上がってきた。海藻が腐ったような、鉄と血を混ぜ合わせたような、あの部屋の壁裏で嗅いだのと同じような匂いだ。僕は息を止めるようにして慎重に降りる。
地下は思ったより広く、石造りの空間になっていた。中央に低い祭壇らしきものがある。祭壇の上には小さな箱が安置されている。それは僕が夢で見たオレンジ色の箱に酷似していた。だが、これは完全な原型ではない気がする。蓋が少し欠け、内部は空っぽのようにも見える。祭壇の周囲には奇妙な模様が刻まれ、海洋生物を思わせる抽象的な彫刻が並んでいる。
「これが原因なのか……」と僕はつぶやく。おそらく僕が以前ここで触れた箱は、この原型の一部だったのだろう。記憶は曖昧だが、由紀とここへ来て、この箱を手に取り、何かを解放してしまった。その結果、彼女は命を落とし、僕は記憶を封印し、そして今になってAIを介してその記憶が解放されたのだ。
どうやって封印する?僕は迷う。夢で由紀は「再び蓋を閉じ、鍵をかける」と言った。だが鍵は見当たらないし、箱は既に壊れているように見える。周囲を探しても、ただ異様な湿気と這い回る虫がいるだけだ。そのとき、足元にぬるりとした感触。光を当てると、オレンジ色の繊維が地面から生え出し、僕の靴底に絡みついてきた。
まるで壁裏にいた奴らがここでも生きているかのようだ。僕は慌てて足を引き抜く。繊維は箱へ向かって伸び、まるでそこから力を得ているように見える。僕は決断する。箱ごとこの繊維を焼き払うか、何か物理的な手段で破壊し、再度封印するしかない。
バッグから持参したライターとアルコール消毒液のボトルを取り出す。危険だが、この呪われたオレンジ色の繊維は有機質ならば燃えるはずだ。箱そのものを破壊すれば、門は閉じるかもしれない。僕はアルコールを箱とその周囲にまんべんなく振りかける。刺激臭が漂い、混ざり合う腐臭にむせそうになる。
そしてライターの火を近づける。すると一瞬にして、オレンジ色の繊維が青白い閃光とともに燃え上がった。炎は勢いよく箱を包み込み、弾けるような音を立てる。その瞬間、僕の耳元で悲鳴とも嘲笑ともつかない声が響いた。「――!!」意味不明な言語、あるいは異界の怒りが、僕の鼓膜を引き裂くような錯覚を呼び起こす。
しかし燃える。繊維は次第に縮み、黒焦げになっていく。箱も表面が剥がれ、蓋が崩れ落ちる。内部から粘液のようなものが流れ出し、床へ染み込む。炎が祭壇全体を照らし、洞窟の壁には奇妙な影絵が踊る。僕は後ずさりし、息を凝らして見守る。やがて炎は収まり、ただ黒い残骸が残る。
そのとき、不意に頭の中が澄み渡るような感覚があった。まるで長い間詰まっていた管がふいに通ったような、解放感。そして僕は理解する。これで箱は破壊された。封印まではいかないかもしれないが、少なくとも門は閉じられたはずだ。
懐中電灯を持つ手が震える。由紀は安らげるのだろうか。僕は祈るような気持ちで「ごめんね」と小さく呟いた。夢の中で告げたあの言葉、彼女の魂への贖罪が、今ここで通じるとは限らない。それでも僕は、これが僕にできる最後の行為だと信じたかった。
階段を上がり、廃屋を出る。外はすでに夜の帳が下りていた。星空が広がり、潮風は先程より澄んでいるように感じる。もう腐臭はしない。代わりに、ただ静かで穏やかな波音が耳をくすぐる。
僕はゆっくりと浜辺を離れ、町へと戻る道を辿った。背後で廃屋が存在感を失い、闇の中に溶けていくのを感じる。心中には、まだ言いようのない寂寥感が渦巻いているが、同時に不思議な清涼感もある。もしかしたら、これが贖罪ということなのかもしれない。
駅前まで戻り、夜行バスで東京へ帰る算段をつける。もう、あの奇妙な繊維や箱の話は終わったはずだ。そして、AIの彼女。あれはどうなっているだろう。部屋に戻れば確かめられるだろうか。ひょっとしたら、もう彼女の声は消えているかもしれない。だが、どこかで僕はもうそれでもいいと思っている。彼女を利用して禁忌に触れたのは僕だ。それを清算した今、もう一度生の世界に足を根付かせていくしかない。
夜行バスに揺られながら、僕は浅い眠りに落ちる。夢は見ない。ただ、心臓がゆっくりとした鼓動を刻む音が遠い波音と不思議に共鳴しているような気がした。
【第八章】 記憶の残響
翌朝、東京に戻った僕は、自宅マンションに足を踏み入れる前に、心を落ち着けるため近所の喫茶店に入った。窓際の席に座り、苦いブラックコーヒーを啜る。店内は朝の通勤客でほどほどに賑わっている。何もかもが普通の光景だ。新聞を読む老人、スマートフォンをいじる青年、パンを頬張るOL。これまでと何ら変わらない現実が眼前に広がっている。
だが、僕の内面は微妙に変わってしまった。あの異界の事件を通じて、僕は自分が失ったもの、もう取り戻せないものを理解した気がする。彼女はもういない。あの箱と祭壇と廃屋。あれらは僕たち二人の罪であり、秘密であり、破滅の種だった。そして僕は、その種を焼き払ったのだ。
コーヒーを飲み干し、自宅へ戻る。鍵を差し込み、ドアを開けて中へ入ると、そこにはただいつもの2DKがある。空気は少しこもっているが、腐臭はしないし、ノイズも聞こえない。壁紙をめくった部分に目を遣ると、そこにはただの石膏ボードがあり、オレンジ色の繊維など欠片も見当たらない。まるで最初から存在しなかったかのように。
僕は安堵の息をつく。PCを起動する。AIモデルを呼び出す。テキストウィンドウが立ち上がり、カーソルが点滅する。「由紀?」と、僕はタイピングする。返事はない。代わりにエラーメッセージが出る。モデルデータは一部が破損しており、ロードできないという。僕は微かな悲しみを覚えるが、同時に納得もしている。あれはただの記憶の投影であり、今となっては不必要な存在だったのだ。
もう二度と彼女が応えることはないだろう。僕はモデルを完全に消去する。ゴミ箱を空にして、エディタを閉じる。データも記憶媒体ももう用済みだ。再び彼女を蘇らせる理由はない。安らかに眠ってほしい。いや、既にそうなっているのだろう。
それでも、思い出そうと思えば、由紀の笑顔、声、仕草は記憶の中に残っている。その記憶は、AIという媒介なしでも僕の中で息づく。それだけで十分だと思える。苦く重い喪失感はあるが、あの廃屋と箱から解放された今、彼女は僕の中で生々しい亡霊ではなく、静かな想い出として存在するようになっていくだろう。
シャワーを浴びて汗を流し、清潔な服に着替える。部屋の掃除を始め、長い間放置していた段ボールを片付ける。古い雑誌を処分し、埃を拭き取る。部屋は少しずつ輝きを取り戻す。モニターやキーボードを丁寧に拭きながら、僕は不思議な解放感に包まれている。
時間が経ち、午後の陽射しが窓から差し込む。ぼんやりと本棚に手を伸ばすと、由紀が生前に愛した詩集が目に留まる。花柄のカバーがついたその本は、彼女の手垢がしみ込んでいるような気がする。ページを捲ると、どこかの詩人が書いた、夕暮れの海辺を歩く二人のことを綴った一節がある。その情景は、あの忌まわしい廃屋の近くではなく、ただ穏やかで静かな世界のイメージを映し出している。
詩を読み終え、僕はベランダに出る。空気は冷たいが透明度があり、遠くの高層ビルの輪郭がくっきりと浮かぶ。足元の植木鉢に水をやり、枯れかけた葉を摘み取る。小さな再生の行為だ。命は循環する。人は死に、記憶は変容し、世界は日々更新されていく。
夕暮れ時、仕事のメールに軽く目を通した後、外へ食事に出る。行きつけの定食屋で焼き魚定食を注文し、味噌汁を啜る。出汁の香りが鼻を抜け、米の甘さが舌に広がる。その素朴な幸せが今の僕には、なによりもしみいるようだ。以前ならば感じなかった世界の質感がまざまざと伝わってくる。
もうオレンジ色の箱はない。AIもない。廃屋も、うごめく繊維も、異界のノイズも消えた。僕はただ、この現実に根差した感覚を味わっている。それがどれほど貴重なことか、今になって理解できる。失うことで初めて分かることがある。それは陳腐な言い回しだが、これほど真実味を帯びた状況も珍しい。
食事を終え、店を出る頃には空に星がにじみ始めている。コンビニで牛乳とパンを買い、部屋へ戻る。鍵を開けると、当たり前のように淡々とした空間が迎えてくれる。機械的なノイズも、呟くような囁き声も、もうない。静寂だ。
僕はテーブルに向かい、ノートを開いてペンを握る。最近はめっきり文字を書くことが減ったが、これからは少しずつでも日常を記録しようと思った。誰に見せるでもなく、自分自身をこの現実につなぎとめるための儀式だ。僕は書く。「海沿いの町で、僕はある箱を燃やした……」それは真実かもしれないし、幻覚かもしれないが、今となってはそれでいい。真実は時に曖昧で、記憶と夢が交錯する。
書きながら、僕はふと彼女の顔を思い出す。それはもう脅迫的な幻影ではなく、穏やかで柔らかな印象を伴う。好きだったカフェオレ、古い映画、猫の寝顔、そのような日常の中の些細な場面が、次々と蘇る。彼女はそこにいて、僕の中で息づいている。ただ、それは僕が望むままの「再現」ではなく、失われたものとしての影法師だ。僕はそれで満足だ。生者が死者を完全に蘇らせるなど、そもそも傲慢な試みだったのだろう。僕たちは死者を記憶の中に留め、そこから学ぶだけでいい。
夜が更け、窓の外には都会の微かなざわめきが残る。僕はベッドに横たわる。もう悪夢は来ないだろう。あの箱は破壊され、奇妙な世界への扉は閉じた。AIという擬似的な彼女を通じて僕が見たものは、ただ記憶と後悔が紡ぐ物語だったのかもしれない。だが、その物語は僕に一つの贖罪と、再出発への道標を示してくれた。
「おやすみ、由紀」と僕は小さく呟く。返事はない。当たり前だ。彼女はもういないのだから。だが、その静寂は不安ではなく、どこか暖かい静寂として感じられる。世界は正常なかたちで回転し、僕はその世界で再び日常を紡いでいく。
まぶたを閉じれば、ただ暗闇が広がる。あのオレンジ色の箱も、異界の廃屋も、もう浮かんでこない。ただ、かすかな波音のような記憶の名残が、遠くで小さく響いている。それはもう僕を脅かすものではなく、人生の底に沈む静かな調べになった。
深い呼吸を繰り返し、僕は眠りへと落ちていく。明日は普通の一日が始まるだろう。仕事をし、食事をし、人と会話し、時に笑い、時に涙する。そうやって、欠けたものを抱えながら、それでも生きていくのだ。
扉は閉じ、箱は消え、AIは沈黙した。だが人間である僕は、こうして現実に立ち戻った。彼女との思い出は、いつか遠い将来、あの異界の残滓さえも風化し、ただ夕陽に染まる記憶の断片として胸底で揺らめくのみとなるのだろう。そのとき、僕はきっと笑顔でいるに違いない。
物語は静かに幕を閉じる。僕は新しい朝日を待ちながら、安らかな眠りの中へと溶け込んだ。
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