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「悪夢の街カトルラース」(SFホラー小説)

この小説は、ChatGPTのo1モデルを使用して作成しました。


【第一章:崩れ落ちる天蓋】

世界が腐臭を放ち始めたのは、誰もが甘い嘘を嘗め回し、暗闇を啜るようになった頃だった。巨大都市「カトルラース」はかつて絢爛たる光で満ちていたが、今や灰色の空気に包まれ、無数のチューブが高層ビル群と血肉工場を繋ぎ、人々の思念をろ過しながら、不条理な「活性液」を都市全体に循環させていた。都市は息づいているのか、それとも朽ちかけているのか、誰にも判断できぬ奇怪な生命体のようになっていた。

この都市では「膿夢(うむ)」と呼ばれる奇妙な幻想が人々の脳裏を蝕む。「膿夢」は生々しい悪夢を人の精神に巣食わせ、やがて宿主の思考を溶かし、人格を崩壊させる。崩壊した者は「蛆喰い(うじくい)」と呼ばれ、瞳孔は針先ほどに縮み、口元から濁った膿液を垂らしながら他者の肉を貪る生ける腐臭兵器と化す。

都市当局「統轄府」は膿夢を制御しようと、血肉から搾り出した薬液を注入した軍属を放った。彼らは膿夢への耐性を持つ特別な階層の人間であり、黒い防護服で全身を覆い、長大なメス型の武器や奇怪な火器で蛆喰いを駆除する。だが、この対策は根本的解決には遠く、都市の内部では絶えず新たな蛆喰いが生まれていた。

エシュはこの都市の片隅で生きる片眼の青年だった。彼は左目が生まれつき瞼で塞がれた奇形として生まれ、幼少期より周囲から「半人(はんじん)」と蔑まれてきた。だが、エシュの内面には奇妙な純粋さが残されていた。彼は血まみれの路地を歩きながら、酷く不自然な美しさを感じていた。ビルの谷間を縫う黒ずんだ霞の中、朽ちたネオンが微かに点滅し、焼け焦げたポスターが剥がれ落ちて舞う。その無秩序なコラージュが、彼には狂気じみた天使の囁きのように聞こえた。

ある夜、エシュは廃棄された肉市場の裏手で一人の少女と出会う。名はリセ。彼女は両腕に奇怪な紋様を焼き付けている。紋様はさながら生きているかのように脈打ち、時折淡い光を放った。リセは血に塗れたナイフを握りしめ、抜け落ちた歯を拾い集めるような仕草で笑う。その笑みは不気味でありながら、何か人間性の残滓のようなものが滲んでいた。

「膿夢を狩るの?」
エシュが尋ねると、リセは嘲るように首を振った。「膿夢は狩られるものじゃない。私たちは膿夢に孕まれるのよ。この都市全体が、巨大な子宮。膿んで、腐って、胎内で蠢く蛆が人肉を求めているんだわ」

その言葉は意味不明ながら、エシュの背筋を凍らせた。蛆喰いによる惨劇は日常茶飯事であり、誰しもがそれを避けるため高価な抗夢薬を打ち込むか、廃墟化したビルの奥深くに隠れる。だがリセは恐れていない。むしろこの混沌を愉しんでいるようにすら見える。

そのとき、遠くの路地から異様な悲鳴が響いた。見れば、六本腕の蛆喰いが壁面を這い回り、逆さに吊られた男を削り取っている。その黒ずんだ血がコンクリートを滲ませ、その男の口からは意味不明な断片的言葉が吐き出されていた。エシュは震えながら拳を握った。リセは楽しそうに舌なめずりをする。

「行くわよ」
リセはそう言うと、ナイフを歯でしごきながら、その六本腕の蛆喰いを追うように疾走した。エシュは訳も分からず、その背を追う。目の前で展開される惨劇に吐き気を覚えながらも、なぜかリセから目を離せない。狂気と美が紙一重で織りなす光景がエシュの固く閉ざされた左眼の裏側で奇妙なイメージを煮沸させていた。

路地裏には既に多くの死体が転がっていた。誰のものとも判別不能な四肢や臓器、眼球が散乱し、下水溝には血膿が混ざった液体が滴る。エシュは嘔吐を堪えながら進み、リセは笑い声を響かせる。その笑いはこの腐臭の都市に異物のように反響し、どこか懐かしい子守歌を想起させた。

統轄府の武装員がやがて現れた。防護服に身を包み、金属製のフードを被った彼らは、濃厚な白煙を吹く円筒状の武器を構える。その白煙は特定の悪臭分子を凝固させ蛆喰いを刺激する特殊ガスだ。蛆喰いは嗅覚で獲物を追うが、このガスを嗅げば錯乱し、暴走し、最終的には自滅的な行動を取るという。武装員は規則正しい隊列で進み、六本腕の蛆喰いを囲むように陣形を敷く。

だが、蛆喰いは数体いた。その一体は、床に広がる血溜まりから顔のない赤子のような分身を吐き出し、それらが地を跳ね回りながら武装員たちに噛み付く。武装員の一人が惨叫を上げ、金属のヘルメット越しに頭部が潰される音が響く。その音は淡々とした死のワルツのように響き、リセは愉悦に震え、エシュは硬直する。

膿夢に汚染された都市は、理性という概念を蝕んでいた。人はただ「生き残る」ために本能的な行動をし、蛆喰いは「喰らう」ことでしか存在を確かめられない。リセはそんな絶望的な世界を舞台に新たな舞踏を企てているように見える。その意図は何なのか。エシュには分からない。ただ、その不吉な笑みと奇妙な紋様がこれから起きる地獄のような出来事の前触れだと直感的に感じていた。

上空では、都市を覆う巨大なガラス天蓋がひび割れ、緑色の瘴気が漏れ始めている。都市は外界から隔離され、半ば培養されていると噂されていたが、その外には何があるのかは定かでない。だが天蓋が崩れれば、この巨大実験場の均衡は完全に崩壊するだろう。リセはナイフを逆手に持ち替え、六本腕の蛆喰いに深く切り込む。蛆喰いは身を捩り、腕を千切れそうなほど振り回すが、リセは軌跡を読むかのように軽やかに躱す。

エシュは、この惨劇がスタートラインであることを悟った。自分が生きてきた日常は、本当は既に崩壊していた。ここから先は出口のない迷宮。血と膿が満ちる都市で、何を目指すのか。逃げるのか、戦うのか、それとも……。


【第二章:腐蝕する意志の水脈】

腐臭の都市カトルラースは、まるで生きた屍のように呼吸する。今、エシュはリセと共に、統轄府と蛆喰いの戦闘が膠着した裏路地の廃墟を抜け、さらに都市の内臓部へと踏み込んでいく。そこは、奇怪な地下水脈が走り、膿夢の根源と噂される「水膜庭(すいまくてい)」と呼ばれる領域だった。

水膜庭は、過去に都市が拡張工事を行った際に出現した地下の巨大空洞で、その内部には脈動する生体組織のような膜が水のように揺らめいているという。そこから醸し出される蒸気は、鼻腔を刺激し、幻覚を誘発する。多くの住民はそこが膿夢の発生源だと信じているが、統轄府はあくまで噂として無視している。しかし、リセはそこへ行く必要があると主張する。

「ねえ、エシュ。あなたは本当に生きたいと思ってる? この腐った都市で。蛆喰いに怯え、統轄府に支配され、汚れた空気を吸い続ける? 私たちは生きるためにこの都市を出なきゃならないの。でもそのためには、この都市がどうやって生まれたか、何が根底に潜んでいるかを知る必要があるのよ。」

リセはそう言うと、錆びた梯子を降りながら、薄暗い下水道へと姿を消す。エシュは躊躇いながらついていく。彼が見たリセの笑みは、戦闘時の狂気とは異なる静けさを帯びている。まるで血の池に沈む蓮の花が揺れるような儚さがその横顔に浮かんでいた。

下水道は腐臭と有毒ガスで満ちていた。壁面には無数の文字が刻まれているが、その多くは意味不明な記号と化している。一部は蛆喰いが爪で引っ掻いた跡なのか、内側から盛り上がる生体組織のようなものが脈打っている。エシュは嘔吐を抑えつつ、必死に歩みを進める。

やがて二人は、広間のような空間に出た。そこはかつて下水処理プラントの中枢だったらしく、崩れた金属梁が蜘蛛の巣のように天井から垂れ、床には膿液が滴る水たまりが点在している。その中央には、不可解な彫像がそびえ立つ。人の形をしているが、顔の部分には無数の小さな穴が開いていて、そこから蛆のような白い虫が這い出している。

「見てごらん、エシュ。これが都市の真実の一端かもしれないわ」
リセは彫像に近づき、そっと指先で触れる。指先から赤い筋が流れ、それが彫像に吸い込まれるように消える。一瞬、彫像の目の穴から生温い風が吹き出した。それはまるで彫像が呼吸しているかのようだった。

エシュは背筋を震わせる。彼は自分の存在が、この都市という巨大生物の一部なのではないかという妄想を抱く。自分は半人と蔑まれた。だが、それは外見上の奇形だけではないのでは? もしこの都市自体が意思を持ち、人間を素材として新たな怪物を創り出しているのだとしたら……。

突然、広間の薄暗がりから奇妙な声が響いた。それは人間の声なのか、機械音なのか判別し難い、くぐもった響きだった。
「……誰、来タ……?」

リセが耳を澄ませると、梁の奥から歪んだ姿の人影が現れた。そいつは統轄府の防護服を着ているが、頭部は透明なガラス容器に変異し、その中に不気味な液体と眼球が浮いている。脚は一本多く、奇妙な関節で折れ曲がっている。その兵士は統轄府が極秘に行う「改造実験」の産物なのか、あるいは蛆喰いと化す途中で歪んだ存在なのか。

「……オ前タチ、何者……ココ、入ルナ……」
ガラス頭の兵士は、ぐらりと身体を揺らしながら槍のような器具を構える。リセは微笑し、エシュに目配せをする。エシュは恐怖で足がすくむ。まともな戦いになるのか。リセは迷いなくナイフを抜くと、地面を蹴って兵士に飛びかかった。

奇妙な戦闘が始まる。金属が擦れる音、ガラスが軋む音、液体が飛び散る音。リセは槍先を避けつつ、兵士の懐に飛び込み、ナイフで装備の継ぎ目を狙う。兵士はガラス容器の頭を振り回し、中の眼球がリセを凝視している。槍先からは真紅の炎のような液体が滴る。それが床に落ちると、床材が溶ける。酸か何かなのだろうか。

エシュはただ見ていることしかできない自分に苛立つ。なぜ自分はこんなにも無力なのか。なぜ片眼は閉じているのか。怒りと無力感が胸を灼く。しかし、そのとき、何かが左眼の裏側でずきりと疼いた。エシュは思わず顔を抑える。

リセが兵士を翻弄し、ガラス頭にヒビを入れると、兵士は奇声を上げて後ずさる。その瞬間、梁の上から蛆喰いが垂直に落下した。新手だ。蛆喰いは両手が剣のように変形したタイプで、金属的な刃を構成しているらしい。その刃は水気を含んだ有機物で、斬られれば毒が回るという噂があった。

混戦が続く中、リセは踊るように立ち回る。彼女はまるでこの世界の狂気を肯定しているようだった。斬撃、悲鳴、溶解音が響く中、ガラス頭の兵士と蛆喰いは互いに殺意を向け、リセはそれを利用して反撃の隙を狙う。エシュは逃げ場もなく、ただ空気をかきむしるように立ち尽くす。

そのとき、不意に広間の彫像がわずかに光った。エシュの閉ざされた左眼がずきりと痛む。エシュは膝をつき、額汗が頬を伝う。視界が歪む中、膿夢が囁くかのような微かな声が聞こえてきた。
「……開けよ……左眼ノ瞼ヲ……都市ノ真実ヲ視ヨ……」

彼はうめき声を上げながら、顔に手を当てる。無理やり瞼を裂くような激痛が走り、気を失いかける。しかし、その一瞬、エシュは自らの中で何かが芽生えるのを感じた。それは怒りや恐怖ではなく、純粋な「知りたい」という欲求だった。この狂気の世界の底に何があるのか。その問いが彼を動かそうとしている。

リセは蛆喰いをナイフで突き、兵士の装備を剥ぎ、両者を同士討ちに仕向ける。やがて兵士のガラス頭は粉砕され、中から茹だった眼球や脳髄らしき塊が飛び散った。蛆喰いもまた四肢を失い、地に伏せている。リセは靴裏で蛆喰いの頭部を踏み潰し、地面に紅い飴細工のような腑肉が散乱する。

「エシュ、大丈夫?」
リセは肩で息をしながら振り返る。エシュはうわ言のように、「左眼……開けなきゃ……」とつぶやく。リセは怪訝そうに寄り添い、彼の瞼をそっと撫でる。その瞬間、エシュは全身を震わせ、瞼の裏側で蠢く何かを感じる。

リセは小さく笑う。「あなた、半人なんでしょう? だったらその半分の秘密を解き放ちなさい。この腐った都市で生き残るためには、自分の奇形を受け入れなきゃ。痛みを恐れる必要はないのよ」

エシュは苦痛に耐えながら、ゆっくりと左目の瞼をこじ開けようとする。しかし瞼は皮膚と癒着し、まるで肉と肉が接着したように開かない。彼は喉を絞るような声で唸り、爪で自らの瞼を引き剥がす。血が垂れ、視界が真紅に染まる。リセはその行為を止めない、むしろじっと見届ける。

やがて、ズルリと皮膚が裂け、エシュは左目を半ば無理矢理に露わにする。その眼球は黒く澱んだ虹彩と、不規則に動く瞳孔を持っていた。エシュは喘ぎながら周囲を見渡すが、何も変わらない。だが、何かが頭の中でささやく。
「見よ、都市の血脈を。その底に潜む母胎を。」

リセは微笑む。「よくやったわ、エシュ。これであなたも、この都市の本質を視る資格ができた。さあ、行きましょう。水膜庭へ。そこには膿夢の源流があるはずよ。」

そして二人は朽ちた鉄扉を押し開け、さらに奥深くへ。そこには静かな水音が響き、生温い霧が充満していた。床には微細な繊毛のような器官がびっしりと生え、踏むたびにくぐもった悲鳴のような音がする。その奥で、都市の秘密が彼らを待つ。


【第三章:水膜庭の胎動する肺】

地底深くへと降りた先、腐臭と膿液が絡み合う暗い通路の奥に「水膜庭」と呼ばれる領域があった。そこはかつて都市カトルラースの拡張時に偶然発見された天然の空洞だと言われているが、真偽は定かではない。寧ろ、この都市全体が膿夢に浸された有機体であり、水膜庭はその内臓の一角 ―― 呼吸と循環を司る肺胞のごとき空洞なのではないか、とエシュは歪んだ左眼で世界を睨みながら思考する。

リセが先頭を行く。彼女は両腕の紋様を微かに発光させながら、鼻歌のような掠れた声を漏らしつつ、湿気に満ちた通路を歩む。エシュはその背後についていくが、先ほど瞼を剥がした左眼から絶えず滲み出す鈍痛に苛まれ、自分が何者なのか、ここで何を求めているのかを再び問わずにはいられない。

扉の向こうには、青白い半透明の膜が幾重にも重なる空間が広がっていた。天井は低く、まるで巨大な生物の内側に潜り込んだような圧迫感がある。膜の隙間から滴る液体が細い瀑布となり、床には奇怪な苔状の繊毛が密生していた。足を踏むたびに、くぐもった嘆息のような音が響く。リセはその音を「都市の呼吸音」と呼んだ。

「この水膜庭は、膿夢の源流だって噂があるわ。私たちが呑まされている悪夢は、ここから染み出した瘴気によって紡がれるのかもしれない」
リセが囁く。その声は膜に反射し、微妙なエコーを伴ってエシュの耳に届く。エシュは唇を噛む。もし本当にこの場所が膿夢の起点なら、ここを抜けることで都市の歪んだ胎内から外界へと至る道があるかもしれない。あるいは、この先にはさらに恐るべき真実が隠されている可能性もある。

エシュは思い出す。今、彼は「半人」と蔑まれた出自を抱えたまま、この腐り果てた都市からの脱出経路を探しているわけではない。彼には明確な目的はなかったが、リセとの出会い、左眼を裂いて得た不可解な視覚、そして溢れる疑問が渦を巻く中、彼は自ら求めるものが形を成しつつあると感じていた。それはこの悪夢のような世界が、何故こう在るのか、何のために誰が創ったのかを知ること。知識によって自らを、そしてリセを、あるいはこの都市全体を救い出せるのではないかという、根拠なき衝動。

歩みを続けると、ゆっくりと息づくような、肺音を思わせる規則的な振動が足元から伝わってきた。通路の奥には、薄青い発光を帯びた巨大な膜が膨らんだり萎んだりしている。まるで呼吸する肺胞。水膜庭は本当に生物の器官なのか? その可能性を否定できないほど、この空間は有機的な秩序に満ちていた。

リセは膜に手を触れる。すると膜の内側で何かが脈打ち、膜表面に淡い光が走る。エシュは驚き、警戒の色を濃くするが、リセは笑みを浮かべるだけだった。

「感じるわ、エシュ。ここに脈打ってる何か、都市を構成する“母体”の意思みたいなものが……。この庭を通じて、都市の中心へと繋がっている気がするの」

「母体?」
「そう、母胎とも言える存在。この都市がただ腐っているだけじゃない、何か創造原理がありそうなのよ。考えてみて、蛆喰いたちは、なぜ無限に増える? 統轄府は、なぜ中途半端な対策しかしない? それに私やあなたのように奇妙な兆候を持つ者がいるのはなぜ? この膜を通して、何か意志が働いているんじゃないかしら」

そのとき、突然、足元の苔状繊毛がざわめき始めた。静かな呼吸音が一変し、低い唸りのような音が周囲を包む。エシュは身構える。何者かが近づいている。それは蛆喰いなのか、それとも統轄府の改造兵士か、あるいはまったく別種の生物なのか。

膜の奥から滲み出すように現れたのは、半ば透けた肉塊だった。透明なゼラチン質の身体に、無数の黒い目玉が内包されている。脚や腕といった人間的な四肢はないが、その塊は床に這いずり、呼吸する膜に絡み付いている。その存在は、蛆喰いともまた異なる純粋な有機的奇形であり、膿夢の渦中から生まれた混沌の生霊めいて見えた。

リセはナイフを握るが、その先端が微かに震える。彼女もこの未知の存在に不安を感じたのかもしれない。

「近づかないで」
リセが静かに囁く。エシュも息を潜める。透明肉塊は膜を舐めるような動きを見せ、そこから糸状の液を滴らせる。すると、膜は苦しむように痙攣し、鼓動が乱れる。エシュは奇妙な感覚に襲われた。それは自分の肺が外部から直接刺激されているかのような、生理的な不快感だった。

この存在は水膜庭の環境そのものを歪ませているのか? エシュは左眼を凝らして観察する。その黒い虹彩の瞳孔は、この異様な生物の動きを捉え、脳裏に奇妙な残像を刻む。すると、エシュの頭内に微かな囁きが響いた。「……鍵、求メヨ……都市ノ子宮ヲ開ク鍵……」

まるでこの生物が、または膜そのものが、テレパシーのような方法で彼に何かを語りかけているかのようだった。鍵とは何か? 都市の子宮とは? 外界への出口か、それともさらなる絶望の入り口なのか。

透明肉塊がこちらに気づいたのか、その内部で黒い目玉がぐるりと回転し、二人を凝視した。目玉は人間のように瞬きをせず、同時に何十個もの視線が二人を舐めまわす。嫌な圧迫感が走る。すると、肉塊はズルリと音を立てて近寄ってきた。まるで、二人に何らかの意思を伝えようとしているかのように。

「退くわよ、エシュ」
リセはナイフを構え後ずさる。だが通路は一本きり。この先へ進まなければ真相には辿り着けない。ここで引き返したところで、地上は統轄府と蛆喰いで溢れ、腐臭が増すばかり。リセの顔には焦りが浮かぶが、同時に好奇心も滲む。彼女もまた、この狂気の中心へ飛び込みたいのだろう。

肉塊は膨らんだり萎んだりしながら、奇妙な音を発し始める。それは湿った笛のような響きで、膜に反響し、周囲の繊毛が震える。エシュは耳を塞ぎたい衝動に駆られるが、何か聞き逃してはならない重要な意味が含まれているような気がして、耐える。

すると、膜の下層から新たな生物が現れた。今度は人型に近いが、顔が膿状の泡で覆われ、手足が細長く変形している。その者は統轄府の装甲片を身につけているが、既に原型を留めず、肉と金属が癒着している。まるでこの領域で再構築された戦士のなれの果て。そいつは肉塊と共鳴するかのように喉を振るわせ、エシュたちに不気味な微笑を見せた。

「……ココハ母胎ヘノ通路……鍵ヲ持ツ者ガ至ルベキ庭……」
その声は濁っているが、言葉を発する意思があるようだ。エシュはぎょっとする。

「あなたは何者なんだ?」
問いかけるが、相手は明確な回答をしない。ただ、「鍵」と「母胎」を繰り返し、膿だらけの顔面から茶褐色の液体を垂らす。その液が床の繊毛に触れると、まるで植物が日光を浴びるように繊毛が立ち上がり、空気が甘い腐臭を帯びて味を濃くする。

リセは痺れを切らしたようにナイフを突き出すが、相手は逃げずに受け止める。ブチブチとした音を立て、ナイフは相手の肉体に沈むが、まるでゴムのような弾力で刃が抜けない。リセは無理やり引き抜こうとして、逆に腕を捕まれる。細長い手指がリセの腕を掴み、身動きが取れなくなった。

「くっ……離して!」
リセが叫ぶが、相手は微笑を崩さない。代わりに肉塊がエシュの方へじりじりと近づいてくる。エシュは戦う術を持たないまま、思考を巡らせる。どうすればいい? ここでリセを見捨てて逃げることはできないし、戦う術もない。だが、自分の中に変化した左眼は何のためにあるのか。この眼で何が視える?

エシュは左眼を見開き、相手を凝視する。その瞬間、世界が二重に見えた。膜の内側、繊毛の下、そのさらに奥深くに、巨大な網状組織が脈打っているイメージが頭に飛び込んできた。それは都市の血管のようであり、同時に精神を媒介する神経線維のようでもある。その網状組織の一部が、リセを捕まえた人型生物や肉塊を操っているように感じる。彼らは自立存在ではない。水膜庭そのものに操られた一部なのだ。

鍵とは何か。エシュは焦りながら、自分たちがここへ来る直前に目にした彫像、そしてリセが口にした「母胎」という言葉を思い出す。都市が有機的に膿み続ける中、母胎はその中心で膿夢を紡ぎ、蛆喰いを生み出す力を持っているのだろう。鍵とは、そこへ至る道を開くための概念的な何かかもしれない。物理的な鍵というより、この世界の本質を理解し、膜を通り抜ける資格なのではないか。

「母胎に会いたい」
エシュは意を決して、相手に呼びかける。

「俺たちは母胎に会いに来たんだ。鍵が必要なら、その鍵は俺たちが見つける」
その言葉に、人型生物は微笑を崩さず、黒い瞳孔を揺らす。透明肉塊は笛のような響きをやめ、静かに揺らめいている。

すると、人型生物はリセの腕を離した。リセは息を整えながら後退する。肉塊もエシュから距離を取り、膜の奥へと後ずさる。彼らは試しているのかもしれない。来訪者が本当に母胎へ辿り着く意志と知識を持ち合わせているかどうかを。

リセは肩を押さえながらエシュに問いかける。
「何を言ったの、エシュ? 母胎に会いに来たって?」

「わからない。でも、ここまで来てしまった以上、引き返せない。俺たちがこの都市の真実を知るためには、母胎――膿夢の根源に触れるしかないだろう?」
エシュの声は震えているが、それでも意志は固かった。リセは一瞬逡巡するが、やがて不敵な笑みを取り戻す。

「そうね、興味があるわ。この腐り果てた世界の母親がどんな化け物なのか、見届けないと気が済まない」
リセは血の滲む腕を一舐りし、再び歩み出す。人型生物と肉塊は道を譲るように左右へと退いた。膜が揺れ、繊毛が開く。まるで胎内を進む胎児を案内する産道のように、道が拓かれる。

先へ進むほどに、水膜庭は異形な調和を深めていく。生物的膜が重なり合い、液体が滴る音が子守唄のように響く。螺旋状の坂道の先、うっすらと赤紫色に明滅する空洞が見えた。そこには、巨大な袋状の器官が脈動している。その周囲には無数の生物が寄り添い、膜越しに何かを囁く。

エシュとリセは視線を交わす。
「鍵は私たち自身かもしれない。あなたが左眼を開け、私がこの腕の紋様を輝かせることで、母胎の扉が開くのかも」

リセは微笑む。エシュは左眼を細める。痛みは残るが、不思議な確信が芽生えていた。

【第四章:神経網の囁く墓所】

水膜庭の深奥へと進む通路は、まるで有機的な産道を辿る胎児のような感覚を二人に与えた。エシュとリセは、膿夢の源流であるかもしれぬ「母胎」へ辿り着くべく、膜が幾重にも層を成す螺旋の下降路を慎重に歩む。左眼を開いたエシュは、膜の裏側に走る細やかな神経網のような組織を幻視することができた。それらは淡い発光を伴い、規則正しく脈打ちながら、二人を観察し、試し、あるいは誘っているかのようだった。

やがて、通路は開け、巨大な半球状の空間に出た。その壁面は無数の血管状のラインで彩られ、赤紫や青緑の液体が脈流する様が露わだった。空間の中心には高さ数メートルにも及ぶ台座があり、その上には「神経槍(しんけいそう)」と呼ぶべき奇妙な器具が突き立っている。槍は骨と金属が融け合ったような質感で、周囲には繊毛が波打ち、微細な電気的輝きが散っていた。

リセは困惑気味に眉をひそめる。
「何なの、これ。こんなものが自然にできるわけないわ」

「そうだな……まるで、この空間自体が誰かの意志で設計されたかのようだ」
エシュは唾を飲み込む。母胎に辿り着く前に、このような“関門”があるのだろうか。神経槍は生体的にも機械的にも見える。それは防壁か、あるいは中枢と外界を結ぶインターフェイスなのか。

壁面をよく見ると、人型の影が幾つか浮き出しているようだった。壁に同化した生物の輪郭。その中には、統轄府の装甲らしき破片や、市民の着ていたであろう衣類の名残も見える。まるで彼らは壁の一部として溶け込み、流体化した神経網に情報を吸われているような印象を与えた。

「もしかして、ここに来た者たちは、この壁に取り込まれたのかも……」
リセが呟く。その声音には微かな恐怖が滲む。先ほどまでの強気で享楽的な振る舞いが少しだけ影を潜めているのは、この場所に充満する“理解不能な意志”が原因かもしれない。

エシュは左眼を凝らす。滲む痛みを押し殺して視界を凝集すると、神経槍から細い糸が伸び、壁に同化した生物たちへ繋がっているのが見えた。それは情報の授受、あるいは思念の循環が行われている証左のようだった。そこには言語を超えたコミュニケーションが存在しているのかもしれない。

「エシュ、近づいてみましょう。ここで立ち止まっても仕方ないわ」
リセはナイフを握り直し、ゆっくりと神経槍へ歩み寄る。エシュも後を追う。足元の床は柔らかく、踏むたびに軽い衝撃が足裏へ返ってくる。まるで生きた生物の内部を歩いている感覚だった。

神経槍の根元には、大小様々な穴が空いていた。そこから蒸気のようなガスが噴出し、臭いは硫黄と血液が混ざったような、甘酸っぱくも不快なものだった。リセは口元を覆い、エシュは息を止める。意識を朦朧とさせるようなこのガスは、膿夢を増幅する効果があるのだろうか。

そのとき、天井の膜が蠢き、淡い光が走った。神経槍が振動し、微かな声が響く。声というより、脳内への直接的な刺戟かもしれない。それは単語とも呼べない断片的な概念を投げかけてくる。

「……母胎……鍵……疎外……吸収……」
エシュは額を押さえてうめく。頭の中にノイズが走り、言葉にならないイメージが乱舞する。リセも同様に苦しげな表情を浮かべ、膝をつく。二人は完全な闖入者なのか、それとも歓迎されざる客なのか。神経槍は問い質すように、二人の脳裏へ荒々しい情報波を送ってくる。

「やめろ……俺たちは……母胎に会いに来ただけだ……」
エシュは必死に声を絞り出す。するとノイズが一瞬止み、静寂が訪れる。リセは肩で息をし、冷や汗を流している。

「…母胎…」
再び脳内に響く概念。今回は少し穏やかで、問いかけるような響きだ。エシュは荒い呼吸を整えながら、左眼で神経槍を睨む。

「そうだ、俺たちは母胎を求めている。この都市が何故こんな姿なのかを知りたい。もし母胎がこの都市を生み出し、膿夢を紡いでいるのなら、その真意を確かめたいんだ!」

リセは顔を上げ、エシュに同意するように微笑む。
「私たちはただの闖入者じゃないわ。この腐れた世界で何かを変えたい。あるいは理解したいの。あなたがその入り口なら、私たちを通して」

すると神経槍から発せられる脈動が微妙に変化した。壁に溶け込んだ人々の輪郭がゆらりと揺れ、その一部が緩やかに溶解して床へ滴る。匂いが一層濃くなり、エシュは吐き気を堪える。神経槍はゆっくりと傾き、その先端が二人に向けられた。槍の刃先は実体を持たぬかのように、薄膜を裂いて振動している。

突然、エシュの左眼が強烈な痛みを発した。彼は思わず叫び声を上げる。瞼を裂いた部位が熱を帯び、脳裏へ焼き付いた炎が燃え盛る。リセが慌てて肩を支え、エシュはよろめく。視界が滲む中、槍の裏側で何かが割れるような音が響く。

その音と共に、通路が変化した。先ほどまで閉ざされていた壁の一部が溶解し、新たなトンネルが現れる。神経槍は二人が母胎へと進むことを許したのかもしれない。母胎はこの先にあるのか、それともさらなる試練が待ち受けるのか。

「行きましょう、エシュ。あなたが左眼を開いたからこそ、この道が開いたのよ」
リセはそう言って、混乱と苦痛に震えるエシュを支えながら、露わになった通路へ足を踏み出す。

トンネルは、より生々しい組織でできていた。脈動する壁、ぬめりを帯びた繊毛、滴る血液のような体液。まるで巨大な生物の肺胞から気管、そして喉の奥へ向かって歩んでいるような錯覚を覚える。これほど直接的に生体的な構造物を見せつけられると、都市がただの建造物ではなく、巨大な異形生命体である可能性が強まる。

通路を進むにつれ、エシュは頭痛を抱えながらも新たな感覚に気づいた。左眼を通して、微かな意志の流れが見えるのだ。まるで何億もの微粒子が、情報や思念を運んでいるような感覚。その流れは通路の奥へ収束し、そこに何か巨大な“脳”のような存在があるのではないかと直感させる。

「リセ、聞こえるか? 頭の中で何かが語りかけてくるんだ」
 エシュが尋ねると、リセは首を振る。

「私は感じない。でもあなたは特殊なのよ、あの奇形の眼球が何らかの感覚をもたらしているんでしょう。ここへ来るための鍵の一つは、あなたが持っていたってことね」

確かに、エシュは半人と蔑まれ、生まれつき閉ざされた左眼を持っていた。その眼は、都市の内部構造や膿夢の根源にアクセスするために仕組まれた「鍵」だったのか? だとすれば、エシュの存在自体が都市のシナリオの一部なのかもしれない。その考えは不快であり、同時に奇妙な運命を感じさせる。

やがて、トンネルの先に開けた小さな空洞に着いた。そこはまるで中継基地のような場所で、円形の水場が中心にあり、その周囲には死者や蛆喰いの残骸、統轄府の崩れた装備片が散乱している。この場所を目指した者たちは少なからずいたのだろうが、皆ここで力尽きたようだ。

水場は透き通る液体を湛え、底には無数の繊毛が揺れている。その水面には歪んだ顔のような影が映るが、それはエシュかリセのものではない。第三者、あるいは“母胎”の投影なのか。エシュが恐る恐る手を差し入れようとすると、水面が揺らぎ、声が響く。

「……母胎へ至るには、汝の意思を示せ……」
再び脳内への干渉。エシュは身震いする。リセはナイフを構えつつ様子を窺う。二人はここまで来て引き返せない。エシュは心を定め、水面に向かって問いかける。
「母胎よ、あなたは何者だ? 何故都市を膿夢に沈め、人々を蛆喰いに堕とす? 答えてくれ。俺たちは理解したいんだ!」

しかし水面は答えない。代わりに、空洞の壁面を走る血管が鼓動を速め、液体が赤く濁りはじめる。緊迫感が空洞を満たす。リセは焦りを隠せない顔をエシュへ向ける。

「何をすればいいの? 鍵って何なの?」
「分からない……だが、俺たちは“意思”を示せと言われた」

エシュは拳を握りしめる。この世界を理解し、変えるための意志。破壊か、服従か、それとも別の道か。エシュは己が求めるものを整理する。自分はこの腐敗した世界を憎んでいる。この都市が人を狂わせ、悪夢を垂れ流す状況を変えたい。人が人として生きられる世界があるのなら、それを見つけたい。

「俺たちは、この世界を正気へと呼び戻したい。お前が母胎なら、その理由を知りたい。そして止めたいんだ! それが俺の意思だ!」
エシュが叫ぶと、水面が暴れるように揺らぎ、赤い水が天井まで噴き上がった。悲鳴のような音がし、リセは後ずさる。だが、その噴き上がった血液状の液体が、ゆっくりと流れ落ち、再び澄んだ色へと戻ると、空洞の奥に新たな裂け目が現れた。

その裂け目は、まるで巨大な扉であった。肉厚の膜が左右に引き裂かれ、その先に続く暗い回廊が露わになっている。エシュとリセは視線を交わす。
「行くしかないわね、エシュ」
「ああ、これが最後の関門かもしれない」


【第五章:胎内迷宮の踊る影】

裂け目を抜けると、そこは想像を絶する迷宮だった。通路は複雑に絡み合い、無数の膜が層を成して絡みつき、異形の植物や器官がそこかしこに散在している。足元には淡い発光を帯びた液体が浅く溜まり、滴る音が迷宮内に反響していた。

エシュとリセは、既に方向感覚を失いつつあった。回廊は上下左右の概念を嘲笑うかのように曲がりくねり、ある通路は天井へと伸び、別の通路は突然垂直に落ち込んでいる。肉質の壁面は時折ざわめき、潜む影が蠢く。まるで彼らが巨大な獣の消化器官を踏破しているような印象すら与える。

「まるで悪夢の中を彷徨っているみたい……」
リセが吐息混じりに言う。エシュは頷くしかない。ここは論理が通用しない空間だ。それでも、左眼で世界を凝視すると、微かな道しるべのような脈動があることに気づく。あたかも見えない磁場が、二人をある一点へと導いているかのよう。

エシュはリセの手首を掴む。
「ついてきて、感じるんだ。あの奥だ……」
「わかったわ、エシュ」

二人は液体に足を取られながら前進する。迷宮内は無音ではなかった。膜越しに聞こえる低いうなり声、遠くで何かが爪を立てるような金属音、そして時折発する謎の囁き。それらが感覚を麻痺させ、時間の流れを曖昧にする。

ある広間に出たとき、二人は奇妙な光景に遭遇した。そこには無数の人影が踊るようなシルエットで壁面に映し出されている。だが、実体は見当たらない。影だけが踊り、笑い、嘲り、苦悶し、交尾するような動きを繰り返す。その影絵は、まるでこの都市で起きた全ての惨劇と欲望を凝縮したかのような狂乱の舞踏だった。

「一体何なの、これ……」
リセは不快そうに顔を歪める。影たちは彼女の言葉に応えるかのように、一瞬ピタリと動きを止め、再び滑稽なまでの狂乱を再開する。その動きは笑えるものではなく、むしろ人間の秘めた醜悪な欲望や苦痛を逆撫でする芸術作品のようだった。

エシュは震える声で言う。
「これは……この都市が抱え込んだ記憶なのかもしれない。過去に人々が行った暴虐や快楽、それがここの膜に焼き付いて影となって踊っているんだ」

リセは吐き捨てるように言う。
「まるで都市が私たちを嘲笑っているみたい。いいわ、見せたいなら見せなさい。私たちはここに来た目的を忘れないわ」

影の舞踏を強行突破するように、二人は部屋を横切る。すると、影のいくつかが壁から剥がれ落ち、立体的な存在となって足元に溢れ出した。黒い粘土のような質感を持つ影たちが、溶けるように地面に広がり、二人の足を絡め取ろうと蠢く。

「くっ、離せ!」
リセがナイフで粘土状の影を切り裂くが、切断面からは再び影が滲み出てくる。エシュも足を取られ、バランスを崩しそうになる。まともに戦える相手ではない。
「走れ、リセ! こんな連中相手にしてたらキリがない!」

二人は必死になって駆け抜ける。粘つく影は後を追うが、やがて熱を帯びた膜から蒸発するように消え失せていった。広間を抜ければ、その脅威は消えるのだろう。ここはイメージや記憶が空間化した領域で、一定の範囲を離れればその影響は薄れるのかもしれない。

息を切らしながら、二人は次の通路へと逃げ込む。そこは細長い回廊で、床には奇妙な記号が刻まれている。記号は言語とも紋章ともつかず、螺旋や波、あるいは内臓器官を抽象化したような図形が続いていた。

「これらの記号は、この迷宮の設計図なのかも」
エシュは膝に手をつきながら言う。リセは周囲を観察して頷く。
「確かに、何かパターンがあるわ。もしこの記号を辿れば、母胎の居場所に行けるかもしれない」

そこでエシュは左眼を凝らし、記号が放つ微かな光を追う。記号は一見ランダムだが、よく見ると一方向へ緩やかに光度が増している箇所がある。そこが出口か、あるいは中心へ導く道だろう。

二人は再び歩み出す。今度は影に囚われず、記号の誘導に従う。この回廊を抜ければ、きっと母胎への距離は縮まるはずだ。迷宮は試練を与えているかのようだった。過去の罪と欲望を示し、挑戦者の精神を削る。それに打ち勝つことで初めて母胎の前に立つ資格が得られるということか。

通路を進むと、静かな空洞に出た。そこは先ほどまでの混沌とした空間とは違い、整然とした印象があった。丸いドーム状の天井には、脈動する血管が幾何学模様を描き、中央には石台のようなものがある。石台と言っても、実際は固化した有機物のようで、薄い膜で覆われていた。

エシュとリセが近づくと、その石台がゆっくりと割れ、内部から淡い光を放つ水晶体が現れた。水晶体は液体で満たされ、その中に小さな胎児のような形をした物体が浮かんでいる。胎児は目を閉じ、微弱な鼓動を刻んでいるように見えた。

「これが……何なの?」
リセは囁くように言う。エシュは戸惑いながら、水晶体を見つめる。左眼に痛みが走り、その胎児の周囲を取り巻く神経網が透けて見える。まるで母胎に連なる端末のような存在だ。

恐る恐るエシュが手をかざすと、水晶体から声が響く。今度は脳内ではなく、空間を震わせる直接的な振動だった。
「汝ら、母胎を求める者よ……汝らは理解を欲するか、破壊を欲するか……」

その問いに、リセはナイフを握りしめながら言い放つ。
「理解して、可能ならば解放するわ! この都市がこんな地獄である必要はないはずよ。あなたは母胎の一部なら、どうにかできるでしょ?」

エシュも同意するように頷く。
「そうだ。俺たちはこの世界の歪みを正したい。もう血と膿に溺れるのはごめんだ」

すると水晶体の中の胎児が微かに動いた。目を開く。その瞳は白濁していたが、確かに意思を持っているようだ。
「ならば先へ進め……母胎は汝らを試している。汝らの意思が本物か、見極めるために……」

水晶体が砕け、中の液体と胎児が空間に散る。それは消えゆく幻影だったのか、跡形もなく溶解して床へ染み込む。だがその直後、壁の一部が溶け、さらなる通路が現れた。そこには先ほどのような脅威は感じない。むしろ穏やかな風が吹き抜けるような錯覚がある。

「行きましょう、リセ。母胎はもう近いはずだ」
エシュは確信を深める。この迷宮は母胎の思想を具現化したもの。蛆喰いと統轄府、狂気と腐敗を生み出した根源が、二人を呼んでいる。

「ええ、帰る場所なんて最初からないもの。行くしかないの」
リセは弱々しい笑いを浮かべ、エシュの腕を取り、通路へ踏み込む。


【第六章:母胎回廊の零落した神】

新たな通路は先ほどまでとは趣が違っていた。壁や天井の肉質的膜は徐々に硬度を増し、半透明の軟組織だったものが、淡い骨格のような構造を帯び始めている。まるで生物が成熟し、内部に骨を形成している過程を縮図的に見せつけられているようだった。

足元の液体もほとんど消え、代わりに粉状の物質が敷き詰められている。それは乾いた血や有機物が風化した末にできた堆積物かもしれない。二人が歩むたびに乾いた微粒子が舞い上がり、喉を刺激する。

「…埃っぽいわね。さっきまでの湿り気は何だったのよ」
リセが口元を覆う。エシュは観察を続ける。左眼で見る限り、ここは膜状構造が減り、無数の管が骨格の隙間を走っている。管の中に何か流れているようだが、先ほどまで感じた有機的な脈動が弱まっている気がする。

「リセ、ここは少し雰囲気が違う。まるで衰えかけた臓器のようだ。母胎に近づくほど、より強靭な構造を想像していたけど、逆に疲弊しているみたいだ」
「疲弊? 母胎は全能じゃないの?」

リセの問いに、エシュは首を振る。
「わからない。だが、この都市が膿夢と蛆喰いに満ちているのは、もしかしたら母胎の不調や衰えが原因かもしれない。健全な母親が胎内を腐らせるとは考えにくい。もしかしたら母胎は病んでいるんだ」

そう考えると、全てが繋がるかもしれない。母胎が衰弱し、膿み、都市全体が悪夢と化している。ならば母胎を“治療”できれば、この狂気の世界を救えるのではないか。エシュの中に微かな希望が芽生えた。

通路を抜けると、小さな部屋に出た。そこには奇妙な存在が佇んでいた。上下逆転した姿勢で天井に張り付き、骨と皮膚が混ざったような羽を持ち、顔面は腫瘍に覆われている。かつて人型だったのかもしれないが、今や何の種族か判別不能だ。

その存在は、エシュたちに気づくと、濁った声を発する。
「…汝ら、母胎求ムル者……? オソイ……全テ遅イ……母胎ハ萎エ…神ハ零落ス……」

リセは緊張した面持ちでナイフを握る。
「あなたは誰? 母胎の守人か何か?」
「守人…否…朽チ果テタ神ノ片鱗……我々ハ母胎ノ子宮内ニ配置サレタ巡礼者……母胎ガ栄エシ頃、秩序ノ観察者デアリ……今ヤ腐リ、記憶ノ崩壊ニ身ヲ任セ……」

エシュは恐る恐る尋ねる。
「母胎はなぜ衰えている? この都市はなぜ膿夢に沈んでしまったんだ?」

異形の存在は苦しげに喉を鳴らす。頭部の腫瘍が脈打ち、腐汁が滴る。
「母胎ハ世界ノ接点……外界ヨリ邪悪ナ思念流レ込み、膿夢ヲ育ム……都市ハ培養器……蛆喰イハ副産物……統轄府ハ制御失敗……全テ滅ビノ予兆……」

「そんな……」
リセが声を失う。外界から邪悪な思念が流れ込む? 都市が膿夢を受精し、それが蛆喰いを生む? あたかも都市は実験場か、隔離施設のように聞こえた。

エシュは歯を食いしばり、視線を上げる。
「母胎に会いたい。何をすればいい?」

異形の存在は羽をわずかに震わせ、骨がきしむ音を立てる。
「行クガヨイ……母胎ハ最深部ニ在リ……ダガ、母胎モハヤ自我失セントス……汝ラガ手遅レデナケレバ、母胎ノ心臓部デ外界ノ侵食ヲ断ツコトガデキルカモ……」

リセは意を決したように頷く。
「それしかないわね。行きましょう、エシュ」

異形の存在は、指のような突起で壁を引っ掻くと、骨格が収縮し、新たな通路が開いた。そこから甘い臭いのする風が流れ込み、二人を誘う。
「急ゲ……母胎ノ終焉近シ……汝ラノ意思、外界ノ悪夢切リ裂ケルカ……?」

その問いに、エシュは静かに応える。
「やってみるしかない。俺たちはここまで来たんだ」

二人は通路に足を踏み入れる。背後で異形の存在は沈黙し、やがて粒子のように崩れ落ちた。零落した神とは、母胎が健在だった頃の名残か、あるいはこの閉鎖的な実験場を観察していた監視者なのか。全ては闇の中だったが、一つ確かなことがある。母胎は弱り、膿夢が暴走している。何者かが外界から都市を侵し、この惨劇を生んでいる。

通路は次第に狭まり、骨格が強固な鎧のように二人を包み込む。呼吸音が反響し、リセの脈打つ鼓動が聞こえるほど静かだ。エシュは左眼で先を視ると、そこには巨大な扉のような膜が見えた。扉の向こう側には強大な存在感が息づいている。母胎だ。

エシュが拳を握り、前進する。リセは後ろを振り返らない。もう戻る道はない。ここは世界の真実へ至る最後の道程であり、彼らが生まれて以来、無意識に求め続けていた答えがあるかもしれない。

扉の前に立つと、膜は彼らを認識するかのように脈打ち、一筋の裂け目が走る。その裏側からは赤い光が洩れ、濃厚な血の香りが漂う。母胎の部屋は、まるで神聖な子宮のように守られているのだろうか。

リセは腕の紋様を確かめる。脈打つ紋様は以前より発光が弱くなった気がする。長い旅路で消耗したのか、あるいは母胎に近づくにつれ紋様がその役割を終えつつあるのか。いずれにせよ、彼女は決して諦めない。その強い瞳がエシュを奮い立たせる。

「行こう。母胎に会おう。そして聞こう。なぜこんな世界なのか、どうすれば止められるのか」
エシュは裂け目に手をかける。その瞬間、左眼が熱く疼く。何かが二人を歓迎しているのか、拒絶しているのか、その意志は読み取れない。ただ、一歩を踏み出す以外に道はなかった。


【第七章:母胎室の対峙】

扉膜を抜けると、二人は巨大なドーム状の空間に立っていた。天井は薄紅色に発光し、その表面には蜘蛛の巣のような血管ネットワークが走り、微細な命の揺らめきを放っている。床は柔らかい絨毯のような細かな繊毛で覆われ、歩くたびに低い嗚咽のような音が響く。

そして空間の中央には、巨大な子宮を思わせる球状の構造物が浮かんでいた。直径数十メートルはあろうかというその球体は、半透明の膜で包まれ、内部には黒い塊が沈むように蠢いている。球体からは無数の管が伸び、壁や天井、床へと刺さっている。それはまるで、この全空間がその球体によって養われ、同時に滲み出る膿夢によって腐らされているかのようだ。

「これが……母胎……」
リセは呆然とつぶやく。エシュも言葉を失う。この光景は美しくもあり、グロテスクでもあり、全てを含有した異様な芸術作品のようだった。視覚に焼き付く赤い光、耳元で響くかすかな呼吸音、鼻腔を満たす鉄臭さと甘い腐臭。

エシュは左眼で内部を覗こうとする。薄膜の向こう側には、何か巨大な生物がいる気配がある。だが定まらない。黒い塊は常に変形し、幾つもの顔や手足が浮き沈みしているようにも見える。まるで都市中の人間の意識や肉体が、ここで溶け合っているようだ。

突如、球体に走る血管が明滅し、脳内に巨大な声が響いた。

「……来タカ……我ガ子ヨ……」
その声は、男女の別も、年齢も、感情も読めない多層的な響きで、二人の内臓を揺さぶるほどの威圧があった。リセは膝を折りかけ、エシュは必死に踏ん張る。

「お前が母胎なのか……? なぜ都市をこんな狂気に沈めているんだ!」
エシュが叫ぶ。声は届くのか、母胎はゆっくりと黒い塊を揺らしながら答える。

「都市ハ器……外界ヨリ流レ込ム思念ヲ培養スル試験管……我ガ役目、思念ノ抽出ト分解…ダガ外界ノ邪気、制御不能……膿夢溢レ、都市腐敗ス……」

「外界って何なの? 都市は世界から隔離されてるんじゃないの?」
リセが問い質すと、母胎は嘲るような振動を発する。

「隔離サレシ世界……然リ……此ノ都市ハ外界ノ眼差シカラ隠サレタ培養巣……外界ノ者タチハ此ノ都市ヲ利用シ、膿夢ヲ抽出シ、戦争兵器、精神汚染ノ道具トス……我ガ衰エ、制御失ワレタ今、蛆喰イ産出シ、都市内部ニ暴走ス……」

「なんてこと……」
エシュは拳を震わせる。要するに、この都市は外部の存在が作り出した実験場、膿夢を培養するための生体ラボラトリーだったのか。母胎はその中枢であり、外界の思念を受信・精製していたが、制御不能となり、内部が崩壊している。市民たちは知らぬ間に利用され、蛆喰いと化す運命にあった。

「止めたい……外界からの侵蝕を止めたい! あなたを苦しませる外界の思念を、どうすれば断てるんだ!」
エシュは必死に叫ぶ。リセも刀を握り締め、母胎を睨む。

「我ガ心臓部ノ核ヲ壊セ……外界トノ連結ヲ断ツ……然レバ膿夢途絶エ、都市静寂ニ戻ラン……ダガ核壊セバ、此ノ都市ト共ニ我モ滅ブ……」

「それで世界はどうなる? 滅ぶってことは、ここに生きる人々は?」
リセは動揺を隠せない。母胎が死ねば、この有機都市は崩壊するだろう。市民たちはどうなる? ただでさえ生存が困難な世界だ、都市が崩れれば全てが終わるのか。

「選ベ……外界ノ邪思念ヲ受ケ続ケ、都市膿ミテ拡散スルヲ容認スルカ……核ヲ壊シ、都市共々消滅サセルカ……汝ラノ意思デ決メヨ……」

二人は愕然とする。そんな選択があるのか。救済など存在せず、腐った世界を終わらせるか、それともこのまま狂気に支配され続けるかしかないのか。エシュは唇を噛み、血の味を感じる。

「そんな……他に方法はないのか!」
エシュは半狂乱で叫ぶが、母胎は沈黙する。黒い塊がゆっくりと一つの人型の輪郭をとり、その顔はエシュに似ていた。まるで彼自身を嘲笑するかのように。

「外界ノ干渉強ク、我ガ機能限界……策無キ……滅ビノ二択……」

リセは震える声で口を開く。
「エシュ、どうするの? このまま膿夢が溢れて、永遠に人々が蛆喰いに堕ちる世界を続けるの? それとも全部壊してしまう? 私たちが生きる意味は?」

エシュは頭を抱える。確かに救いのない選択だ。だが、母胎が衰え、統轄府が無能で、蛆喰いが無限増殖する以上、この世界に未来はない。ならば外界との連結を絶つことで、新たな可能性が生まれるのではないか。たとえ都市が滅びても、そこから解放された思念が外界に漏れなければ、次の犠牲は防げるかもしれない。

「リセ……俺たちがここで終わらせよう。この腐った世界を……」
エシュは決意を固める。リセは泣きそうな顔で頷く。二人が出会った意味は、きっとこの結末を目撃するためだったのかもしれない。

「どうやって核を壊す?」
エシュが尋ねると、母胎は壁面の一部を裂き、内部空洞へ通じる管を示す。

「管ノ先、心臓部ニ核在リ……汝ラガ触レレバ崩壊始マル……痛ミナク終ワル保証ナシ……」

エシュは苦笑する。痛みや苦しみなど、今さら恐れるものではない。リセはナイフを握り直し、エシュの腕を掴む。

「やるわよ、エシュ。私たちが、この狂気を止めるの」

二人は管へと足を踏み入れる。母胎はじっと見守る。黒い塊の中で顔が歪み、何重もの声が嘲りと涙のような音を混ぜて響く。
「選択シタナ……我ガ子ヨ……オ前タチガ外界ノ意思ニ打チ勝ツナラ……来世アルヤモ……」

その言葉が祝福か呪詛か、エシュにもリセにも分からない。だが、前へ進む以外に道はない。


【第八章:心臓腔への降下】

管は狭く、粘液が絡みつき、二人を生者のための道とは思えない深みへ引きずり込む。足場は不安定で、繊毛が絡みつき、血液が滴る。時折、管が痙攣して二人を締め付け、通行を妨げようとする。だが、エシュもリセも止まらない。この管の先に、外界との連結を絶つ核がある。

左眼を酷使しながら、エシュは必死に道を見極める。管は上下左右が入れ替わり、時として重力さえ無視しているかのようだ。リセは疲弊していたが、必死に食らいつく。彼女はこれまで蛆喰いを相手に生き延び、絶望的な光景を見てなお、ここまで辿り着いた。もう後には引けない。

やがて、管が開けた。そこは心臓腔とでも呼ぶべき、脈打つ巨大な空間だった。中央には脈動する肉塊が浮遊し、そこから幾筋もの光が放たれている。その光は空間内を駆け巡り、壁面に埋め込まれた水晶体へ吸い込まれていく。水晶体が外界への情報伝達の末端かもしれない。

エシュは黒い肉塊こそが核だと直感する。それはひどく不安定で、周囲に亀裂のような閃光が走っている。外界から流れ込む邪悪な思念が、そこを通じて都市へ注がれているのだろう。

「…あれを壊せば……いいのね……」
リセは肩で息をしながらナイフを握る。だが、どうやって壊す? ナイフで切る程度で破壊できるのか? それともエシュの左眼が何らかの力を持っているのか。

そのとき、肉塊から無数の触手が伸び、二人を狙う。触手は鞭のようにしなり、骨の刃が生えた先端で斬りかかってくる。リセは悲鳴を上げながら跳躍し、エシュはかろうじて身を捻って回避する。

「やはり守りがいるのか! リセ、触手を引き付けてくれ!」
エシュが叫ぶ。リセは舌打ちしながら、触手を挑発するように攻撃を仕掛ける。ナイフで切り裂くと、膿汁が飛び散り、触手が一瞬怯む。その隙にエシュは肉塊へ近づこうとするが、足元からも細い触手が生え、踝に絡み付く。

「くっ……離せ!」
エシュは必死で触手を引き剥がそうとする。粘着質な繊毛に苦戦する中、リセが軽業師のような動きで触手を躱し、逆手で切り込んでいく。彼女は都市の狂気を生き抜いてきた戦士だ、その戦闘勘はこの極限状況で輝いていた。

しかし、触手の数は増え続ける。まるで都市全体の怨念が凝縮されているかのようだ。リセは背中を裂かれ、血が滲む。エシュも腕に深い傷を負い、息を乱す。

「エシュ……! 早く……っ!」
リセが苦痛の声を上げる。エシュは焦燥感に駆られながら肉塊を見つめる。核を壊さなければ、この地獄は永遠に続く。

左眼が疼く。エシュは痛みに耐え、左眼を見開く。その視界には、肉塊の内部に歪な水晶片が埋まっているのが見えた。それが多分、外界との接点となるコアだ。あれを引き抜くか、破壊すればいいのかもしれない。

エシュは触手に絡まれた足を必死に引き抜き、前進する。触手が上から振り下ろされ、彼の頭蓋を砕こうとした瞬間、リセが身を挺してその触手を掴み、ナイフで根元を叩き切った。

「行け、エシュ! あれを壊して!」
リセの叫びが心臓腔に響く。エシュは迷わず肉塊へ飛び込んだ。粘度の高い液体が彼の服を溶かし、皮膚に焼き付くような感覚。だが構わない、ここでやらなきゃ全てが無意味だ。

内部は狭く、激しい鼓動が頭蓋を揺らす。水晶片は闇に浮かぶ孤島のように輝いている。エシュは両手でそれを掴む。熱い! 皮膚が焼けるような痛みが走るが、歯を食いしばる。ここで叫んでも意味はない。引き抜けば全てが終わる。都市が滅びるかもしれないが、この狂気の輪廻を断つには必要だ。

「うおおおおっ!」
エシュは絶叫しながら水晶片を引き抜く。瞬間、肉塊が悲鳴のような振動を放ち、外界への接点が断たれたことを告げるかのように眩い光を放つ。触手が狂ったように暴れ出し、エシュは吹き飛ばされる。

心臓腔の壁が崩れ始め、管が断裂する。リセは流れ込んでくる膿汁を避けながらエシュに駆け寄る。エシュは水晶片を握りしめ、腕を溶かされながらもそれを砕き、水晶の破片を床へ撒き散らす。

「やったのね……エシュ」
リセは泣き笑いの表情で、傷だらけのエシュを抱きしめる。周囲が崩落し、鼓動が狂い、母胎が断末魔の喘ぎを上げている。外界との接点を失った母胎は、もう生き延びることはできないだろう。都市は崩壊する。二人も助からないかもしれない。

「リセ……ごめん……こんな結末しか選べなかった……」
エシュは血を吐き出しながら言う。リセは首を振る。
「いいのよ、これでいい……あんな地獄が永遠に続くより、ここで終わらせてしまえば……誰かが、何かが、新しい一歩を踏み出せるかもしれない……」

二人は崩れる心臓腔の中、出口を求めるが、全てが変形し、液体が逆流している。脱出は困難だ。肉塊がバラバラに裂け、水晶体の残骸が弾け飛ぶ。外界からの干渉が消え、膿夢の流れも狂い果てた今、都市という生体機構は自壊を始めている。

振り返れば、母胎は遠くで断末魔を放ち、黒い塊が霧散している。そこには痛々しいほどの静寂が広がる。衝撃波が走り、エシュとリセは押し流される。血と膿と粉塵のカクテルが彼らを包み込み、視界が赤黒く染まる。


【第九章:崩壊する都市、揺れる影】

母胎の核が壊されたことで、都市全体が悲鳴を上げ始めていた。地上では、統轄府のビルが次々と崩れ、膿夢に侵された市民たちは膝を折って嘔吐し、蛆喰いたちは狂ったように走り回る。空を覆うガラス天蓋は大きな亀裂を生み、灰色の光が漏れ始めている。外界から隔絶されたはずの都市に、滅びが訪れている。

地下深く、エシュとリセは命がけで瓦礫と膿汁の洪水から逃れようと必死になっていた。管が崩れ、骨格が砕け、返り血のような液体が噴出する。彼らはほとんど視界を失い、手探りで進むしかない。咳き込み、痛みに悲鳴を上げながら、それでも生きようとする本能が二人を駆り立てる。

「リセ、どっちへ……」
「わからない! でも上へ行くしかない……!」

リセは感覚だけを頼りに上方へ向かう通路を探す。奇跡的に、瓦礫の隙間から風が流れ込み、生温い空気だが外気に近い証拠かもしれない。エシュは左眼を開いても、もう何も視えない。混線した情報が闇に溺れている。

「もう左眼も役に立たない……でも俺はまだ生きてる、リセ、行くぞ!」
エシュは腕を噛まれた傷を抑え、血まみれの指を伸ばしてリセの手を握る。

二人はくぐもったトンネルを必死に這い上がる。途中、蛆喰いと化した兵士が瀕死の状態で横たわっていたが、もはや襲う気力もない。彼らもまた実験の犠牲者だったのか。リセは無言で通り過ぎる。感傷に浸る余裕はない。

やがて、崩落した瓦礫の隙間から薄い光が差し込んだ。それは地上を示す希望の光。二人は必死にその方向へ向かう。崩れかけた骨格を足場に、膿液で滑る繊毛を手で払い、何度も転倒しながら、ついに地上へと抜け出した。

地上は地獄絵図だった。高層ビルは半ば傾き、道路は裂け、膿夢に濁った空気が吹き荒れている。蛆喰いは錯乱して互いを噛み合い、統轄府の武装員たちは既にほとんどが倒壊した施設の下敷きか、逃走したのだろう。市民の姿はまばらで、皆が苦しみ、咳き込み、目から膿のような液を流している。

しかし、その中で奇妙な変化が起きていた。蛆喰いだった者たちが、次第に動きを止め、人間らしい呻き声を上げ始めている。外界からの邪悪な思念が断たれ、膿夢の発生源が死んだことで、蛆喰い化のプロセスが逆転しつつあるのかもしれない。激しい痙攣の後、蛆喰いが人間の姿へ戻りつつある光景も所々で見られた。

リセはその様子を見て目を見張る。
「エシュ、見て! あの男、さっきまで蛆喰いだったはずなのに……」
エシュが振り向くと、一人の男が膝をついて吐血していたが、その目には理性の光が戻っている。叫び声は混乱しているが、人間の言葉を取り戻している。

都市が死にかけている中で、人々の精神が戻り始める。しかし、建物も構造も、既に壊滅的だ。このままでは全てが崩落し、皆が瓦礫の下で潰えるだろう。だが、外界との接点を断ったことで、この都市はただの廃墟として静かに消滅するかもしれない。恐るべき蛆喰いの増殖は止まり、膿夢に支配された地獄絵図は消滅へ向かう。

「私たち、どうするの……このまま潰れて死ぬ?」
リセは苦笑いを浮かべる。選択した結果がこれだ。だが、奇妙なことにエシュは冷静だった。左眼はもう視えないが、頭痛や雑音は減り、静寂が戻っている。

「外界からの干渉が消えたってことは……もし天蓋が崩れたら、外に出られるかもしれない」
「外界があるとしたら、そこには何があるの?」
「分からない。でも、ここで腐った都市と一緒に消えるより、まだ望みがあるかもしれない」

リセは頷く。地平線の向こうに何があるか分からないが、外界への扉が開くなら行く価値がある。二人は瓦礫の山を越え、可能な限り高い位置へと向かう。崩れかけた高層ビルの残骸に登り、天蓋の亀裂から差し込む光を目指す。

道中、半ば正気を取り戻した元蛆喰いたちや市民が這いつくばっている。皆、困惑と苦痛の中にあった。リセはナイフを収め、彼らへ手を差し伸べる。
「立って、まだ終わりじゃないわ。ここから抜け出すのよ」

彼らは何が起きたか理解していない。だがリセとエシュの必死の呼びかけに応えて、数人が立ち上がる。彼らはまだ若い青年や女性もいて、以前は夢や希望があったに違いない。今、その希望は廃墟の中から掘り出さねばならない。

エシュが見上げると、巨大な天蓋がきしみ、亀裂がさらに広がっている。外界とは何か? 母胎は外界からの思念を受けていたと言った。もし外界が冷酷な管理者で、再び彼らを実験台にするならどうする? だが、それでも挑まなければならない。ここで朽ち果てるより、外へ出て問い質すのだ。この世界は何なのか、なぜ人々を苦しめるのか、と。

かつて死んだ目をした男が、今はリセの肩を借りて歩いている。女は子供を抱き、子供はまだ意識を失っているが生きている。エシュは痛む左眼を抑えながら、ビルの残骸を登る。瓦礫が崩れる度に、心が折れそうになるが、もうやめられない。

天蓋は最後の抵抗を見せるように発光し、粘着質な膜が引き裂かれる。乾いた空気が流れ込み、人々は目を細める。初めて感じる空気だ。外界の匂いが混ざっている。何が待つか分からないが、都市はもう死につつある。後には何も残らない。

「ほら、あそこから外に出られるかもしれない!」
リセが指差す。その先には巨大な裂け目が生まれ、何か遠くに地平線めいた影が見える。光が差し込むその先、廃墟に埋もれた人々の行く手が開けるかもしれない。

エシュは叫ぶように言う。
「みんな、こっちだ! 外へ出よう! もう膿夢も蛆喰いもいない! あの腐った母胎は死んだんだ!」

人々は半信半疑だが、希望に縋るしかない。ぞろぞろと残された生存者が瓦礫を登り始める。崩壊は加速するが、一瞬でも外へ抜けられれば、何かが変わるかもしれない。都市の培養システムは機能停止し、膿夢の絶対支配は消えた。


【第十章:外界への旅立ち】

亀裂から漏れる光は淡く冷たい。今まで見たことのない質感の光だった。エシュとリセは生存者数名と共に、崩れた天蓋の縁へと辿り着いた。下方には崩壊する都市がある。ビルは倒れ、路上には瓦礫と死体、血痕、未だ息絶えたばかりの蛆喰いの残骸。だが、膿夢は薄れ、人々は苦痛の中でも正気を取り戻しつつあった。

「見て、エシュ」
リセは裂け目の先を指差す。そこには荒涼とした大地が広がっていた。砂漠のような、不毛な土地。岩の裂け目や枯れ木が散在し、遠くには奇妙な構造物らしき影が見える。都市を囲んでいたのは、この荒野だったのだ。外界とは豊かな世界ではなく、むしろさらに過酷な環境が待っているように見えた。

「これが外界……?」
エシュは失望とも驚愕ともつかない感情を覚える。もしここが外界なら、なぜ都市をこんな惨劇の舞台に仕立てたのか。誰が何のために? 疑問は尽きないが、もう母胎も外界への回線も断たれている。答えを得るには実際にそこへ足を踏み入れるしかない。

「出ましょう。ここにいても都市は崩れるだけ。私たちは新しい場所で生きるのよ」
リセは笑みを浮かべる。その笑みは苦痛と疲労に彩られているが、わずかな希望も感じさせる。エシュは頷き、血まみれの腕で彼女の手を取る。

生存者たちは半数ほどが付いてくる。中には歩けない者もいるが、協力して運ぶ。都市の惨状は、逆に人間同士を結びつけるきっかけになりつつあった。かつては憎しみ、互いを踏みにじった者たちが、今は生き延びるために助け合っている。

一行は瓦礫を渡り、天蓋の亀裂を抜けて、外界の荒野へと踏み出す。乾いた風が吹き、砂が舞い、肌を刺す。都市内部の湿った腐臭から解放されたが、ここには別の過酷さがある。水や食料があるのか、敵性生物はいないのか、全てが未知だ。

だが、その未知の中に、膿夢のない未来が待ち得る。蛆喰いの狂気に怯えず、統轄府の支配に苦しまない日々があるかもしれない。多少の困難があっても、彼らは既に地獄を潜り抜けた。これ以上の地獄はないはずだ。

エシュは後ろを振り返る。崩壊する都市は、遠くで黒い塵を舞い上げていた。骨格のような構造物が折れ、最後の悲鳴を上げている。母胎は内部で滅び、膿夢は絶たれた。
「さよなら、腐った都市……俺はお前が何だったのか、最後まで分からなかった。でも、もうそれでいい。俺たちは前に進む」

リセは肩を並べて歩く。その腕にはもう紋様の輝きはない。だが、彼女自身が一つの光となって、エシュと共に歩み続ける。二人はずぶ濡れになった靴を引きずりながら、乾いた砂地を踏みしめる。その足音は、かすかながら確かに未来へ続くリズムを刻んでいた。

生存者の中に幼い子がいた。ぐったりしているが、生きている。その子が目を覚まし、新しい世界を見たとき、膿夢ではなく、もっと素朴な現実が広がっていることを知るだろう。苦しいかもしれないが、狂気ではない。自分で道を選べる自由が、そこに生まれつつある。

風が砂を巻き上げ、視界を曇らせる。エシュはリセの手を強く握りしめる。二人であれば大丈夫だ。いくつもの死線を越え、母胎を破壊し、運命を切り開いた二人だ。何が待っていようと、立ち向かえるだろう。

「リセ、ありがとう。お前がいなかったら、俺は途中でくじけてた」
エシュが呟くと、リセは笑う。
「馬鹿ね、私もあなたがいなきゃここまで来られなかったわ。これからも一緒よ」

二人の後ろを、生存者たちが続く。皆、無言だが、目には一縷の希望が宿っている。外界がどんな場所でも、膿夢に侵された狂気の実験場よりはましだ。ここからが本当の生存競争だが、それは少なくとも人間として戦える戦場だ。

青空は見えない。灰色の空気と砂塵に覆われている。しかし、どこかで雲が晴れれば、陽光が射すかもしれない。膿夢のない現実に、正気を取り戻した人々が集い、都市なき大地で新たなコミュニティを築く可能性はゼロではない。

遠くで何かが轟く音がした。都市の最後の崩壊か、それとも外界に存在する別の勢力か。分からない。だが、エシュは立ち止まらない。
「行こう、リセ。もっと遠くへ。安全な場所を探そう」

彼女は頷く。それだけで十分だった。言葉は不要、共に歩む意思があればいい。

彼らはもう、膿む都市には戻らない。血と膿と夢が渦巻く地獄から抜け出し、未知の世界で新たな物語を紡ぐ。その物語が再び破滅に向かうか、あるいは希望を育むかは、誰にも分からない。だが、彼らは今、自由を得た。それだけが、狂気の終焉を彩る唯一の救いだった。

(了) 全部で26,381文字


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