日本海沿岸のとある忘れられた村の記録(ホラー小説)
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【全体概要】
舞台は昭和初期、日本海に面した寒村「八鶴村」。主人公は都市部から派遣された文化人類学の若い研究者。村には古くから奇妙な伝承があり、海岸沿いの「鵬の岬」には奇怪な地形が広がる。村人は外部者に対して閉鎖的で、奇妙な風習が残る。やがて主人公は、黒ずんだ古文書「鵬鬼艦の書」を発見する。それは村の地下に潜む異形の存在、深海より呼び起こされる古代の神、そして人知を超えた災厄を暗示していた。
【第一章:八鶴村への旅立ち】
昭和十一年、晩夏の終わりに私は八鶴村(やつるむら)へ赴いた。東京の大学院で文化人類学を専攻する私に、指導教官が授けた任務は、「沿岸部に伝わる古来の民俗信仰を記録せよ」というものであった。大学から派遣される研究員は私が初めてではなく、かつて何人もの先達がこの辺りを訪れたと聞くが、満足な成果を持ち帰った例はほとんどない。どうやら地元の村人たちは極めて頑なで、外部者を嫌い、質問に答えることを避けるらしい。にもかかわらず、私がこの地を志願したのは、海岸沿いの奇怪な岩礁や、奇妙な地名に惹かれたからだった。
八鶴村へ向かう列車は古ぼけた車両で、揺れが心地よいとは言いがたかった。窓の外には、だんだんと人里離れた風景が広がり、緑深い山々と、まばらな集落、そして鉛色の海が遠方に見え隠れする。私は膝上の鞄を開き、指導教官から渡された調査手引きを読み返した。そこには八鶴村の歴史的背景が簡略に記されている。
八鶴村は日本海に面した寒村で、漁業とわずかな農業で生計を立てている。古くは近隣の諸集落との交流があったが、明治維新後に次第に閉鎖的となり、近年ではほとんど外部との接触を絶っているようだった。特筆すべきは村に伝わる「鵬鬼艦(ほうきかん)」の伝説。これは大昔、海底から現れた巨大な「船」にまつわる奇怪な神話的存在らしい。だが、この伝説に関しては詳細な記録が残っておらず、わずかに地元の老人達が口伝する程度だという。
列車が終着駅に着くころには、日暮れが迫っていた。駅から先は汽車の通じない細道をバスで移動し、その後徒歩で村へ入る。バス停には古びた看板と、険しい顔をした中年の男が一人いた。私が村の名を告げると、その男は嫌悪を隠そうともせず、重い沈黙の末にバスを動かした。
車窓から見える景色は徐々に荒涼としていく。木々は風にあおられ、道端の石碑には読めぬ古字が刻まれていた。夜気は冷え、遠くから聞こえる波の音が不穏な低いうなりのように響く。私は奇妙な胸騒ぎを感じながら、薄暗いランプの下、地図を見直した。村は海岸沿いの岬近くにあるはずだ。岬の名は「鵬の岬(おおとりのみさき)」。大洋に突き出るその岩の形状は鳥の巨躯を思わせるという。書かれた説明には、鵬の岬の先端付近に不自然な石造りの祭壇があり、村人はそれを「鵬鬼艦壇(ほうきかんだん)」と呼び、定期的な儀式を行うというが、記録は乏しい。
バスが止まると、そこには小さな集落が見えた。商店らしき建物は閉ざされており、瓦屋根の家々はまるで目を伏せるように静まり返っている。私は運転手に礼を言ったが、彼はそっぽを向いたままだった。その態度は村の人間関係を暗示しているのかもしれない。
人通りのない路地を提灯の明かりで照らしながら、私は宿を探した。事前に教授が手配したはずの民宿が一軒あると聞いていたが、表札すら視認できない。道中で出会った老婆に尋ねると、無言で指を一本、北のほうへさした。指し示された先には、ひどく古ぼけた建物があり、その縁側に明かりがともっていた。
宿の女将は無口だったが、私が研究者であり、数日から数週間の滞在を望むと伝えると、困惑しながらもうなずいた。客間へ案内されると、畳敷きの小部屋が一つあるだけだった。窓からはかすかな潮の匂いと、遠くで鳴く鳥のような不気味な声が聞こえる。それはカモメやトンビとは違う、もっと低く粘り気のある唸りに近いもので、私の神経をじわりと逆撫でする。
その夜、私は旅の疲れからか、いつの間にか眠りに落ちた。夢の中で、私は巨大な黒い船のような影を見た。船体は腐り落ちた木材でできているように見え、船首には怪物めいた鳥の頭部が刻まれている。波打ち際でその船がゆっくりと軋むように揺れ、深海から響く何者かの声が私を呼ぶ。目が覚めると、夜明け前であり、外からは潮騒と風の音だけが聞こえた。
これが八鶴村での最初の夜であった。私は不吉な予感を抱えながら、明日以降の調査に備えた。
【第二章:村の沈黙と奇妙な伝承】
翌朝、私は早くから村を歩いた。晴れてはいるが薄い雲が海上を覆い、光は鈍く冷たい。村人たちは私の存在をあからさまに忌避しているようで、挨拶をしても視線をそらし、訝しげな表情を浮かべる。ある老人に鵬鬼艦について尋ねようとしたが、彼はぶるぶると首を振り、小走りで去ってしまった。村には若者もいるようだが、彼らは私を見つけると低い声で囁き合い、路地裏へと姿を隠す。
民俗資料を集めるため、私は村の中心部らしき場所に足を運んだ。そこには小さな神社があり、苔むした鳥居の向こうに拝殿がある。だが、不思議なことに神社は荒れ果て、供え物もない。村の氏神を祀る場とは思えぬ冷たさだった。拝殿の扉には奇妙な刻印があり、それは尾の長い鳥と、船のようなシルエットが重なり合う紋様に見えた。その紋様をじっと見つめていると、視界が歪み、頭がクラクラとする。私は慌てて視線をそらした。
村外れの小屋に住むという古老が、かつては口伝に詳しかったと地図にメモがあったので、私はそこへ向かった。道すがら、海岸線を見下ろせる崖沿いの小道を通る。遠くには鵬の岬が突き出している。その形状は確かに巨大な鳥が翼を広げたようで、私の脳裏に昨夜の夢で見た船首の怪鳥が重なる。海はどこまでも暗く、波間には緑がかった藻が揺れ、その下に何かが潜んでいるような圧迫感がある。
古老の家は荒れ、軒先には干からびた魚の骨らしきものが吊るされている。扉を叩くと、奥からか細い声がした。中に入ると、陰気な室内には古びた屏風や書物が散乱している。古老は床に胡坐をかき、空洞のような眼で私を見上げた。
「鵬鬼艦を知りたいか…」
彼の声は潮風で錆びた鉄のようにかすれていた。私は頷き、ノートを開く。古老はしばらく沈黙した後、低く呟いた。
「昔、この村の者は、海底から浮かび上がる巨大な船を崇めたという。その船には鳥の頭を持つ怪物たちが棲んでおり、彼らは深海の神々の使いだった…」
私は思わず身を乗り出した。
「深海の神々?それは一体…」
「名など口にすれば、目も舌も引き抜かれると昔から言われとる。だが、一冊の書があるそうじゃ。鵬鬼艦の由来や、その背後に潜む神々の真相を書き記した書物がな…」
古老は「鵬鬼艦の書」と呼ばれる古文書の存在をほのめかした。それは村に代々伝わる秘録で、海底の神々に関する禁断の真実が記されているらしい。しかし、それを手にした者は皆、正気を失い、あるいは海へ身を投げたと言われる。
「その書はどこに…?」
私が問うと、古老は笑った。その笑いは咳に転じ、彼は苦しげに喉を鳴らした。
「知らん…わしが知るのはここまでだ。あとは鵬の岬を歩いてみるがよい…あそこには今も夜な夜な声が響くという…人ならざる者の唄がな…」
仕方なく私は古老に礼を述べ、外に出た。午後の日差しは弱々しく、潮気を含んだ風が頬を刺す。村は相変わらず沈黙し、空には黒い鳥が一羽、低く旋回していた。その鳥は奇妙な鳴き声を発し、私を嘲笑うかのようだった。
宿へ戻る途中、私は路地で一人の若い男と目が合った。彼は他の村人と違い、妙な光をその瞳に宿していた。私は思いきって話しかけてみる。
「鵬鬼艦の書について、何か知りませんか?」
男は一瞬躊躇したが、私を観察するように目を細め、低い声で言った。
「その名を口にするな…やつらが聞いている…。だが、もし本気で知りたいのなら、夜明け前に鵬の岬へ来い。そうすれば、何か見えるかもしれん…ただし、後戻りはできんぞ。」
そう言い残すと、男はすばやく姿を消した。
夜、宿の部屋で私は悩んだ。鵬の岬へ行くべきか。あの男は本当に何かを知っているのか。それとも罠か。私は古老の話を思い返す。深海の神々、鳥頭の怪物、その船…脳裏にちらつく異様なイメージに胸が高鳴り、不安と好奇心が入り混じる。
眠りにつくと、また奇妙な夢を見た。今度は黒い船の甲板で、鳥の顔をした人型生物が、奇妙な音律で詠唱している。その音は耳障りで、意味不明な言語だが、脳髄に直接響いてくるような感覚があった。背後には冷たく光る海が広がり、その海中で巨大な輪郭がうごめいている。目覚めたとき、汗が背中を濡らし、心臓が激しく脈打っていた。
翌朝、私は決めた。夜明け前に鵬の岬へ行く。何が起ころうとも、この謎を解き明かしたいという衝動が、私を駆り立てていた。
【第三章:鵬の岬での邂逅】
闇夜が村を包む中、私は宿を抜け出した。夜明け前の空気は凍えるほど冷たく、足元の砂利がかすかな音を立てる。懐中電灯の弱い光を頼りに、私は岬へ向かった。途中、人気はなく、遠くで犬のような鳴き声がする。だが、この村には犬を飼う者がいないと聞いた。ではあの声は何なのか。
岬への道は岩壁に沿って続いており、足を踏み外せば海へ真っ逆さまだ。波頭が黒くうねり、白い泡が月明かりに浮かび上がる。風は奇妙な音を伴い、まるで何者かが耳元で囁いているかのようだ。「戻れ…戻れ…」とでもいうように。
やがて岬の先端が見える頃、私は薄暗い光の中に人影を認めた。昨日の若い男がそこに立ち、こちらを待っているかのようだ。彼は手を振り、声を潜めて言った。
「よく来たな…ここからはあまり声を出すな。あいつらが近い。」
私は彼に近づき、震える声で尋ねる。
「…あいつらとは?」
「海から来た連中だ。俺たちとは違う存在…。先祖が彼らを崇めたせいで、この村は呪われている。お前は鵬鬼艦の書を探しているんだろう?」
私は首肯する。男は険しい表情を浮かべ、海を見下ろした。
月が雲間に覗くと、奇妙な岩礁が露わになる。その岩は鳥の頭部を模したような形で、先端には平らな面があり、古い石碑のようなものが立っていた。そこに刻まれた記号は、私には読めない文字だった。男は懐から古い蝋燭を取り出し、火を灯す。その揺れる光の中で、石碑の表面に薄い苔が動くように見えた。
「この石碑は、鵬鬼艦の信仰を支えていた祭壇の一部らしい。夜明け前になると、彼らは海中から声を発することがある。そして、書はこの下の洞窟にあると伝えられているんだ。」
洞窟?私は初耳だった。男は石碑の裏手へ回り、苔むした岩肌をなぞる。すると、岩の隙間から冷たく湿った風が吹き出し、細い裂け目が闇の中に口を開いているのがわかった。
「ここから下に降りることができる。だが、戻って来られる保証はないぞ。」
男の声には揺らぎがあり、彼自身も恐怖を抑えているのが分かった。私はごくりと唾を飲み込み、懐中電灯を握り直す。
岩壁の隙間は狭く、私たちは身をかがめて進んだ。内部は滑りやすく、滴る海水が靴音をかき消す。やがて地下へと続く急な斜面が現れ、私たちは慎重に降りる。懐中電灯の光は湿った岩肌を照らし、奇妙な貝殻や骨の欠片が見える。信じられないが、ここはかつて人々が儀式を行った場所なのか。
やがて、広い空間に出た。潮の匂いと腐臭が混ざった不快な空気が鼻を突く。男が蝋燭を高く掲げると、洞窟の壁面には奇妙な壁画が描かれていた。そこには巨大な船のような形があり、その甲板には鳥頭の生物が並んでいる。彼らは両腕を広げ、足元には溺れた人間たちが描かれていた。船の下には触手のようなものがのたうち、深海を表すような青い塗料がかすかに残っている。
「これが鵬鬼艦だ…」
男は震える声で呟く。そのとき、洞窟の奥からかすかな音が聞こえた。それは軋むような呼吸音、あるいは遠くで何かが擦れ合う不吉な響きだった。私は全身を硬直させ、洞窟の闇を睨む。
突然、男が私の袖を引く。彼は壁際に置かれた古い箱を指さした。箱は湿気で膨らみ、蓋が半ば外れかけている。その中には巻物のようなものが見えた。
「あれが…書かもしれない。」
私は慎重に近づく。箱の中には黒ずんだ古文書があり、それを手に取ると生臭い匂いが手に付いた。紙は古い和紙に酷似しているが、文字は奇妙な文様が混ざり、まるで暗号のようだ。
その瞬間、奥の闇が動いた。何かがそこにいる。私たちに気づいたのか、低くうめくような音が響く。その音には明確な敵意と不快な生気があった。男は顔を青ざめ、私の腕を掴む。
「早く逃げろ!あいつらが来る!」
私たちは洞窟を駆け上がった。足下は滑り、岩角で手を切ったが、構っている場合ではない。後ろからは水音や、ぬめった皮膚が岩に擦れる音が迫る。何かが私たちを追っている!
隙間からようやく地上に這い出ると、もう夜明けの光がわずかに空を染め始めていた。男は息を切らしながら、私から古文書を奪うように手にしようとする。
「俺が預かる!お前には読めない!」
しかし、私は書を離さなかった。これは私の探し求めた真実の鍵だ。男は焦りと恐怖で目を血走らせたが、やがて諦めたように地面に膝をつく。
「くそ…お前、命が惜しくないのか?あれを読めば、お前は正気ではいられないぞ…」
私は答えず、ただ書を胸に抱いた。男は苛立ちと絶望が入り混じった表情で立ち上がる。
「もう村には戻らないほうがいい…。俺はここでお別れだ。もう関わりたくない。」
そう言い残して、男は岬の裏手へ回り、岩陰へと消えた。
残された私は、まだ震える手で古文書を抱え、朝焼けの冷たい風を受けていた。海からは低いうなりが聞こえ、まるで深きものどもが嘲笑しているかのようだった。
【第四章:鵬鬼艦の書】
宿へ帰る道中、私は自分が何を手にしてしまったのかを思い悩んでいた。鵬鬼艦の書—それはこの村の禁忌であり、深海の神秘を記した悪しき文書なのだろうか。私は民宿の小さな部屋に戻ると、座卓の上にランプをともし、古文書を丁寧に広げた。
文字は和漢混淆の崩し字に加え、奇怪な記号が散在する。言語学的に未知の体系だ。だが、ページを捲るにつれ、私はある種のパターンを読み取った。古文書には二種類の文字が記されているようで、一つは比較的日本古来の文脈に近いもの、もう一つは未知なる象形的な記号。両者は交互に現れ、まるで二声対位法のように奇妙な調和を成している。
私は大学で古文書や古代文字を解読した経験を持つ。同時に、民俗学的伝承に通じた知識もある。慎重に文脈を追ううち、少しずつ意味が浮かび上がり始めた。
書にはこうある。「かつて、海底より黒き艦(ふね)が浮かび、その甲板には鵬の首を持つ異形の眷属が乗り込んでいた。彼らは地上の人間に自らを崇めさせ、生け贄を海へ投じさせた。深海には名状しがたき神々がいて、その神々は人知を超えた叡智と狂気を併せ持っている。鵬鬼艦はその使者であり、人間を操り、海底の門を開こうとしている…」
さらに読み進めると、記録者とおぼしき人物が、村の古老から聞いた伝承を綴っている箇所があった。その筆致は徐々に狂気を帯び、筆跡が乱れ、最後には不可解な記号が乱舞していた。
そこには、鵬鬼艦を呼び出す儀式の詳細が記されていた。月が特定の位相を示す夜、鵬の岬の壇で特定の詠唱を行い、生け贄を海へ投じることで、あの艦が再び浮上するという。その艦の出現は、深海より古代の神を呼び起こし、世界の秩序を乱す。記録者は最後にこう書いていた。「その艦は我々の理解を凌駕し、その甲板には嘲る鳥頭のものたちが群れをなす。あれを見たが最後、正気を保つことはできない。願わくば、この書が封じられんことを…」
私は背筋が寒くなり、書を閉じた。これが真実なら、村の伝承は単なる言い伝えではなく、実際に過去に行われてきた儀式であり、今もその名残がこの寒村を支配しているということになる。あの洞窟で感じた存在、追いかけてきたもの…あれは船の眷属だったのか?
その夜、私は再び奇妙な夢に苛まれた。巨大な黒い船が暗い海面に浮かび、甲板で鳥頭の生物が低い声で詠唱している。彼らは私を見つめ、その目は人間の知性とは無縁の、冷徹で残酷な光を帯びていた。船の船底からは触手が伸び、溺れた死者の屍が揺らめく。私は叫び声を上げて目覚めた。
朝になると、私は再び村を歩いた。しかし、村人たちの態度は以前にも増して険悪で、まるで私が禁忌に触れたことを知っているかのようだった。幾人かは低く唸り、ある者は石を投げてきた。宿の女将に至っては、陰鬱な目で私を睨み、早く村から出て行けという趣旨のことをほのめかした。
私は選択を迫られていた。ここに留まれば、さらなる危険が待ち受けるかもしれない。しかし、このままでは解明に至らない。私は鵬鬼艦の書をもっと深く解読したかった。だが、書には特殊な注釈があり、どうやらあの地下洞窟だけでなく、村の内側にも関連する文物があるらしい。
そこで私は村外れの神社へ再び赴いた。拝殿の扉をこじ開け、中を調べると、埃まみれの箱がいくつかあった。その中には古いお札や、怪異な紋様の刻まれた木片があり、その木片には鵬鬼艦書と同じ記号が描かれていた。おそらく、これらは過去に鵬鬼艦を祀るための祭具だったのだろう。
外へ出ると、どこからともなく複数の足音が聞こえてきた。村人だ。彼らは棒や石を手に、私を取り囲もうとしていた。私は慌てて裏手の林へ逃げ込んだ。背後で怒号が響き、追跡してくる気配がある。
林を抜け、何とか村裏の崖下まで逃れた頃、私は息を整え、深いため息をつく。このままでは身の危険があまりに大きい。だが、私はあの書を手放すことは考えられなかった。もし、このまま逃げ帰っても、頭に巣食った狂気じみた好奇心は収まらず、悪夢は続くだろう。
夕暮れ時、私は再び宿へ戻った。女将は顔をしかめ、もう出て行けと要求するが、私は金銭を倍払うと告げて、今夜だけ泊まることを懇願した。女将は舌打ちしながら渋々受け入れた。
部屋に戻り、私はランプを灯す。鵬鬼艦の書をもう一度開くと、最後の数ページに不可解な絵があった。それは海中に沈む巨大な門であり、その門の先に無数の眼と触手を持つ生物が描かれている。記録者はこれを「シキミヤ・アクル・ヘラ」と名付け、その存在を絶対に呼び出してはならぬと断じていた。鵬鬼艦はこの門を開く鍵であり、村人は代々、その儀式を継承してきたという。外部者を拒み、秘密を守るのは当然かもしれない。
外からは不穏なざわめきが聞こえる。村人たちが集まっているようだ。私はランプを消し、襖の隙間から外をうかがった。焚き火の明かりで、村人たちが集まり、何かの相談をしている。彼らは私の存在をすでに受け入れないだろう。
私は心を決めた。この書の秘密を突き止め、できれば証拠を持ち帰る。そして、こんな忌まわしい儀式が今でも行われているのなら、それを暴かなければならない。
【第五章:村人たちの陰謀】
真夜中、私は再び宿を抜け出した。村人が私を消そうとしている気配が濃厚だったからだ。暗闇に紛れて小道をたどり、岬の方へは行かず、村の中心部へ戻る。そこにはかつて市場だったらしい広場があり、今は打ち捨てられたように静まり返っている。
ところが、その広場の裏手に、奇妙な隠し扉を見つけた。古い板が立てかけられた倉庫の壁面に、不自然な継ぎ目がある。手で押すと、ぎい、と嫌な音を立てて開き、内部へ続く階段が闇に沈んでいた。私は懐中電灯を手に、思い切って地下へと降りた。
地下空間は意外なほど広かった。石造りの回廊が続き、壁には苔が生え、海水が滴る。軋むような音が反響し、私の足音さえ巨大な生物の息遣いのようだ。慎重に進むと、大きな空洞に出る。そこには粗末な祭壇が設けられ、周囲には朽ちた縄や仮面のようなものが散乱している。
仮面は鳥の顔を象っており、くちばしが長く、眼孔が不気味な形に切り抜かれている。いくつかの仮面は血痕のような染みを帯びている。ここは過去に生贄の儀式でも行った場なのだろうか。私はゾッとした。
さらに進むと、壁面にあの奇怪な文字が刻まれている。鵬鬼艦の書と同じ記号が幾何学的なパターンで配置され、中心には海の底を示す円形の図があった。その図は触手や目玉、鱗のような文様で縁取られ、見ていると目眩がする。
突然、背後で足音がした。私は慌てて身を隠すが、薄暗い灯りを手にした複数の村人が入ってくる。彼らは低い声で何か話している。
「…あの外来者め、鵬鬼艦の書を手に入れたらしい。」
「放っておけば儀式が台無しだ。次の満月には門を開かなければ、我々はあの方々からの加護を失う。」
「今夜、あの男を探し出して仕留める。書は取り戻さなくては。」
私は息を殺し、冷や汗をかく。やはり村人は私の抹殺を企んでいる。もうここに長く留まることは危険だ。しかし、これだけの証拠を見た以上、私は真実を世に伝えなければならないという使命感が湧く。
村人たちが回廊を移動する音を聞き、私は反対方向へ逃げた。狭い通路をくぐり抜け、階段を上ると、別の出口へ出たらしく、夜空が見えた。そこは村外れの崖下へと続く小さな洞穴の口だった。海風が吹き付け、私はその洞穴を這い出ると、荒れた岩場へ転がり出た。
星も月もほとんど見えない闇夜、私は荒い息を整えながら、どう動くべきか考える。村人は私を殺そうとしている。逃げ出すか?しかし、この村には不気味な力がある。もし鵬鬼艦が再び現れ、深海の門が開けば、恐ろしい災厄が世に放たれるかもしれない。
私は鵬鬼艦の書を再び取り出し、懐中電灯で細部を確かめた。書の後半部分には、艦を封じる手段らしき示唆があった。特定の詠唱と逆呪文を用い、海に捧げられた生贄を救い出すことで、門が再び閉じるらしい。だが、その方法は曖昧で、危険を伴うことは間違いない。
足音が近づく。村人が私を探している。私は物陰に隠れ、息を潜める。彼らの声が風に乗って聞こえた。
「ここにはいないか…早く探せ。夜明け前に片付けなければ。」
私は石を蹴らないよう慎重に身を伏せ、彼らが通り過ぎるのを待つ。
村の地図を頭に描く。ここから岬までは遠いが、あの祭壇こそが鍵ではないか。鵬鬼艦の書には、岬の壇で儀式が行われるとあった。もし私が先回りし、封印の手がかりを見つければ、この恐ろしい連鎖を断ち切れるのではないか。しかし成功の保証はない。
夜明けが近づき、空は僅かに紺色を帯びる。私は意を決し、できる限り静かに岩場を這い上がり、村の裏手を回って岬へと向かう道を辿り始めた。その間も、村人が遠くで松明を振り、私を探しているのが見える。私が逃げられないよう、村中が包囲網を敷いているようだった。
足元の岩が崩れかけ、私は何度か転倒しながらも前進する。懐中電灯が心もとない。潮風が強まり、海鳴りが胃の腑を揺るがす。まるで深海に潜む何かが、私たち人間の行為を嘲笑っているかのようだ。
やがて岬が近づく。私は鵬鬼艦の書を握りしめ、歯を食いしばる。何が待っているかはわからないが、後戻りはできない。深海の神々や鳥頭の眷属に対抗するすべは、これしかないように思えた。
ふと、背後で叫び声がした。
「あそこだ!あの外来者がいるぞ!」
見つかった!私は必死で走る。村人が追いかけてくる。彼らは声を張り上げ、何か獣じみた奇声を発している。人間とは思えないその声は、まるで船上の怪物たちを呼び覚ますかのようだ。
私は荒れた小道を駆け抜け、岬の先端へ飛び出す。そこには夜気に揺れる草木があり、不自然な石碑がそびえ立つ。鵬鬼艦の書に記されていた祭壇だ!私は石碑を手で拭い、そこに彫られた記号を確かめる。書にある封印の詠唱は、この記号と対応しているはずだ。
だが、息を整える間もなく、追っ手がすぐ背後まで迫っていた。
【第六章:狂気の儀式】
背後から荒々しい手が私の肩を掴む。振り返ると、そこには歪んだ表情の村人が棒を振りかぶっていた。私は身をよじってかわし、何とか石碑の向こう側へ転げる。周囲には4、5人の村人が取り囲んでいる。彼らは低い唸り声を上げ、獣じみた笑いを浮かべている。
「よそ者め、秘密を暴こうとしたな。書を返せ!」
「封印などさせるものか。門を開いて我らはあの方々の恩恵に浴するのだ。」
彼らの目は狂気で染まっていた。もう話し合いは通用しない。私は懐で書を護り、必死に言葉を探す。鵬鬼艦の書には、封印の逆詠唱があるはずだ。あの記号…あの呪文を唱えれば、彼らの企みを阻止できるかもしれない。
しかし、文字は難解で、すぐに覚えられるものではない。村人の一人が短刀を抜き、私は一瞬にして死の恐怖を感じた。ここで殺されれば、全てが終わる。大声を上げて助けを呼んでも、誰も来ないだろう。むしろ、それが村人を刺激するだけだ。
そのとき、奇妙な音が空気を裂いた。遠くの海上から、低く唸るような音が聞こえたのだ。まるで巨大な法螺貝を吹くような、不吉な響き。村人たちは動きを止め、互いに顔を見合わせた。その隙に、私は石碑の裏側に体を隠し、書を開く。
低い声で書に記された奇怪な詠唱を模倣する。意味はわからないが、音韻が脳裏に染みついてくる。舌がもつれ、頭痛が走る。目の前が歪み、世界が揺らめくような感覚に囚われる。だが、やめてはならない。私は続ける。
村人たちは私が何かを呟いているのに気づくと、激しく怒鳴り始めた。
「やめろ!何をしている!?」
彼らが詰め寄るが、その時、海が光を帯びたように揺らめく。岬の下で波が不自然に泡立ち、黒い影が揺らめく。まるで、海底から何かが浮上してくるかのように。
私は詠唱を続ける。書の文字は形を変え、鳥の爪痕や目玉の集合体のような図形に見える。私は半ば狂気に取り憑かれながら、声を震わせて古代の言葉を発する。無意味な音の羅列が、世界の隙間を抉るように響く。
突然、村人の一人が苦悶の声を上げて倒れた。彼の顔は青ざめ、目玉がひどく充血している。他の村人たちは恐れをなして後ずさる。
「呪いだ!あの書が奴を狂わせている!」
だが、私もまた正気ではいられない。頭痛は激化し、視界には奇妙な紋様がちらつく。海面には巨大な船影が浮かび上がるような錯覚を覚え、甲板上で鳥頭の怪物たちが私を嘲笑しているようだ。
私は必死に意識を繋ぎ止め、詠唱を最後までやり遂げようとする。そのとき、石碑に刻まれた文字が微かに光を放った。海霧が岬を包み込み、耳鳴りが轟く。まるで別の世界が入り込んできたような感覚だ。
「やめろ、やめろ!」
村人たちが一斉に襲いかかってきた。私は一人を足で蹴り、もう一人は懐中電灯で殴りつけたが、多勢に無勢だ。腕を掴まれ、書を奪われそうになる。私は必死で書を握り締める。爪が裂け、手から血が滲むが、それでも放さない。
その時、空気が裂けるような叫び声が響いた。海上から巨大な鳥の影が一瞬浮かび、それが波間に溶け込む。村人たちは叫びながら後退し、一人は膝をついて祈り始めた。
「来るな、来るな、ああ…あの艦が、艦が!」
彼らは錯乱状態に陥っている。私もまた幻視に囚われている。鵬鬼艦—黒い艦が海面に浮かび、その甲板から数多の鳥頭の生物がこちらを見下ろしているのが脳裏に焼きつく。彼らの声が私の耳を犯し、奇妙な言語で罵倒しているように感じる。
私は死力を尽くし、最後の句を唱えた。すると、石碑が砕けるような音がし、岬全体が揺らめいた。村人たちは悲鳴を上げて転げ落ち、私も衝撃で地面に倒れ込む。古文書が手元から滑り落ち、潮風がページを乱雑にめくる。
荒い呼吸を整えながら、私は身体を起こす。村人たちは散り散りに逃げ出している。空気は重く、海鳴りはなお続くが、先ほどの幻影は薄れつつある。私は石碑の破片を掴み、ぼんやりと海を見つめた。
まだ何かが足りないのか、海底に潜む神々は消えていないのか。私は立ち上がろうとするが、身体が鉛のように重い。頭痛は治まらず、吐き気を催す。書を拾い上げ、必死にそのページを確認するが、インクが滲み、文字が溶けて読めない箇所がある。
闇と冷気の中、私はうめき声を上げながら考える。封印はうまくいったのか、それとも中途半端なのか。村人が逃げ出した今、時間はあるが、私にはもう体力が残っていない。全身が震え、視線が定まらない。
遠くで鳥のような不吉な鳴き声が聞こえる。私はその音が実在のものなのか、幻聴なのか区別がつかなくなっていた。
【第七章:地下聖域への再訪】
私はしばらく茫然と岬に座り込み、夜明けの光が海面に薄青く差し込む頃、ようやく立ち上がった。身体は生傷だらけ、衣服も泥と血で汚れている。村はどうなっているのか確認しなければならないが、あの地下空間を再度調査する必要があると感じた。
なぜなら、封印を完成するにはもう一つの鍵があるような気がしてならなかった。書には逆呪文が記されていたが、それはあくまで第一段階だったのかもしれない。深海の門そのものを閉じるには、地下に隠された何かが必要だと直感した。
私は岬から引き返し、慎重に村に近づく。驚いたことに、村は静まり返っていた。通りには人影がなく、家々の戸は閉ざされている。まるで全住民が一斉に姿を消したかのような不気味な光景だ。
民宿に戻ると、女将はいなかった。荷物を回収し、ポケットに小さなナイフを忍ばせる。鵬鬼艦の書は汚れてしまったが、まだ読める部分はある。私は灯りを確保するため、ランプとマッチを持ち出し、再びあの隠し扉へ向かった。
広場裏の倉庫に入り、隠し扉を開けると、地下への階段がまた私を迎える。今回は村人の追跡はないようだ。彼らは幻影に怯えて散り散りになったのだろうか。それとも更なる儀式を別の場所で行っているのか。
地下回廊は相変わらず不気味だが、私はランプを掲げ、慎重に奥へ進む。昨夜来たときとは違い、より深いところへ進んでみることにした。回廊の隅には奇妙な骨が散乱し、床には塩水が溜まっている。その塩水は周期的に揺れ、まるで海と繋がっているようだ。
やがて、大きな扉が現れた。木製で、古びているが、中央に金属製の飾りがあり、それが鳥の頭の形をしている。私は息を呑む。これが深海の門に関係するのか?扉を押してもびくともしない。何か仕掛けが必要だ。
鵬鬼艦の書を開き、当該箇所を探す。ページをめくると、扉らしきものに関する記述がある。
「…木扉には鵬面の錠あり、その鍵は血潮と呪句。鵬鬼艦の同位相なる夜、巫女の血を以て錠を解くべし…」
巫女の血?そんなものはない。だが、血潮と呪句というくだりがある。私は昨夜使用した逆詠唱の一部を思い出し、傷ついた手のひらから血を滲ませ、扉の飾りに触れながら静かに呪句を唱える。
最初は何も起こらなかったが、しばらくすると扉が軋むような音を立て、ゆっくりと開いた。ランプの光が暗い空間を照らし出す。そこは驚くほど広大で、まるで地下大聖堂のような空間だった。
巨大な円柱が林立し、床は滑らかな石で舗装されている。その中央には台座があり、台座の上には黒い石板のようなものが鎮座している。石板には鵬鬼艦の書と同じ記号が刻まれ、何らかの重要な秘密の鍵であることは明らかだった。
私は台座に近づき、石板に触れる。冷たく、湿った感触が指先に伝わる。石板には中央に穴があり、そこへ何かを差し込むようになっている。鵬鬼艦の書をよく見ると、最後のページに棒状の鍵のような図が描かれていた。あれが必要なのか?
視線を巡らせると、祭壇の後方に小さな脇室がある。そこへ入ると、奇妙な金属製の細い棒が立てかけられていた。表面には海藻のような装飾があり、触れると甲高い音を立てる。これが鍵なのかもしれない。
鍵を石板の穴に差し込むと、微かな震動が足元に伝わる。大聖堂全体が低く唸り、遠くで水音が高まる。私は背後を振り返り、退路を確保しながら、次に何をすべきか考える。書には封印に関する句がまだあるはずだ。
書を開き、声に出して最後の詠唱を試みる。今度ははっきりと意識をもって唱える。意味不明な音が喉から飛び出し、空間に反響する。石板が青白く発光し、その輝きは円柱や天井の文様を浮かび上がらせる。そこには巨大な魚類、半人半魚の怪物、鳥の顔を持つ神々が描かれ、私の精神を揺さぶる。
頭痛と吐き気が再発し、意識が溶けるような感覚に襲われる。だが、ここで怯んではならない。私は最後まで呪句を響かせる。すると、石板は砕け、まばゆい光が大聖堂を満たした。
光の中で、私は奇妙な幻視を見る。深海底に沈む巨大な門が閉じ、それを囲む触手や眼球が苦悶するようにうごめく。そして黒い艦の幻影が消え、鳥頭の眷属たちが苦鳴を上げて四散する。封印が完成したのか?
光が収まると、大聖堂はひどく静かだった。石板は粉々に砕け、鍵も錆びたように変色している。私はふらふらと歩き出し、来た道を戻ろうとする。気がつくとランプの油がほとんど底をついている。長居は無用だ。
扉を再び抜け、回廊を辿って地上へ戻る。外は鈍い曇天の昼下がりだった。村は死んだように静かだ。数軒の家を覗いてみたが、誰もいない。まるで全員が夜のうちに逃げ出したようだ。
私は倒れた石碑がある岬へ行く。そこにはもう村人の姿もなく、不吉な鳥の鳴き声も聞こえない。海はただ冷たく、黙って揺れている。あの艦の幻影は消え、深海の神々は再び眠りについたのだろうか。
鵬鬼艦の書はボロボロで、もはや読めない。だが、私はこれを持ち帰り、大学で分析することができるかもしれない。しかし、この怪異な出来事を誰が信じるだろう。私自身、正気を保っていると言い切れるのか?
私は鞄に書をしまい、村を後にする決意を固めた。
【第八章:廃村の帰路】
荷物をまとめ、荒れた山道を抜け、私は村から遠ざかる。道中、静寂が続く。まるで世界が息を潜めているようだった。バス停へ戻る途中、私は奇妙な既視感に襲われた。この道は来たときと同じはずだが、景色が微妙に違う気がする。木々はより濁った色をしており、空気は生臭い。
やがてバス停に着くが、そこにはバスの時刻表もなく、壊れたベンチと朽ちた標識だけがある。困ったことに、交通手段がない。駅まで歩くとなると一日以上かかるだろう。だが、この不気味な土地に長居は無用だ。私は歩き始める。
山道を進むにつれ、脳裏には幻覚じみた残像が浮かんでは消える。鵬鬼艦の甲板、鳥頭の怪物たち、深海の門。私は幾度となく自分の顔を叩き、正気を保とうとした。風が吹くと、木立がざわめき、奇妙な囁きを耳元に運ぶ。「戻れ…戻れ…」そんな声が聞こえる気がする。
日の入りが近づく頃、私は山中で小さな廃屋を見つけた。屋根は落ち、壁は穴だらけだが、一晩を凌ぐ程度の雨風は防げそうだ。脚は重く、疲労で意識が朦朧としている。安全とは言いがたいが、仕方ない。私はそこに身を寄せる。
薄暗い廃屋の中、私は懐中電灯で周囲を照らす。古い家具と、朽ちた農具が散らばり、壁には黄ばんだ紙が貼られている。紙には読めぬ古字があり、鵬鬼艦書と似た記号がちらりと見える。それは偶然なのか、それともこの辺り一帯が何らかの影響下にあるのか?
夜の静寂が訪れ、私は身体を横たえる。疲労に勝てず、意識はすぐに朦朧とする。眠りに落ちると、再びあの艦の夢を見るかもしれない。それでも私は眠らざるを得ない。目を閉じると、すぐに悪夢が押し寄せた。
暗い海面、浮かぶ黒い艦、甲板で笑う鳥頭の影たち。だが、以前の夢とは違い、今回は艦が遠ざかっていくように見える。深海に引きずり込まれるように、黒い影は溶け、触手と眼球は泡と化して消えていく。甲板上の怪物たちは叫び声を上げ、虚空に消える。
目が覚めると、早朝の光が差し込んでいた。私は額の汗を拭い、深呼吸する。悪夢はまだ残像を残しているが、以前ほど鮮明ではない。あの艦は本当に封じられたのだろうか。
廃屋を出て、歩みを再開する。腹は減っているが、食べ物はほとんどない。水も限られている。山を越え、麓の町に出れば、きっと鉄道に乗れるはずだ。私はひたすら歩く。頭の中では、大学に戻った後のことを考える。あの書を研究室に持ち込み、教授に見せ、報告書をまとめる。だが、教授や同僚たちはこの奇怪な体験を信じるだろうか。
足を引きずりながら進むと、やがて舗装路に出た。電柱や標識が見え、文明の気配が感じられる。私は安堵のため息をつく。ここから先は人里があるはずだ。
しばらく進むと、小さな集落に差し掛かる。人影があり、農夫が畑を耕している。私は近づき、道を尋ねた。農夫は怪訝な顔をしたが、丁寧に答えてくれた。どうやらここは隣県との県境近くらしい。八鶴村の方向を示すと、農夫は首を傾げる。
「その名前は聞いたことがないが、あっち側は人里離れてて、昔から空き地ばかりだよ。」
私は困惑する。八鶴村は実在した。私はそこに滞在し、怪異を体験したのに。この農夫はただ知らないだけなのか、それとも何らかの歪みが起こったのか。私は追及する気力がなく、お礼を言ってその場を去った。
このとき、私は薄ら寒い予感を抱く。八鶴村は現実なのか夢なのか。あの書は鞄の中にあるから、全てが幻であるとは思えない。あの書こそが現実性を証明する鍵だ。しかし、それは今や文字が滲み、読めない部分が多い古文書に過ぎない。世間ではただの古い怪談噺か偽書とみなされるかもしれない。
私はそれでも、大学へ戻り、できる限りの検証を行うつもりだ。もしこの世界の深層にあのような恐るべき存在が潜んでいるなら、それは学問的にも重大な発見だ。恐ろしく、狂気に誘う存在だが、記録を残さねば、また誰かがあの村へ足を踏み入れ、同じ悲劇を繰り返すかもしれない。
夕暮れ前にはどうにか鉄道駅にたどり着いた。駅員に東京行きの切符を求めると、彼は怪訝そうに私の身なりを見た。泥だらけの服とやつれた顔。私は大雑把に、山中で道に迷ったと言い訳しておく。怪訝な視線はあるが、深く追求されることはなかった。
列車に乗り、窓ガラスに映る自分の顔を見つめる。そこには憔悴した研究者がいる。私は鞄を握り、微かに震える手で中にある書を確かめる。ひどい悪臭が染みついているが、これは私が体験した全ての証拠なのだ。
列車が出発し、レールの響きが規則正しく耳を打つ。私は車窓に流れる風景を見つめながら、あの黒い艦と鳥頭の怪物たちが本当に封じられたのだろうか、と思いを馳せる。
【第九章:学問的探求と不信】
東京に戻った私は、まず教授に面会した。教授は私が行方不明になったことを気にかけていたようで、姿を見せると驚きながらも安堵してくれた。しかし、私が八鶴村での出来事を話し始めると、その表情は徐々に曇っていった。
「それは奇妙だね…。八鶴村という地名は地図にも記録にも見当たらないんだよ。」
教授は地図帳や郷土史資料をめくりながら首を傾げる。私は愕然とした。あれほどはっきりと存在した村が、一体なぜどの資料にもないのか。私は鵬鬼艦の書を教授に見せた。
教授は書を手に取り、怪訝な顔でページをめくる。
「この文字は見たことがない…。しかし、紙質はそれほど古くないな。まるで最近模造したような質感だ。」
私は言葉を失う。あれほど朽ちた古文書に見えたのに、今や教授の目には偽書にしか映らないらしい。独特の悪臭は確かにするが、それが証拠になるわけでもない。
同僚の研究者たちに見せても、首を捻るばかりだ。彼らは私が疲労とストレスで幻覚を見たか、あるいは悪質な冗談に巻き込まれたと考えているようだった。一人が言うには、「これは誰かが君をからかうために作った小道具ではないか」とのことだった。
私は憤然としたが、証拠が足りないのは事実だった。八鶴村での写真も撮っていない。村で拾った土産もない。鵬鬼艦の書だけが手元にあるが、それとて正体不明の怪文書としか判断できない。私が見た地獄絵図をどう説明したらいいのか。
日が経つにつれ、私は孤立した。教授は同情はするが、学問的証拠を求める立場上、私の話を鵜呑みにできない。私もまた、自分自身の精神状態を疑い始めていた。あの村人たち、洞窟、艦、鳥頭の眷属…全てが狂気の産物だったのか?
しかし、夜になると悪夢は再び私を襲った。黒い艦が完全に消え去ったわけではなく、その影がまだ私の心に巣食っているようだ。触手や眼球がちらつき、不意に寒気で飛び起きる。目が覚めれば大学の狭い寮室、しかし汗まみれで震えている自分がいる。
私は鵬鬼艦の書を懸命に分析した。確かに紙質は比較的新しく感じられるが、インクには奇妙な成分があるようだ。大学の化学分析室で極秘裏に少量のインクを調べてみたところ、未知の有機成分が含まれていると報告を受けた。これは一筋の光明だった。
だが、未知の成分だからといって、超自然的存在を証明するものではない。私の名誉は地に落ちつつあった。博士号取得を控えた私にとって、この事件は学問的信用を揺るがすものだった。教授は私にフィールドワークの疲れを癒すよう促し、しばらく静養することを勧めた。
私は葛藤した。このまま事件を闇に葬るべきなのか。あの深海の門と黒い艦は封じられたかもしれないが、再び呼び覚まされる可能性はないのか。誰かが再びあの土地に踏み入り、禁忌を犯せば、再度恐怖が甦るだろう。
そんなある日、私は書に記されたある記号が、実際に存在する古代文字体系の一部と類似していることに気づいた。それは南洋のとある島に残る失われた言語と似た文様で、そこには「深き者」「海底神殿」という意味を持つ文字が存在した。これを発見したとき、私は再び戦慄を覚える。
南洋の小島と日本海沿岸の寒村、何の接点もないはずなのに、共通する暗示的記号。これは偶然か?それとも、深海の底に眠る何者かを人類が断片的に共有しているということなのか。
私は少ない時間をやりくりして、資料をあさり、似た言語体系の痕跡を探した。だが、有力な手掛かりは得られなかった。時間が経つにつれ、私の情熱は空回りし、周囲の目は冷たくなるばかりだった。
結局、私は公的には「期待した成果は得られなかった」と報告し、八鶴村については触れないことにした。自分の名誉のためでもあるが、あの狂気を世間に知らしめて、私自身がさらなる嘲笑を受けるよりはましだ。封印はおそらく成功したと信じ、二度とあの地に足を踏み入れないことを誓った。
【第十章:終末の影】
それから数年が過ぎた。私は大学を出て、民俗学関連の研究機関で地道な仕事に就いている。あの八鶴村での体験は、今や私の中で半ば伝説と化し、本当にあったことなのか、ただの幻だったのか判断がつかない。鵬鬼艦の書は今も手元にあり、書棚の奥に封印している。
悪夢は以前よりは減ったが、それでも時折やってくる。夢の中で、黒い艦は遠くの水平線上に浮かび、鳥頭の者たちが私を呼ぶ。触手や眼球は見えず、ただじっと静観しているようだった。まるで時が来るのを待っているかのように。
ある日、研究所で古い新聞資料を閲覧していると、奇妙な記事に目が留まった。昭和初期、ある沿岸地域で謎の集落消失事件があったらしい。記録は断片的だが、そこでは「八鶴」の地名らしきものがかすかに示唆されていた。記事には「村が一夜にして消え、跡地には荒れ地が広がるのみ」とある。これを読んだとき、私の心臓は凍りついた。
やはり八鶴村は実在した。しかし、既に昭和初期に消滅していたというのか。では、私が訪れた八鶴村は何だったのか。時空を超えた幻影だったのか、それとも封印が解かれた時、一時的に現実化した魔境だったのか。想像を巡らせるほど、頭が痛む。
私は帰宅して書を取り出し、もう一度それを見つめる。以前は読めたはずの文字が、今ではほとんど理解できない。インクがさらに滲み、記号は混乱を極める。触れるたびに生臭い匂いが甦り、頭痛がぶり返す。
窓の外を見ると、冬の夕暮れが街を包み、紫色の雲が低く垂れ込めている。まるで海に沈む太陽が深海の門へと誘うかのようだ。私は震える手で書を紙袋に包み、物置の奥にしまい込む。二度と開くまい。
だが、その夜、再び夢を見た。今度は黒い艦がゆっくりと近づいてくる。鳥頭のものたちは声を発さず、ただ甲板から私を見下ろしている。艦の船底には巨大な門があり、その向こうには眼球と触手が渦巻いている。それらは私に合図するように蠢き、深海の闇へと消えていく。
目が覚めると、部屋は静寂に包まれていた。遠くで救急車のサイレンが鳴り、人々が暮らす現実の音が戻ってくる。私は額の汗をぬぐい、ため息をつく。あれらは封印されたはずだ、もう現世には顕現できないはずだ。
だが、本当にそうだろうか。封印は不完全だったかもしれない。あるいは、世界が私の知らぬところで再び歪み始めているのかもしれない。この恐怖は終わることなく、私を蝕み続けている。
私は学問的探求を捨て、ただ日常の中で生きることを選んだ。あの村も、あの艦も、深海の神々も、全て忘れることで平穏を得ようとした。だが、心の片隅には、いつか再びあの声が私を呼ぶのではないかという不安が抜けない。
通勤途中、雑踏の中でふと感じる。人々の足音や喧噪の背後に、微かに聞こえる低いうなり声。あれは潮騒か、それとも風の音か。そう、きっと気のせいだろう。しかし、私は立ち止まり、振り返る。群衆の向こう、ビルの谷間に、黒い影が一瞬揺らめいた気がした。
もう確かめる術はない。ただ日々を生き、闇に沈む真実を心に抱えながら、私はこの世界に適応してゆくしかない。狂気と正気の狭間で揺れながら、また一日が過ぎていく。いつか、世界が終わり、海底の門が完全に開く時、鵬鬼艦が再び浮上するのかもしれない。その時、私が何を思うか、今は知る由もない。
私はただ、沈黙の中で歩み続ける。
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