師走哀歌
・相変わらずの愚痴です。年の瀬にそんなもん読みたくねえよという方はUターンしてね。
二十年ほど前に亡くなった母方の祖母は十年もの間、寝たきりの状態で入院していた。
七十一歳の時に脳幹梗塞で倒れ、手術により一命を取り留めたものの、身体は動かせず言葉も発せなかった。
介護保険制度もまだなかった時代だ。
「老人病院」と言われる寝たきりになった老人ばかりを扱う病院が存在していて、手術した病院からそちらへ移った。
そこからまた違う病院へ変わり、そこで亡くなるまでの間を過ごした。
定期的にお見舞いに行っていたが、話せず、表情もない祖母が何を考えているのか分からなかった。
でも絶対に辛かったのは確かだ。
祖母の死後、五十代で脳出血を煩った母は、幸いにも軽い麻痺が残ったくらいで済んだのだが、祖母の姿を見ていたせいもあるのか、健康に気をつけるようになった。
しかし、それは健康になると宣伝されているサプリを飲んだり、ちょっと調子が悪いからと傍目からすると余りにも気軽な感じでMRIを撮りに行くと
いったものだった。
そして、今年。
母は自宅で転倒、骨折し、人工股関節置換術を受けたことで、ほぼ自力では歩けなくなった。
骨折以前も歩行器と杖に頼らなければ歩けなかったので、寝たきりになってしまうのではないかと心配していたが、なんとか自分で立ち上がって車椅子に乗り、移動したりは出来るようになった。
三ヶ月間、リハビリ病院で手厚い看護を受けたおかげである。
病状などによって違うのかもしれないが、母の場合、リハビリ病院でケアを受けられるのは三ヶ月間だとあらかじめ告げられていた。
若い人ならば一般病院からそのまま帰宅し、通院しながらリハビリするという流れなのだろうが、老人なので難しい。
三ヶ月というのは自宅で過ごせるような状態になる為のリハビリ期間である。
退院後をどうするかは、入院当初からの悩ましい問題だった。自宅に戻るのは厳しいと、私は最初から考えていた。
ただでさえギリギリの状態で暮らしていたのだ。
その中で転倒し、骨折した。
人工股関節は大腿骨に埋め込んであるので、その部分はどうしても弱くなり、再度転ぶとそこを骨折するご老人は多いらしい。
そうなると再手術は難しく、寝たきりになる可能性は高いですと医師から告げられた。
とにかく転ばないように気をつけて下さい。
医師は真面目な顔で母に告げていたが、通じているのかいないのかは、真横にいても分からなかった。
ぼけてはないはずだが、自分に都合の悪いことは届かないように出来ている耳だ。
リハビリ病院で母の治療に当たってくれていた若い療法士の先生方は、自宅に戻ることを前提に動いてくれていた。
本人が過ごす予定の自宅内の写真を撮って送ってくれと言われ、送ったりもした。
歩行器で移動出来るようにあれこれ片付けていたものの、小さな段差はどうしてもある。
スロープをつけたりもしたが、それでも歩行器で上がりにくいというので大工仕事を頼むしかないかと検討していた矢先の骨折騒ぎだった。
入院してから二ヶ月ほどが経った頃。
退院後の行き先を決める会議が開かれた。
病院のソーシャルワーカー、医師、療法士など、関係者一同が集まったところへ、療法士に付き添われた母が歩行器でよろよろ現れた。
見舞いに行く時はいつも車椅子で登場していたので(コロナ対策で別室での面会だった)歩行器を使う姿は手術後初めて見た。
療法士が二人がかりで見守り、頑張ってと声がけしている。
一歩を踏み出すのもやっとだ。
病院でリハビリ出来る期間はあと一ヶ月。
身内の目から見ると、その期間で更なる回復を見込めるとは思えなかった。
療法士は本人が移動する範囲…部屋から風呂場、トイレなどの間に手すりをつければ移動出来ると言ったが、全く現実的な案だとは思えなかった。
ていうか、転ぶ。
絶対にまた転ぶ。
既に対策は最大限に講じてあったのに転倒、骨折したのだ。
それも、あれほどケアマネさんや私から口酸っぱく言われていたのに、歩行器にロックをかけずにいて、立ち上がろうとして歩行器を頼ったところ、それが動いてすっころんだのだ。
老化して認知機能が~というのも多少はあるのだろうが、生来、横着者であるのが原因だと考えている。
一生懸命自宅へ戻そうと努力してくれている病院関係者には申し訳なかったが、私は車椅子での生活が難なく出来る施設への入所を希望した。
母はもちろん望んでいなかった。
誰だって家に帰りたい。
それは分かる。
理解も出来る。
でも、絶対転ぶし(施設にいたところで転ぶだろうが自宅よりは危険性が低いはずだ)今度は寝たきりだ。
今の状態を保つ…車椅子で移動し、トイレにも自分で行ける…ことを最優先にすべきである。
この先、違う理由で寝たきりになるかもしれないが、少しでもその期間が短い方がいいのではないか。
おばあちゃんみたいに寝たきりで動けない状態になるのは苦しいよ。
そんな私の言葉に、さすがの母も減らず口をたたかなかった。
こっちだってなんとか出来るものならしたいという思いはある。自宅でデイサービスを活用しながら暮らせないわけじゃない。
母より大変な状態でも自宅で過ごしている人は多い。
自宅で暮らした方が経費だって少なく済む。
だが。
積極的に母の世話をするつもりはない…そもそも自分が誰かの世話をするという考えのない…父と一緒にあの自宅で過ごしていたら、再び転ぶ。
私が実家に戻り、始終世話をするというのも現実的な案ではない。
ていうか、無理だ。
私だって私の暮らしがある。
転倒寝たきりだけは避けるべきだという強い意志のもと、私が、施設で過ごして貰うと決めた。
私が。
本当は決めたくなんかなかった。
悪者になるのが分かっているからだ。
母は娘に捨てられた施設に入れられたと吹聴するだろうし、叔母は面と向かっては非難しないだろうが施設に入れられて可哀想と母を哀れむだろうし(その声が私に届くように)、とにかく決めたやつが悪者だ。
悪人だ。
負け犬なのだ。
私に決めさせる前に自分で客観的判断をして選択してくれればよかったじゃないかと、私は思う。
自分のことだ。
母は状況的に(五十代で脳出血を患い、軽い麻痺があり、足腰が悪い)いずれ何らかの施設にお世話にならなくてはいけない可能性が高いのだから、自分でよさそうなところを探すように私も妹も前々から促していた。
けれど、母は施設なんかに入るつもりはない、入れるのはあんたたちだという姿勢でいた。
あくまでも他者に責任を持たせ、自分の責任を放棄していた。
これがまだ、本当に決められないような状態になっているのであれば、こちらも腹が立ったりはしなかった。
誰だって年老いるし、弱りもする。自分はもう無理だからお願いと頼まれれば無碍にしたりはしない。
けれど、減らず口だけは立派で、万事において自分は賢い偉いという上から目線なので、たちが悪い。
こちらが何を勧めても難癖をつけ、被害者づらを欠かさない。
ただのわがままだ。
機嫌を取って欲しいだけじゃないかと呆れ果て、血のつながりがある母と娘だからこそ、勝手にどうぞとなるわけだ。
どんなことも他責にしてしまえば楽だ。
何か問題が起きた際、決めたのは自分じゃない、悪いのはお前だと言い張れる。
けれど、自分のことだ。
空に吐いたつばは自分に落ちてくるとどうして分からないのか。
あいつのせいで。
あいつが悪い。
あいつのおかげで。
誰かを非難することで納得のいかない現実に折り合いをつけようとする人間がいるのは理解しているが、自分の母親がそれなのはきつい。
退院後の行き先を施設と決めてからソーシャルワーカーと行き先を探した。
入院中に介護度の再認定調査を受けたところ、介護度は変わらず要支援2のままだったので、入所出来る施設が限られていた。
やっとのことで立てる、という状態でも、立てているから「支援」である。
母が介護認定を受けたのは二年前、イレウスの手術をしてからで、要支援1から要支援2となり、デイサービスに通ったりしていたのだが、私はなんとなく「そうなんだー」的な受け取り方しかしておらず、介護保険制度というものをよく分かっていなかった。
介護度というのは要支援1.2から介護1~5までの区分がある。
介護5が一番重い感じだ。介護保険制度はめくるめく勢いで変わっているそうで、現在(2024年12月時点)の情報を元に書いていることを理解して貰いたい。過去とは違っていたり、未来には変更があったりするかもしれない。
ほんわか頭の私は介護度が重くなるほど、負担額は減るようにイメージしていた。
大変なんだから安くしてあげるねー的な。
実際は逆で介護度が重くなるほど負担額は増える。(この負担額というのはその個人の様々な状況によって違うことが多々あるし、調べるほどによく分からなくなるので、ここでは実際に自分の手元から出て行くお金として聞いて欲しい)
そりゃそうだ。
世話がかかるのだから人手もいる。
とにかく金だ。
金がないと話にならないのだな?
そう理解し、実家をひっくり返してどれだけの金があるのかを確認した。
今年は正月に実家で支出入についてのヒアリングを行った。
その際、ある程度の状況調査はしたのだが、母はとにかくごまかしたい一方で言葉を濁しまくるものだから、本当のところはどうなのか分かっていなかった。
私もひとの財布の中身について、余り突っ込んで聞くのもどうかという思いがあり、強く追及はせず、とにかく支出を押さえるように注意した。(しかし、その後も使いもしないフライパンセットやら掃除なんかしない癖になんでも落ちる洗剤×大量やらすぐ飽きるくせにふくらはぎをマッサージする器具やらをテレビショッピングしていたがな!)
実家は自営業だったので父も母も収入は国民年金(父はそれにプラス厚生年金)と退職金代わりにかけていた小規模企業共済からの給付金だ。
しかし、後者は年金ではないため、給付期限がある。(一括で貰う方法もあります)
その後は個人年金が下りてくるように生命保険会社の商品を購入してあった。
年金生活者の当然ではあるが、収入がないわけじゃないが十分ではない。
両親が会社を畳んだのは十二年ほど前のこと。
それから父は十年間、取引先だった会社に働きに行っていた。
十年の間、母は商売していた頃…つまり、収入が潤沢にあった現役の頃と変わらない生活を送っていた。
退職者にしては大盤振る舞いな生活を見て、大丈夫なのかなと微かに心配もしていたが、それまでそれなりの額を稼いでいたはずなので、蓄えに余裕があるのだろうと思い込むことで目をそらしていた。
それに私が何を言ったって聞きはしない。
母には自分は数字に強いという謎の自負がある。
子供の頃、そろばんが出来なかった私を、お前は数字に弱いとさんざんバカにした。
そりゃ私は数学はからきしだけど、そろばんってさ、器用さだと思うんだよ。
私はピアノも弾けないんだよ。(両手を別々に動かせない。でもキーボードは打てるのよね、不思議ね)
無理じゃん。
(妹はピアノも弾けてそろばんも出来たけど成績がよかったわけではないので、そういう意味でバカにされていた)
そして、父の方も金はあるだけ使ってしまうタイプの人だった。
父に関しては違う大事件が起きたので、いつか書きたいと思う。
キリがないのでここでは触れないね。
たぶん、世間的に見れば金に関してはちょっとおつむが弱い二人だ。
人生の間で、複数回、他人の連帯保証人になって借金を肩代わりしている。
実家をひっくり返していたら不渡りになった手形やら小切手やらもわんさか出て来た。
全てを自分たちでちゃんと働いて返して来たのは偉いと思うけど、そういうのって一度で懲りるじゃないか。
なあ。
私はそういう両親を見て育ったので、絶対に借金はしないと決めた。
車も現金一括。
ローンを組んだことは人生で一度もない。
借りた金を返さなきゃいけないというプレッシャーは人を追い詰める。
金の争いは本当に醜く、辛い。
娘にはトラウマになるくらい染みついているのに、本人たちは何処吹く風で、個人経営の居酒屋に入り浸っては酔っ払い、金を貸したりして、返してくれないといったトラブルを始終抱えていた。
さて。
商売を畳んだ後、現役時代と変わらない生活をして来た母の蓄えは、なかったわけじゃないが、余裕があると思える金額ではなかった。
というのも、本人は常にもうすぐ死ぬと思って暮らしているから全く想定していないだろうが、周囲を見てみると90歳を過ぎても結構元気だし、生きてるのだ。
今の老人って。
冗談でなく、100歳を視野に入れて資金計画を立てなくてはいけないと、私は考えた。
現在、介護が必要な老人が入居する施設として、公的施設ならば特別養護老人ホーム、介護老人保健施設、介護療養型施設などがあり、民間施設だと介護付き有料老人ホーム、住宅型有料老人ホーム、グループホームなどがある。
とにかく種類が多岐にわたるが、田舎ではその種類が限られてもいる。
しかし共通しているのは、費用が安価な公的施設は入居条件が厳しく、何より枠が空いていないのでどこも順番待ちの状態であるということのようだ。
更に要支援2の母が入れる先はかなり限られる。
その上、家族である私たちの利便性を考えると、ほぼ一択だった。
幸い、その施設から受け入れ可能だという返事を頂いたので、退院のリミットに焦りながら、急いで準備をした。
母が入居した施設は部屋を借りて、そこに住みながら介護サービスを受けるという形式のものだったので、ベッドや家具、電化製品などは全て自分で用意しなくてはならなかった。
この場合の自分というのは、母ではなく、私と妹だ。
主に私だ。
ベッドは自宅で使っていたレンタル品を移動して貰い、母の入居にあわせて生活が出来るようにあれこれ運び入れて整えた。
車椅子も購入し、準備万端にしてリハビリ病院を退院し移動した。
マンションタイプの物件で、部屋は南向きなのでとても日当たりがよく、暖かい。
エレベーターで移動出来、車椅子のまま入浴出来る大浴場もある。
もちろん介助もお願い出来る。
食堂があり、三食食べられる。
おやつだってある。
転倒リスクも自宅よりずっと少ないだろうし、看護師さんも常駐していて服薬管理もお願い出来る。
というのは、娘の私から見た利点である。
母はもちろん、ありがたいなどとは一言も言わず、不満を漏らした。
リハビリ病院のような設備がなく、ケアを受けられないことが気に入らないという。
もう少しリハビリ病院でリハビリを続けたい。
そうすれば歩けるようになるはずだ。
そう言うのだが、病院にいられる期間は決められているし、その期間は満了したし、要支援2では介護点数を日常のケアで使い切ってしまうから、外部のリハビリに通うことも難しい。
いや、母の望みを叶えることは出来る。
金があれば。
金があればな!
お前は使っちまったがな!
不満たらたらの母に、私はエクセルで作成した今後二十年間の支出入予定表を提示し、今の環境が精一杯だと諭した。
数字に強いという母の為に数字がいっぱいの資料を作ったのに、「そんなのは頭に入ってるから要らない」と突っ返されたが。
入ってるなら分かるだろうがよ!
母が自宅に戻りたいと言わなかったのは、リハビリ病院にいる間に父が入院していたからだ。
それとなくにおわされても、一人であの家で暮らせるのかと問い返せば黙っていた。
意地悪な娘だという罪悪感に苛まれながら、どうして娘だというだけで、ここまで尽くさなきゃいけないのかと理不尽さに鬱屈とした気持ちになった。
自分のことじゃないか。
自分で考えてくれよ。
時には面と向かって言ってみたが、知らない分からないあんたが決めたんだろうで終わってしまう。
親は捨てられないわよ!と吐き捨てる母に、いや、その気になれば捨てられるよと正直に返した。
自分でもひどいなあと思うけれど、私の状況(犬が倒れて一ヶ月近く寝たきり生活を送った後、間もなくして今度は父の様子がおかしくなり事件勃発強制入院、それと並行して母の施設探し&入居準備という過酷な日々)は話して聞かせているのに、バナナ持って来いだのアルフォート持って来いだの、どう考えても急ぎではない用で疲弊させられているので、お互い様だろう。
それに聞いてないしね。
圧倒的に聞いてないしね。
そんな母が共同生活にすんなり馴染めるはずもない。
引っ込み思案で言いたいことも言えず、閉じこもってしまうパターンでは決してないのはお分かりだろう。
施設スタッフからそれとなく無理だと言われても強引にねじ曲げる。
そのクレームはこちらに来る。
ずっと謝っているのは私だ。
謝るのはただだ。
私が頭を下げれば済む。
それでことがスムーズにいくのならばと、どこでも「すみません」と言い続けているけれど、正直疲れる。
どうして私がという思いが心の底にあるからだろう。
身が削がれていくような感覚。
犬の看病で一時はやつれたものの、新米効果でリターンした脂肪に寒風が染み渡るぜ。
終わりの見えない苦労の日々で、自分の老後について思いを馳せては暗い気分になっている。
祖母や母の病歴からすると私も脳関係の病気になる可能性は高いし、足腰も弱るはずだ。
運動に縁のない、インドア大好きオタクだ。
今でも同年代の諸氏よりも軟弱な自信がある。
動けないような状態になったらどうするか。
不謹慎な話だが、医療保険が適用される状況と、介護保険適用の状況では、老後は大きく違う。
身体だけがどんどん不自由になり、なかなか死ねないまま、老いていくことへの恐怖は大きい。
その為、十分と思われる金を残したりしても、私のような庶民が用意出来る金額では、社会保険料や物価の値上がりに追いつけない。
両親を見ていても、それなりの額を用意しておいたら、それなりの額の社会保険料を徴収されるので、結局、苦労は変わらないのだ。
生きるのって、本当に厳しい。
宝くじ、当たらないかなあ。
そして。最凶な一年を締めくくるように、母がコロナで入院した。年に四回も入退院手続きした長女の私は疲れ切っている。
神様…やっぱり…そろそろご褒美に宝くじを当てて下さってもいいのではないでしょうか…。
罰しか当たってないんですけど…?