本日のレトリック1 -平野啓一郎-
これは不定期に小説やエッセイなどから目に留まった文章を紹介していく記事です。
今回は平野啓一郎の「本心」から抜粋します。この文はレトリックについて他人に語りたいときにしばしば引用する、私にとってのとっておきの文です。
この文章は主人公の過去、小学生の時代に女の子を助けた後の文章です。
まず「全身を火傷したような沈黙」ということですが、まず「火傷したような」と直喩が入っていますが、その直喩がかかっている名詞が「沈黙」。つまり擬人法が使われています。沈黙という状況、あるいは現象に対し火傷をさせ、触れるのも憚られるような、痛々しく見るのも辛いようなイメージが沈黙という言葉に付与されてます。
さらに「闊歩していた」ですが、闊歩しているのは「沈黙」です。ここも擬人法。実際に闊歩しているわけではないので隠喩でもあります。
闊歩は堂々と大仰に歩くというイメージなので、沈黙という言葉と矛盾しています。これは撞着語法という手法です。全く逆の言葉を組み合わせることによって大きな効果を生み出します。
有名なところでいうと、夏目漱石の「こころ」の文があります。
『もう取り返しがつかないという黒い光が、私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横たわる全生涯をものすごく照らしました』
「黒い光」。聞いたことはないでしょうか。
撞着語法を語るときよく挙げられる例です。光は明るいものです。光と聞けば大体白を思い浮かべると思います。光は白であり、闇は黒である。その特質上、黒い光というものはありません。しかし漱石は「こころ」において先生の心情を描写するときに「黒い光」という言葉を用いました。ここでは細かい考察は省きますが、実に明快で美しい例です。
さて、平野啓一郎の例に戻りますが、沈黙という極限まで静かな状況が、大胆で騒がしいイメージの闊歩という言葉と結びついている。それは皆が息を呑んで黙り、沈黙が場を支配しているという状況を非常に美しく、流麗に表現しています。
何より驚くは、たったこれだけの短い文章のなかにこれだけのレトリックが綺麗に収められているということです。
レトリックは装飾的なものなので無駄に多用すれば文章はうるさくなり、狙いすぎな印象になってしまいます。しかしこの文章は非常に綺麗に収まり、言葉と言葉に相互作用が起こり、感嘆するほど見事な文となっています。
私はレトリックを見かけるとすぐに飛びついてしまうのですが、これほど見事な例はなかなか見当たりません。
「本心」は現代の社会問題や展望に即した面白い小説です。今回紹介した文以外にも素晴らしい表現はあるのでぜひ読んでみてはいかがでしょうか?
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