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十一月、靡く夜燈

 鼻の頭のにきび跡を擦っていると、Eが僕を見た。仄暗い居酒屋のテーブルの隣で、彼女は僕の方を向いて笑っていた。
 なんとなく目を逸らして、空になったジョッキを口に当て、そこで初めて中身がないことに気がついたようにテーブルに置く。少し経ってからまた彼女を見る。彼女はもう僕を見ていなかった。
 煙草で煙たくなった個室で、六人のうち三人は既にうつらうつらしていた。向かいの席のTのライン通知が鳴り、液晶には2:17と表示されていた。始発まで帰れそうもないなと思い、だらだらとしている仕事の話を遮ってTに煙草をもらった。眉間に皺を寄せながらTが上に吐く煙がやけにゆったりと立ち上り、その存在を紛らわすかのようにさりげなく換気扇に溶けていく。視線をTに戻すと同時に吐いた煙で彼の顔は隠された。

 店を出てラーメン屋へ向かう途中、参道が光で彩られた神社を見かけた。気になって歩を緩めると、集団の最後尾のEと並んだ。
「神社?」と彼女は眠そうに聞いた。
 僕は頷き、右後ろを振り返った。参道は既に見えない角度になっていた。一点透視のそれを見たときの映像は頭に焼き付いているのに、深夜の繁華街の光に飲まれて存在が隠れてしまった。
「今からラーメン、罪深いね」欠伸を噛み殺しながら彼女は呟いた。
「さっき、なんでこっち見て笑っていたの」
 彼女は自分の鼻に細長い人差し指で触れ、僕の目をじっと見た。
「鼻になんかついてたから」
「これ、にきび跡だよ」
 彼女の少し傾いた金縁の眼鏡がやけに透き通っている。悪戯に笑い、前を歩く集団に小走りで追いついた。
 僕は下を向き、ガラスレザーのローファーを見た。一昨年奮発して買ったローファーのかかとは既に破れかかり、ソールも剥がれてきていた。靴の状態が気になりだして立ち止まった。
 ふと、帰りたくなった。集団は赤い暖簾の前で立ち止まり、メニューの看板を眺めている。Tが僕を手招きして店に入ると、集団もぞろぞろと入っていった。最後に入ったEの流し目を見て、僕は踵を返した。


 高校一年生の夏、ある女の子と部活帰りによく一緒に自転車で帰っていた。きっかけは思い出せないが急に仲良くなり、一度部活後に駐輪場で会ったのをきっかけに頻繁に帰路を同じくすることとなった。
 ある土曜日、午前練を終えた二人は少し回り道をして、公園にある池の前の四阿で休んでいた。真ん中に大きな机があり、四周にベンチが置かれている。彼女は僕の座るベンチの90度まわった位置に座っていた。
 僕はその日、彼女を怪訝に思っていた。彼女はいつも、少し恥ずかしくなるくらいに目を合わせて話す。その日は彼女は常にやや横を向きながら話していた。憂き顔とも恥ずかしそうな顔ともつかない表情からは、当時の僕は何も読み取れなかった。ただ、いつも二人の間にあった何かが欠けているような気がした。
 ランニングしている男性が目の前を通り、彼女がそれを目で追う。長い睫毛で隠されていた目がのぞき、初めて彼女の切れ長な目が垂れていることに気がついた。視線をずらし、彼女の頬骨のてっぺんにあるほくろを見た。僕は自分の胸に手を当て、心音を聞いた。
 帰り道にマックで買ったハンバーガーを食べながら、来月の祭りの話をした。この地域で最も大きな花火大会であり二万発の花火が上がる。地元きっての一大イベントであった。去年はともに行けず、今年はいく予定はあるかと聞いた。すると、沈黙が降りた。
 彼女の耳にかかった髪がそっと降りた。彼女が顔を動かさずにこちらを見たとき、彼女への違和感は焦りに変わった。
 雲に隠されていた太陽が顔を出し、池の反射が目を刺した。僕は思わず目を細めた。四阿が池の反射で揺れ始めた。彼女は鼻の先を人差し指で撫でながら僕を見た。
 僕が告白をすると、彼女は徐ろに手を下ろした。彼女の鼻の頭は赤くなっていた。



 それは品のない神社だった。真夜中に陰が落ちていなかった。安っぽい光が宙に浮き、背の低い建物が並ぶ。参道というよりも奇妙な裏路地のようで、不思議と不気味さはなかった。奇妙な静けさが川のように滔々と流れていた。少し歩くと小道に隔てられ、階段の上に拝殿がのぞいた。賽銭だけあげようと階段を登り、五円玉を投げ、二礼二拍手一礼をする。目を閉じていると、どこからか酒のコールが聞こえた。目を開け、五円玉が吸い込まれた賽銭箱を見つめ、暫く立ち尽くした。

 来た道を戻り、まだ開いている店を眺めながら歩く。キャッチを躱して大通り沿いを歩き、交差点で立ち止まる。全て赤になった信号を見てくしゃみをし、鼻を掻いた。視界に入ったファミリーマートに意味もなく入り、何も買わずに出ると青信号が点滅している。小走りで交差点を渡り、目の前にいた大柄な男の後について歩いた。彼は歩道から外れ、丁寧に白線をなぞった。しばらく彼の足元を注視しながら歩いたが、汗と香水が混じったにおいに眩んで歩道へ避けると、駅が目の前にあった。そこにいる人は皆立ち止まり、眠そうにしているか、スマホを触っているか、数人で雑談をしていた。ロータリーを一周すると、ちょうど駅のシャッターが開いた。
 改札をくぐってホームへの階段を登ると、ポケットのスマホが震えた。Tからの電話だった。電源ボタンを押し、鞄から小説を取り出す。3号車の印の前で止まり、栞を挟んでいるページを開いた。十分程度読んだが目が文字を滑り、ずっと同じページを開いていた。予定だとあと2分で電車が来る。小説を閉じ、コートのポケットにしまう。イヤホンを取り出し、毎日聴いている曲を流す。目を閉じると同時にアナウンスが流れ、電車の音が聞こえた。数秒待って目を開ける。すると、ホームの向かいにEがいた。呆然としていると、彼女の姿を赤い電車が掻き消した。

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