見出し画像

あにはからんや

 先日、素敵な文章を書く方と友人になった。その方と初めて会ったとき文章の話で盛り上がり、そこから色んな価値観を含めてお話をした。
 その方(以降Nさんとする)の文章を読んで思ったのは、すごく綺麗な文章だということだった。だけど、綺麗な文章ってなんだろう。世に出ている小説やエッセイや記事や展評のようなものだろうか。確かにそのような整い方をしているようにも思えるが、面白いと思ったのはそれが意図して整えられているのかがわからなかったところだ。文章を書く基礎がしっかりしているのか、まとまりへの感覚が鋭いのか。
 あなたたちは色々な話し方をする。何か話したいことがあったとして、とにかく思いつくままに蛇行しながら話す人、一つ一つ要素を整理しながら順を追って話していく人、最初に俯瞰的に構成を考え、色んな話を持ち出しても最終的に辿り着くべきところに帰結させる人。それは文章にも言える。
 大学時代の友人で、一つ目がすごく上手、というか凄まじかった人がいる。彼(以降M)は普段からマシンガンのように話し、思いつくがままに話を展開していく。話していても凄まじめである。Mはクレバーなので話はぐちゃぐちゃになってしまうこともなく、だけど独特な魅力の衣が剥がれることはない。それが文章だと一際輝く。あまり類を見ない文章なので、私は密かに彼を羨んでいた。
 Nさんの書き方(というか書き進め方)は恐らく1と3の間だ。いや、間というよりは両方の性質を持っていると言った方が近い。言ってしまえば女性作家のような雰囲気。最近で言うと九段理江が思い浮かぶ。
 第166回、芥川賞ノミネートされた「School girl」(最終的には次点と記憶している。翌年改めて「東京都同情塔」で芥川賞を受賞する)は現代版「女生徒」と言われ、平野啓一郎が賞に推したというのを知って読んだのだが、太宰治の「女生徒」が大好きだったこともあり、実際に読んで大いに衝撃を受けた。社会の潮流(Schoolgirlで言えばAIや社会問題・・・・)を織り込みながら、エスプリ、というかアイロニーの効いた文体と織り交ぜて話を展開していく。のちに同時収録である「悪い音楽」にどハマりし何度も読み返す羽目になるのだが、そちらの方が特に顕著である。
 Nさんも文体は整っているが、取り繕ってはいないので変に硬くならず、かつ個性が滲み出る。内容が詰まっていて、かつエスプリの効いた表現もする。ゆったりと流れるようで、かと思えば鋭い描写もする。

 文章を書く友人といえば、最も近いところにもう一人いる。彼(以降L)は色んなものを見ているし、色んなことを知っているし、色んな話をすることができる、尊敬せざるを得ない友人である。しかし僕がLを好きな理由は、彼が自分の言葉で話すからだ。
 引き合いに出してしまって申し訳ないが、他人の言葉で語る友人がいる。彼とて僕よりも知識に幅や深みがあり、広大さには舌を巻くしかつ色々な体験をしているのだが、彼はものごとを語るときにそれが社会でどう評価されているかをベースに話す。それに反する意見を言うことは滅多にない。
 Lはコンテクストとしてそういう話もするが、最後には必ず自分の言葉で話す。何に触れ何を思ったか。あの場面にはどんな意味があったのか。よく見て気付き、咀嚼し、伝える。
 文章では彼は少し揺れる。知的な文章も書けば生々しい部分を曝け出すことすらある。だが今まで彼に触れてきた分、それらがわかる。彼はそういったすべてを文に起こすのだ。

 Nさんとはまだ一回しか会っていないので断言はできないが、Lと話しているときと似た感覚を覚えた。Nさんもまた様々なことを絡めて衣とし、文章として生まれ落とすのだろう。
 十月には、いつも良い出会いがあるのだ。

 Lは文章を書く行為を苦行と言った。Mは排泄と言った。私は恍惚と応えた。文章を書く人には各々のスタイルがあり、理由がある。
 私は友人を多くは持たない。故に人付き合いが上手な人を羨むことがある。だが、文体というだけでもかように挙げられる友人がいる。文章に触れることはその人の表皮を透かすことと同義だ。話さなくとも思考が揺蕩う。会話では出てこない深淵が覗く。顔の見えない人と見える人の文章では読む側の捉え方も変わる。小説家を友人とする人は、彼の文章をどう読むのだろう。

 そういえば、Lが一時期ハマっていた向田邦子のベスト・エッセイ集を古本屋で見かけ、購入したことがある。向田邦子の文章を読んだときもまたとても綺麗だと思った。描写は比較的淡々としているし、エピソードも特に複雑でも劇的でもない。されども美しい。私如きではとても筆舌に尽くせない。しかし、Lがあのように書こうとは!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?