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一話 きんせ旅館カフェ・バー 酒の娘

 広々とした店内に座席はごく限られていた。ライトやキャンドルの灯りは、包まれるように抑えられており、飴色《あめいろ》の床が仄かに照り返している。まどろみを誘う薄闇を奥へ進んだ。ステンドグラスに月光が差している。窓辺に置かれた一人用のソファー。あそこにしよう。
 腰を沈めて店内を見渡すと、ダンスホールだった名残りだろうか。透き通った紳士淑女が談笑し、踊り合っている気がした。
 気がするだけで、そこまでの力はない。私に視えるのはごく近辺の、ほんの少しの過去だけだ。
 ゆっくり歩いてきたマスターに夜のコーヒーを注文した。
 淹れたてのコーヒーが届き、冷めるまでの間。私は視る。
 灰青した一人の淡い幻燈を。
 今夜はカウンターの端で耳たぶを摘《つま》む娘がいた。うなじの半ばまでしかない短い髪を流して、左手で器用に臙脂《えんじ》のピアスを外すと、娘は細い指先をグラスの上に運んだ。親指と人差し指が離れて、ピアスが琥珀《こはく》の酒に落ちた。
 きんせ旅館のカフェ・バーは、娘のピアスと口にする酒を気に入ったようだ。色付きは残された記憶の中でも特別で、店の性格が表れる。灰青が思い出ならば、鮮やかな色付きは性癖だ。
 氷の回る音がして、ピアスは酒の底に沈んだ。
 私はコーヒーを一口啜《すす》った。まだ温かい。
 娘の斜め後ろからでは顔を窺《うかが》えないが、立ち上がるには早い。
 娘はグラスを傾けて、喉を揺らした。グラスがカウンターに置かれるとピアスも酒も消えていた。
 かきり。
 小さくこもった音がして、娘の耳たぶが震えた。噛んだのだ。
 私は立ち上がり、カウンターへ向かった。
 灰青の姿が薄くなっていく。娘は消える寸前に再度、喉を揺らした。砕けたであろうピアスは飲み下された。
 私は娘の喉から視線を上げて、顔を見た。
 表情は、半分だった。眼差しも、鼻筋もない。真朱《まそほ》の唇だけが薄く撓《たわ》んでいた。微笑みが微かに震える。唇の端を私は見逃さなかった。わからないほどに、悟られないほどに、巻き込んでいる。唇の裏を浅く噛んでいた。
 娘の嘆《なげ》きを、哀しみを、私は纏《まと》えない。だけども娘が店にいて、店が娘を覚えたのを知っている。
 祖父はそういう女を幾人も描いた。小林かいち。大正から昭和にかけて活躍した抒情の画家。
 かいちの力を、私はほんの少しだけ受け継いでいる。
 私はよいち。小林よいち。京都に暮らす小説家である。

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