一双
十年ぶりに連絡してきた稲本典子(通称テンコ)に懇願されて、物部索朗は霧白村の古民家で一週間を過ごすことになった。
電車内に夕日が射し込んだ。海沿いを走るローカル線に乗っているのは、私の他に親子らしき女性の二人で、臙脂色の長椅子はとても空いている。床の木目がより縦長に見えて、自ら乗車したのに、運ばれてしまうように感じる。 背中の車窓へ首を回した。ガラス窓の中央は菱形に色を抜かれて、四隅は白く擦られている。顔を寄せて菱形を覗くと、車内と同じ茜色に染まった木々が後ろへ流れていった。体が揺れる。古い車両なのだ。手入れをされていても無理は利かないのだろう。改めて車内を眺め、茜が外より濃いのに
気さくな主人の深淵を覗いた気がした。 どこにでもありそうな日本家屋の中は、玄関から座敷、屋根裏に至るまでヒトカタ、ヒトカタ、人の形が展覧されていた。みっしりと濃厚に在している。 ともすれば床下にまでと考える。板を剥がした先の湿った土に並べられているのではないか。ぞんざいではなく、そっと寝かしつけられている。 妄想をふり払い数えてみた。十体、三十体、五十体……椅子に座っていた童子は何体だったか。鏡に映っていた遊女は数えたか。ガラス棚のフランス人形は、縁側に佇んでいるのは
山の麓はまだ寒く、春は降りていなかった。 春秋山荘の板間は靴下越しでも冷たい。部屋の明かりは抑えられ、危うい眠りを誘う。灯ったのは狐で彩られた品々だった。壁にかかった狐面に、小机の孤頭根付け、床の間の狐玉、座敷には尾のある少女が横たわる。 けぇん。 庭で鳴き声がした。 縁側に立つと、羽衣がたなびいている。 春が、揺れて微笑っていた。
ほっておけばいいと思っていた。何ができるでもなし、まして見世物にするなど冒涜《ぼうとく》だと思い込んでいた。 女の嘆く姿を絵に残したところで、当人の涙は乾かない。 抒情画家だった祖父。小林かいちを軽蔑《けいべつ》すらしていた。 私は愚かな潔癖《けつぺき》だった。 今夜、訪れた店は烏羽色《からすばいろ》のテーブルと椅子が整然と並ぶフランソワ喫茶室。椅子の座面と背凭《せもた》れは深緋《こきひ》の革張りで仕立てられている。 私に抒情巡りを決意させた店。 頼んだコーヒー
彼岸華 手水鉢に浮いた彼岸の花は、此岸を水面に映していた。 あちらはこちら。こちらはあちら。 そちらはどちら? 響いた問いは、内なる想いか、外なる告げか。 岸は遠く、泳ぐ日々。
花屋の二階で血のない人が観られるという。 訪れると和装の老紳士が迎えてくれた。 「こちらがメインの作品なのですよ」 階段を回り込んだ壁に、大きな一枚が飾られていた。女が写っている。 球体の関節に肉の体を合わせた裸の女。 纏っているのは足首にレースを回したソックスにメリージェーンのみ。うずくまり、傾げた頭を抱えて、虚ろな目をしている。瞳に焦れはない。 私が目を止めたのは、腿で押さえた乳房より右手の甲と脇腹に浮き立つ骨だった。あそこは人だろうか。それとも人形か。 花
広々とした店内に座席はごく限られていた。ライトやキャンドルの灯りは、包まれるように抑えられており、飴色《あめいろ》の床が仄かに照り返している。まどろみを誘う薄闇を奥へ進んだ。ステンドグラスに月光が差している。窓辺に置かれた一人用のソファー。あそこにしよう。 腰を沈めて店内を見渡すと、ダンスホールだった名残りだろうか。透き通った紳士淑女が談笑し、踊り合っている気がした。 気がするだけで、そこまでの力はない。私に視えるのはごく近辺の、ほんの少しの過去だけだ。 ゆっくり歩い