息子の歯が取れた
息子の歯が取れた。
初めての乳歯が取れたのだ。
歯の抜けた息子の口元を見ていると、涙が出るほど感動した。
これまでも、息子が初めて歩いたときや、初めて会話が出来たときにも感動はした。
しかし、乳歯が取れたのを初めて見たとき、それまでと違った感覚にとらわれた。
その感覚の理由を探ってみてわかったのが、僕自身の記憶に残る成長だったからだ。
僕が初めて、歩けたり誰かと会話が出来たりしたときの記憶はない。
ただ、何本目の歯かは覚えていないが、歯が取れたときの記憶はある。
だから、これまで以上に感動したのだ。
僕の歯がとれると、父と母は祝い事でもあったかのように喜び、上の歯が取れると、「スズメの歯と生えくらべ」と言って、家の屋根へ歯を投げ、下の歯が取れると、「ネズミの歯と生えくらべ」と言って、軒下に歯を投げていた。
幼い頃の僕は、たかだか歯が取れたくらいで父と母はそんなに喜び、謎の儀式をしていたのかが不思議でならなかった。
だが、親になってみると、目に見える子供の成長は自分のこと以上に嬉しい。
だから親は喜び、その成長を称えて謎の儀式をしていたのだろう。
もう一つ親になってわかったことがある。
それは、嬉しさと同時に寂しくもあるということだ。
大人になっていくということは、親の手元から離れていくということだ。
いつまでも親に甘えているばかりではないことはわかっている。
だが、もう少し親にまとわりつく無邪気な息子を見ていたい。