あのときの温もり【危機】
お酒を飲んだことによる激しいのどの渇きで目が覚めた僕は、すぐに子猫の入っている段ボールを覗き込んだ。
子猫は相変わらずミュウミュウと鳴いているが、その声は昨日より明らかに弱っている。
すぐに動物病院に連れて行かないとヤバいことは分かったので、すぐに外出の準備に取り掛かった。
子猫を運ぶのに、段ボールだと自転車のカゴに入らないので、スポーツバッグにタオルを敷き詰めて運ぶことにした。
1階に降りると、家族はすでに朝食を済ませていた。公務員の父は出勤し、製材業を営んでいる祖父母は、山に出ている。
庭を見ると、母と妹の佐知が洗濯物を干していた。
今のうちだと思った僕は、勝手口からそっと出て、静かに自転車を滑らせた。
地元に1件だけある動物病院は、うちで飼っている犬の予防接種に何度かは来たことがある。
ただ、一人で来るのは初めてだったので、少し緊張していた。
受付を済ませて診察室に入ると、ひげダルマが待っていた。
ひげダルマとは、この病院の院長のことで、太って丸々とした顔に、モジャモジャとひげを生やしているので、地元の人たちは大人も子供もそう呼んでいる。
僕は、バッグに入れてあった子猫をひげダルマに見せて、子猫を拾ってからここに来るまでの経緯を説明した。
子猫を取り出したひげダルマは、あちこち触ったり、聴診器を当てたりしているうちに、どんどんと表情が険しくなってきた。
「こりゃいかん」
ひげダルマは、慌ただしく子猫を連れて奥の部屋に消えていった。
僕が診察室でしばらく待っていると、ひげダルマが手ぶらで戻って来た。
「あの子たちは今日預かるから、君はもう帰りなさい」と、ひげダルマは落ち着いた口調で言った。
何が何だかわからなかったが、大人に質問をする勇気がなかったので、僕は、言われるがまま動物病院を出た。
「ただいま」
僕が玄関のドアをガラガラと開けると、「翔馬、ちょっと来なさい」という、明らかに怒っている母の声が、キッチンから聞こえてきた。
キッチンへ入ると、母と佐知がダイニングテーブルで、お茶を飲んでいた。
「あんた、昨日から何をコソコソしよるんな」
母の口調はとても厳しく、ごまかすことは出来ないと観念して、子猫のことを洗いざらい白状した。
子猫のことを聞いた母は、一つため息をついて、「そんなことやと思ったわ」とつぶやいた。
「あいつらは俺が面倒見らんと、死んでしまうんよ。猫の世話は誰にも頼らず全部自分でするけん、飼わせて」
もし子猫たちを野放しにしたら、確実に死んでしまう。
そうなれば僕が殺したようなもんだ。
猫は嫌いだが、何一つ穢れのない小さな命が、自分のせいで尽きてしまうというのはどうしても我慢できなかった。
母は、しばらく考えこんでいた。
「全部自分で面倒見るんやったら、飼ってもいいよ」
母は渋々承諾した。
「お兄ちゃん、子猫は今どこに居おるん?」
佐知がワクワクした表情で聞いてきた。
「今日はひげダルマの所で入院や」
僕は、子供っ気の抜けない3歳年下の妹にかまうのが面倒くさくて、ぶっきらぼうに答えた。
「病院代も自分で何とかしなさいよ」
母が間髪入れずに言ってきた。母は、どこまでも厳しかった。