![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/36121553/rectangle_large_type_2_a3894597e8d18c9af15300de6970b2cf.jpg?width=1200)
サラリーマン時代に人間観が大きく変わった出来事
私が一新塾の存在を知ったのは1995年。サラリーマン9年目の時でした。当時、住宅メーカーの都市開発事業部でまちづくり関連の仕事をしていました。
「ふるさとはどちらですか?」
私がいつも問われて戸惑う質問です。実感としての故郷はありません。
私は中学に入るまでに、7回引っ越しています。父親が転勤族で、2年に一回、全国を転々としていました。
ですから、ふるさとのある人はとても羨ましくて。ずっと地域コミュニティという言葉にこだわり続けてきたのは、地域に根を下ろす実感を持てなかった渇望感、地域コミュニティへの憧れがあったからかもしれません。そんな思いが根底にあって、この仕事を選んだんだと思います。
私が入社したのは、バブルがピークの1988年。土地を買って建物を建てれば飛ぶように売れる時代、だんだんと入社の頃のように地域コミュニティへのこだわりを熱く語ることが減り、事業規模の大きさや利益額の大きさなど、唯物主義にのまれていく自分がありました。
そんな中、入社3年目に取り組んだマンション事業の体験は、私の人生観が変わる出来事でした。初めての企画責任者ということもあって、「これまで誰も手がけたことのない新しいコンセプトの住宅を実現させよう、何が何でもこの事業を成功させよう」との気負いがありました。
しかし、用地取得後、これまで2階建ての建物しかなかったところに6階建てができるということで、日照時間が減ってしまう近隣住民の方々の大反対に遭遇。数ヶ月たっても交渉の目処が立ちませんでした。
また、あと1ヶ月のうちに同意書をとらないと開発指導要綱が変更となり駐車場の付置義務の比率が大幅にアップするため事業そのものの実現が 不可能になるといった差し迫った状況になりました。住民の方々もそのことをよく知っていて、「私たちがあと一カ月ハンコを押さなければ着工できなくなるね!」と言われていて、万事休すの状況でした。
私は残りの一ヶ月間、現場に張りついて、毎日、近隣住民の三十数世帯のお宅に朝昼晩と通い続けました。何度も門前払いを受けましたが、とにかく無我夢中でした。一軒一軒まわり続け、残された期日がもう数日となりました。
その頃には私の近隣の方々への関わりも変わっていました。説得するための説明から、いつの間にか、「迷惑かけてごめんなさい。でも 建てたいんです!」そして、ここに新しい共同住宅ができたときのビジョンを語っていました。一人ひとりの個性とライフスタイルが尊重され、お互いの人生を応援しあう地域コミュニティがここに生まれている未来が私の内から湧き出てきました。
気がつくと、期限ギリギリのところで全員の方々から同意書をいただくことができました。 しかも、隣接してご迷惑をおかけしてしまう住民の方から「おめでとう。願いがかなってよかったね!そこまで建てたいなら応援したくなったわ!」とのお言葉。もう、私は本当にびっくりしました。まさか「マンションが建ったら引っ越します」と大反対されていた方から、しかも日照時間影響で最もご迷惑をかけてしまう方から、笑顔で祝福の言葉をいただくなど、夢にも思わなかったからです。
今だからお話しますが、実は、もし同意書をいただくことができなければ、辞表を出すことを覚悟していました。
しかし、私はこの日を境に大きく人間観が変わりました。寛容な住民の方々の人間性に触れさせていただき、私は救われる思いでした。表面的な利害を超えて、もっと深いところで、人間はわかり合える。胸の奥底にある思いを粘り強く繰り返し伝え続ければ受け止めてもらえる。一見困難な状況にあっても、熱き思いの火を自らが消さずにいれば人間は立場や条件を超えてつながり合える。そんな人間に対しての確かな信頼感を、初めて実感した瞬間でした。
(つづく)