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◇夕食後、散歩に出やうとすると

雨が降つてゐる。私は引き返へし

て机の前に座つてみた。そして、讀

みかけてゐる小説集を讀みづゞけ

た。それは、谷崎潤一郎といふ作家

の書いた、「人面疽」である。讀ん

でゆくうちに私はそれを恐ろしく

氣味の惡い小説だなと感じだした

◇雨が激しく庭の土をうつ音が聽

江る。夜が更けていつた。私の横

には、長い間病床にある父が、退

屈さうに夕刊をひろげてゐる。私

は父の寢床の方をじろりと横目で

みた。それでも、夕刊を讀んでみる

だけの元氣が、父にはでたのだな

――私は、その父をいとしく思ふ

よりも、未だぐず/″\と生命が蠢

めいてゐるのか、といふやうな、或

る憎惡をふくんだ、煩はしさを感

じたのである。そのあとでは習慣

のやうに、私は、父子の關係にま

つはる、ある本能的な良心の働ら

きに銳くさゝれた。肉親に對する

不徹底な反感――私はその氣持に

苦しめられたのである。

◇私は不氣嫌に障子をあけた。病

人のために私の家では、もう六月

だのに未だ障子をはづさずにゐる

私は雨戶を一枚あけてみた。高臺かうだい

にあるそこからは、都會の雨夜の

空に、ぽぅッと明るくにじんだ街

の方の燈火のかたまりが映つてゐ

る。雨脚が白く光つて庭の紫陽花

の大きな花をゆすぶつてゐる。雨

戶の隙間から、室の明かりがそれ

だけの大きさの投影をつくつて、

庭の一部をうきだしてみせた。そ

の明るみのなかに、一匹の大きな

ひきがへるが、自分に敵意でもあるよう

に睨みつけて、のつそりと座つて

ゐるのを私はみつけた。私はその

不氣味な動物の格好から、惡感を

かんじ、身震ひした。こゝにも父

に似た醜い生きものがゐる――私

はさう感じて一層不氣嫌になつた

◇油断はならぬ――私はさう獨言

を言ひ乍ら、雨戶をしめた。私は

机の前に戾つた。もう、本を讀む氣

持にもなれなかつた。私はたヾぼ

んやりと机に頰杖を突いて考へこ

んだ。

ふくろの鳴くのが聽江る。今までも

鳴いてゐたのだらうが、私には聽

江なかつた。何もせずに靜かにし

てゐると、その聲がなんとも云へ

ず、やるせない、淋しさを持つて、

ホー、ホー、と私の心にしみこん

で聽江る。あれはA家の森の古い

椎の樹で鳴くのだな――私はそん

なことを考へ乍ら、ふと父の方を

盗見た。父は輕い息をたてゝ眠つ

てゐる。胸のへんいつぱいにひろ

げたまゝの夕刊でおほはれ乍ら。

◇不意に梟の銳い叫び聲がきこ江

た。私はぎくりとした。そして耳

を澄してみた。それきり梟は鳴か

ない。私は、梟の身の上になにか

變つたことでもあつたのだな。可

哀想に――こう思つて又、父の寢

顔をみた。この父に萬一のことが

あつたとすると、自分は泣くかし

らん。いや泣かぬだらう。父の病

氣のために、自分は、若い自分は

貧乏の苦しみを、いやといふほど

苦しんでゐる。自分は或る女を戀し

たけれど、断はられた。それもど

うやら、この父のゐるためだとし

か、自分には思へない。事實、自

分はさう思つて、漸くその戀を諦

めたほどである。貧乏神め!――

私の感情は到頭、そこまで荒びて

きた。

 雨の音がひどく耳についた。

◇その翌くる晩から三晩ばかり、

私は梟の鳴き聲に氣をつけてみた

矢張、梟は鳴かなかつた。何か惡

るいことでもなければいゝが――

私は寢床のなかでそんなことを、

ふと思つてみた。


◇初夏のよく晴れた日がつゞいた

街をゆくのにも、おしつけるやう

に香の高い、若葉の蔭を好んで歩

るく頃である。

 或る日、父が急に戶外へでてみ

たいと言ひだした。私と母はそれ

をとめた。父は仲々私達の忠言を

きゝいれないのである。終には、

私達は、幼兒をだますやうな言葉

で、父の冒険をとめだてした。そ

れでも父は死んでもいゝから一ぺ

ん街に出てみたいと言つて、私達

に手を合せてみせた。「それほど仰

有るなら、私がついて行つてあげ

ませう」私は仕方なくさう言つて

みた。「いや、それでは嫌だ。わし

はひとりで歩るきたいのだから。

もう心配することはない。わしの

元氣はわしが一番よく知つてゐる

」父はさう云ひきつて、母に着物

をだせと催促した。私達は暗い顔

をし乍らも、父の言ふ通りにする

ほかなかつたのである。

◇父は太い杖にすがつて、ゆるゆ

ると歩るいていつた。私は父のあ

とから、かくれてついてゆくこと

にした。しかし、一町も行つた時、

父は不意に背後うしろをふりかへつた。

父の天神髯が、きらつと妙に光つ

た。そこは一本道だつたので私は

かくれることができなかつた。父

は私をみつけた。そして、杖を高く

上げ、それを、ガムシャラにふり廻

し乍ら顔中皺だらけにし、不機嫌

さうに大聲で私を叱つたのである

「馬鹿!きてはいけないぞ。お前

 らはわしの心を知らないのだ」

 父の大聲なのは私も慣れてゐる

だが、この時ほど大きな聲で私を

叱つたのは始めてゞあつた。私は

びつくりしてきまり惡るい思をした

◇父は又歩るきだした。覺束ない

足どりである。私はそこに佇んだ

儘、さつきの父の、滑稽なほどの

叱聲しかりごゑを思ひだし、笑ひ出しさうな

氣持でゐた。

◇父は時折、立ち止つて、空に向

つて偉張るやうにその老顔を、烈

しい太陽に晒らし乍ら、歩るきつ

ゞけて行つた。順禮のやうだな―

私はさう思つた。

◇二時間ほど後である。父は見知

らぬ人に救けられて歸つてきた。

父は歩るき疲れて、街通りの電柱

によりかかゝつた儘、泡を吹いてゐ

たさうである。その日から半年ほ

ど父は寢たきりになつてゐたが、

十一月はじめの或る日、息をひき

とつた。私は父の枕頭に座つて、

泣いたのを覺江てゐる。

       (十三年三月稿)


(越後タイムス 大正十三年四月六日 
    第六百四十五號 七面より)


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