【解説】夜光詩社について
2021年春、一錢亭の越後タイムスの記事を読んでいて、
下記記事の2箇所の部分が気になった。
「日本少年」の記事については国会図書館にマイクロ
フィッシュ版の「日本少年」を調べ、我同盟國(英國)
の少年義勇軍に送る文(「日本少年」大正四年(1915)
三月五日 第10巻4号より)を見つけだした。4等で賞
品は置時計だったようである。
「草川義英」名義での新聞投稿については函館市立図
書館にレファレンス相談してみることにした。函館市立
図書館のレファレンス相談は電子メールでは受付ておら
ず電話または手紙での受付なので手紙を出してみた。
程なくレファレンス担当のOさんからお電話をいただ
いた。一錢亭がどれくらい函館在住だったとか他に手が
かりがないかなどの問合せをいただいたのだが、その時
は何年函館に在住したのかわからず(後に7年とわかっ
た)、函館商業高校に在学したこと位しかお伝えできな
かった。
4月22日にOさんから返信があり、草川義英(菊池義
夫)が大正7年3月卒業の函館商業学校旧第19回生であ
ることと、大正6年9月と10月の函館毎日新聞をO さん
が探していただいたそうで、そこに草川義英の投稿があ
ることを知らせてくださった。
また函館商業学校の学生により作られた夜光詩社とい
う文芸クラブに所属していたことも分かった。
義夫の卒業後、夜光詩社の雑誌「銀の壺」9号に作品が
掲載されてることもOさんのリポートに書かれていた。
他にも投稿があるのではないかと予想できたため、5月
17日から23日かけて緊急事態宣言下の函館に渡り、実
地調査をした。結果は「菊池よしを」名義で1件、「草川
義英」名義で、15件、保坂哀鳥氏の義英宛の作品1件が
見つかった。
草川義英(菊池義夫)は大正5年、第一次夜光詩社の時
期に夜光詩社に入り、卒業する学年の8月から1月にかけ
て良く函館毎日新聞に投稿し、卒業後、第二次夜光詩社の
「銀の壺」に1回、東京から寄稿したようである。
次回からは「日本少年」の記事を再掲載したあとに、函
館時代の記事を掲載していきます。
函館市立図書館の司書のOさんへ、詳しく調べていただ
きましてありがとうございました、深く感謝申し上げます。
(追記)
2022年5月、国会図書館で函館毎日新聞のマイクロフィルムを閲覧していくつかの一錢亭の作品、関連記事を発見しました。
一つは上記「思ひ出(四)」の一錢亭が影響を受けたと思われる「盆踊を見に」という記事が函館毎日新聞のマイクロフィルムにあるか探してみました。
なかなか見つからなかったのですが、大正年8月23日の紙面にみうらちはるさんの「盆踊の夜」という投稿をみつけました。おそらくこれが一錢亭が影響を受けた「盆踊りを見に」だと思われます。
加えて発見されたものは、
大正5年8月24日 「靈峰の二日」・・・学校の友人三人で羊蹄山へ行った時のお話と思われる作品。菊池よしを名義。
大正5年12月2日 「車窓の幻想(一)」・・本州から函館へ渡って来た時の列車の中でのお話。(一)とあるが、(二)以降が掲載された形跡はありませんでした。菊池誉志雄名義。一錢亭の作品で間違いないでしょう。
大正5年12月6日 「冬近き空」・・菊池誉志雄名義。菊池誉志雄名義での作品は2篇のみ。
大正6年8月21日 「北都の光に」・・・夜光詩社短歌、草川義英名義。
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(田舎の冬)
(思ひ出四)
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