やあ宮原くん!―「抗辯する」に就いて―
△やあ、かんしやくもちの宮原君!僕
は君の僕に對するプロテストを微笑の
うちに讀んだよ。まァ君よ、さううす氣
味の惡い皮肉まじりな向ッ腹を立て給
ふな。
×
△君が二月四日のタイムスに書いた
「四ッの芝居」を君自身で劇評ではない
と云はれる以上、僕としてもはや何も
云ふことはない。が僕だつて自分の云
つた言葉には責任がある。立塲がある、
おまけに僕は君におとらないカンシャ
クもちだ――それらのためにもすこし
云はしてもらひたいのだ。
×
△僕の友達は君の「四ッの芝居」を讀ん
で「これはすこし駄々兒劇評だネ」と云
つた。今度君の「抗辯する」によつて「あ
れは芝居をみて、たゞ漫然と思つたこ
とをのべただけであつて、劇評だなん
て、トンデモ無い難有迷惑」だと君が云
つてゐるのを讀むと「フンあれは劇評
ぢやなかつたんだナ。然し君、宮原氏
は、「四ッの芝居」の終の方に、「以上は
私の「四ッの芝居」についての感想であ
る」と書いてゐたではないか。劇評ッて
君、この意味をのけて外に何があるん
だい。扨ては、宮原氏に一杯くはされた
のかナ、まるで狸みたいな男だネ」と僕
に云つた。
×
△宮原君!こんな風で、僕らは始
めつから君の「四ッの芝居」を劇評
だとばかし思つてゐた。だから、君
にもう一ふんばり親切な批評をお
たのみしたのだ。それが間違のお
こりだつたんだネ。僕の考へでは
宮原氏は立派な劇評が書けるだけ
の力を持つてゐるのに係らず。チ
ャ化してゐるのに違ひあるまい―
こう思つて君を信じたればこそ、
貧乏書生ッぽの僕は、あの手紙の
中で君に向つてあんな向不見な失
敬な言葉を吐いたんだ。
△ところが今度の君のプロテスト
で、この僕の豫想は見事にあたつ
たのだ。君のあのプロテストこそ
僕が望んでゐた劇評――宮原○○
氏といふ個性から生れた――だつ
たのだ。僕はあの、恐らくは知ら
ず/\のうちに立派な劇評の形を
つくつて行つた君の「抗辯する」の
内容を前の「四ッの芝居」の時に云
つて貰ひたかつたんだ。それだけ
なのサ。それで僕の氣は濟むのサ
△僕の頭なんかどこからみたつて
單純なものでせう!ネ宮原君!タ
イムスの讀者の中に僕のやうな頭
の惡い男がゐるとは、ヨモヤ君も
知らなかつたことでせう。だから
君よ。こんどから「四ッの芝居」の
やうな、芝居をみて漫然と思つた
ことを述べる時には、めんだうで
も、まづ題の横に「劇評に似て而
も劇評に非ず」と斷り書した方が
早解がしていゝと思ふがどうだら
う? 然し君のやうな芝居に對し
てあれほどの確りした意見を持つて
ゐる人はなるべく、ソンナ豫技に
耽らないで、あからさまに劇評の
奥の手をみせて呉れた方がドンナ
にありがたいことか知れない。僕
は更めて君にそれを望むよ!
△だが宮原君!君は脚本と舞臺藝
術とを、美しい蒔繪の重箱とその
中の餅に涎を流す關係とにたとへ
てゐるネ。これは君、君の心底か
ら出た言葉だとはどうしても僕に
思へないよ、君よ、重箱の中の餅
は、重箱の外からは見江ないもの
だぜ。君は舞臺藝術を重箱に、脚
本を餅にたとへて僕をやつッけた
つもりらしいが、僕は君の名譽の
ために、このたとへを君の本音だ
とは信じたくないよ。
△僕は六づかしい言葉を使つてク
ド/\しく云ひたくないから、三
ッの子供でさへ知つてゐさうなこ
とを一言だけ云つておかう。それ
は「脚本と舞臺藝術との關係は、
恰も蒔繪の重箱とその中の餅との
關係になんか、金輪際ひとしくは
ない」と云ふのだ。何故ならば、
舞臺藝術は脚本をいれる器物では
ないからだ。重箱は中に餅が入つ
てゐなくても重箱だが、脚本のな
い舞臺藝術は成立たない。僕は君
に、役者の巧拙と脚本の價値につ
いてそんな的外れな皮肉を云ふよ
りは、脚本と舞臺藝術とがその生
命の根底に於て、どんなに密接な
關連を持つてゐるかを考へてみて
欲しいと思ふ。
×
△僕が君に「役者の演出のどこに
缺點があるか。それをきゝたい」
と云つたのは、君が「四ッの芝居」
の中で、芝居に就いての感想をの
べてゐ乍ら、役者の技巧について
は何も云つてゐなかつたからだ。
所が「父歸る」へ來ると、君は脚本
に同感出來ないからと云つて、あ
れほど眞檢な役者の努力なんか十
把一束げにして、(宮原君よ、僕が
君に向つて君の所謂馬鹿口を叩い
たのはこゝを指しての話だつた)
引用した脚本の一節の中に丸めこ
んで了つてゐる。これでは君、有
樂座の脚光を浴びてゐる「父歸る」
の批評ではなく、「藤十郎の戀」と
いる菊池寛氏の脚本集の中ほどに
ある「父歸る」といふ脚本の批評だ
ナと思ふのは無理のない事だらう
△さうかと思ふと君はその次の節
で、イキナリ舞臺に眼を走らせて
ゐる、そして君の眼と眼との間が
ツーンとしてピントが狂ふことに
なる(これは君が幾ら頑張つても
君が「父かへる」の持つ力に感動さ
れてゐるとしか受取れない)――
それから君は、終ひの賢一郎が、
「お父様を呼び返して來い」と叫ぶ
瞬間の變化をどういふふうに表現す
るかをみたいと思つてゐたが、特
にその材料は提供されなかつたと
云つてゐる。
△僕の云ひ分のあるのはこの君の
態度だ。「材料を提供してくれ」と
いふ言葉は、これと意味は異ふが
やはり菊池氏の「温泉塲小景」の中
にある有名な科白だ。それと同時
に随分間違つた言葉だ。君は既に
脚本で、君の望む材料の無いこと
は知つてゐる筈だ。それだのに君
は、脚本と血脈上の一身同体であ
る舞臺演出から、何の材料を望ま
うとするのか?
△君はこゝで計らずも、「温泉塲小
景」の中の男が、昔の愛人に云ふ言
葉即ち「僕にあなたの五年間(?)
を信じ得るだけの材料を與へて下
さい」と同じ無理を望んでゐる。
脚本は舞臺活動のデッサンだとい
つて、脚本の印刷的發表を快しと
しなかつた里見弴だつて、脚本に
全く無いことを舞臺で役者に表現
しろとは云はなかつた。まして、レ
ーゼドラマの親分の倉百(倉田百
三の符號だ)にそんなことをきか
さうものなら、それこそ、ドヤシつ
けられるほどの大問題である。
△そこで僕は君に、脚本の一節な
んか引張つて來て、舞臺印象と脚
本批評とをゴッチャにぼかして了
ふのではサッパリ解が分らないか
ら、役者が惡るいのか、脚本が惡
るいのかハッキリ敎へてもらひた
かつたのだ。所がこんどの君のプ
ロテストで、それは、「父かへる」の
持つ「近代劇的臭氣」が嫌だといふ
君の性格――と同時にエクセント
リックな主觀――から割出した批
評であつたことが、漸く僕の頭に
入つて來た。
△要するに君にとつては「父歸る」
の舞臺効果なんかどうでもよかつ
たのだ。何故なら、君は既に芝居
をみる前から、「父歸る」の中の「内
容的價値」或は「道徳的價値」に鼻
もちがならなかつたのであるから
しかし演說ででも說くことの出來
る「父歸る」の「道徳的價値」を、戯
曲中に表現しても決して差支へな
いことは君も知つてゐるだらう。
又一旦、戯曲として上演された以
上、その價値は、當然舞臺藝術と
脚本と結合して生かされたものに
よつて判斷するより他ないことも
確かだ。だから、ステージエフェク
トと脚本との連帶責任である、春
秋座上演の「父歸る」の中から「道
徳的價値」のみを引張り出して來
て近代劇的嗅氣として、舞臺藝術
をも脚本をもひつくるめて非難し
たに等しい宮原君は、それだけで
「劇は綜合藝術である」といふ眞理
を忘れ果てゝゐるといふ結論にな
るのである。
△ともあれ、僕が中村氏に宛てた
半公開的な書簡の中では、たゞ劇
藝術に對する宮原氏の立塲を知り
たいと書いたのに對して、幸にも
あれほどの氏の辯明を頂いたこと
は僕の喜びである。宮原氏は宮原
氏の個性からの立塲、僕は僕の個
性からの立塲――これがハッキリ
解れば何も云ふことはないのだ。
△だが宮原君よ!僕は未だ二十歳
そこ/\の書生つぽのことだから
隨分ヤンチャな、失敬な言葉使を
して了つた、が決して君に惡意を
持つてゐるわけではない。むしろ
僕は何かしら君に甘へたい位のな
つかしさを感じてゐる。一圓何が
しのアドミツシオンを拂つて、有
樂座のアッパークラスから、谷底
のやうな舞臺を見下ろして來た今
までに顔を知らない君と隣り合し
てゐたことも一度や二度はあつた
らうに・・・そんなことを思ふとひ
とりでにセンチメンタルになつて
來るが――君よ、僕の未知のよき
友よ!お互に勵し合つて、忠告し
たし敎へられたりし乍ら、このま
つ暗な人生の中から、ほんたうな
ものを探し出さうではありません
か。 (一九二三、三、六)
(越後タイムス 大正十二年三月十八日 第五百八十九號 四面より)
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※サムネイルは菊池寛、似顔絵。加藤タカシさん作。(キリヌケ成層圏)
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